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「なんでおれまで行かなくちゃいけないんだよ」
ビゼが後ろでぶつぶつ言っている。僕はちらりと彼の方を振り向いた。口がへの字になっている。
僕の隣でホホが心配そうな顔をしているが、僕は小さく「大丈夫」と囁いた。
こういう風にあからさまに不機嫌を表している時は、本当はそうでもないのだ。だから僕は安心して返事をする。
「だからさっきも言ったでしょ?今日は私がいないから、その代わりだよ」
夕べは本当に大変だった。
ホホを連れて家に戻ると、ビゼはやっぱり最悪に機嫌が悪かった。
「…」
ものすごい目でにらまれた。
それでも薬の準備をしておいてくれたのはさすがである。彼はプロだ。
僕とビゼはすぐに翌日の準備をすることになった。もう夜中だ。一刻の猶予もない。
ホホも手伝うと言ってくれたが、体調不良の彼女にそんなことはさせられない。
「ホホ、私のベッドで寝ててくれる?」
どうせ今夜は徹夜だ。僕はその辺に転がって仮眠を取ろうと思っていた。
するとビゼは「ユイのはダメ。あんたはおれのベッドを使いな」と言って「ほら、こっち」と、ホホを招く。半眼で睨みつけながら呼ぶビゼに、ホホは「あ、ありがとうございます」と恐縮しながら付いて行った。
今日は魔女としての仕事があるので、食堂の方はビゼにお願いすることにした。多分ホホは今日も店に出ると言うと思うが、まだ無理をしてほしくなかった。
ビゼは霧雨亭にはあまり行きたくないので(メアリさんが怖いから)かなり渋ってはいたが、結局はいつものごとく僕のお願いを聞いてくれるのだった。
「ご褒美はにんじんケーキだよ」
ビゼはにんじんケーキが大好物なのだ。そう言うとビゼは「…ユイが作ってくれるの?」と、そっぽを向いたまま訊く。
にんじんケーキはもともとはアルの得意料理だ。そして小さい頃からよく作ってもらっていた、僕の好物でもある。ビゼにも食べさせたところ、非常に気に入ったので僕も作り方を教えてもらったのだった。
「もちろん」僕はにっこり微笑む。
するとビゼは「仕方ねーな」と大げさにため息をつく。
彼は本当に人がいい。
店に着くと早速アルにこってり叱られた。ホホ、僕、そしてなぜかビゼまで一列に並ばされて。
「子どもが夜にふらふら町を出歩くんじゃないよ!ほんと、危ないでしょうが!」
僕たちは夜間外出禁止を言い渡された。当然のことだが、「おれ関係ないんだけど」とビゼはこぼしていた。
それからホホはアルを眠らせてしまったことを盛大に謝った。
「ほんと、本当に、ごめんなさい」
もうしません、と頭を下げるホホに、アルは「いや、あれすごいね」と感心したように声をかける。
「へ?」
「朝までぐっすりだったよ。って言うか寝過ごしちゃったよ。眠れない時はお願いしようかなあ」
そう言うと兄は笑いながら2階へ上がっていった。
肩透かしを食らったホホは助けを求めるような視線を僕に投げかける。
「…気にしてないみたいだね」と、僕が笑うと、ホホも困ったような笑みを浮かべた。
ノックをすると「どうぞ」というアルの声がすぐに返ってきた。僕は兄の部屋に入った。
「忙しい時間なことはわかってるんだけど、ちょっといい?」
夕べの事をどうしても話しておきたかったのだ。
アルもそれを待っていたようだった。
僕たちはベッドに並んで腰かける。背後にはメアリさんが丸くなって眠っていた。それから僕は昨夜の出来事を話し始めた。
こういう時、アルは途中で口を挟まない。じっと僕の言葉に耳を傾ける。僕は見たもの聞いたもの全部をそのまま喋っているつもりだったけれど、やっぱりどこか言葉足らずな気がしてならない。
そんなに長い話ではない。報告し終えた僕はうかがうようにアルを見た。
「…竜、とは思わなかったな」
感想をぽつりと漏らす。
「…だね」
「その黒いのは完全に消え去ったのか?」
「…わからない」僕はアルには正直に言うことにした。「実を言うと、あれが根本ではないような気がするんだ」
「…だな」
アルは魔力はないが、魔法に関する知識は豊富だ。ここのうちには母の魔術書がたくさん残っていて、片っ端から読んだそうだ。
「ねえ、アル」僕は緊張していた。アルに話しかけるのにこんなに緊張するのは初めてのことだ。「気持ちは変わってない?」
「何が?」
「ホホをここにおいておく気、まだある?」
アルを見ることができず、僕は真正面にかけてある、アルの大きな茶色いジャンパーを凝視したままだった。
隣から大きく息を吐く音が聞こえる。
「お前ね、見くびってもらっちゃ困るよ」
僕ははじかれたように首を回し、アルの方を向く。
そこにいるのはいつもどっしり構えた僕の自慢の兄だ。
アルは大きく伸びをしながら言う。
「ま、俺がなんかするってわけでもないんだけど。でも守りだけは鉄壁だしな、うちは。何とかなるだろ」
体の力が抜けていく。よかった。
「そんなに心配?」
「え?」
「ホホのこと」
僕はためらうことなく頷いた。「なんかあの人、危うい感じがするんだ」
普段は大人びていて、朗らかなしっかり者なのに、不安げにしている時など、ふと子どものような表情をする。その差がありすぎて、見ている僕ははらはらするというか、なんか落ち着かない。目が離せない。
「…なるほどね」
考え込んでいる僕の横顔を、アルはじっと見つめていた。
「…何?」
「いや、別に」
アルはにやりと笑った。なんだか悪い顔をしている。
「あ、そういやお前の、壊れたんだったな」
アルは首にかけたペンダントを服の中から引き出した。
僕とおそろいの、母さんのお守りだ。
「やるよ、俺の」そう言ってアルはペンダントを首から外そうとする。
「ううん、いらない」僕は慌てて言った。「それはアルのだから。母さんがアルを守るために作ったから」
そして僕は鎖だけになってしまったペンダントを服の下から引っ張り出した。
「私はこれで大丈夫」
するとアルは大きな目を細め、僕の頭をガシガシ撫でた。
「ちょっと、やめてよ」
僕が嫌がると、アルは楽しそうに笑った。「お前も大きくなったんだな」
「ユイは今日もかわいいね」
本日は白いブラウスに薄いベージュのカーディガン、水色のスカート。お出かけ前のいつものビゼのファッションチェックに、いつものお決まりのセリフ。
だがその次がいつもと違っていた。
「やっぱり私の選択は正しかったね」
満面の笑みでホホが言う。今日の服装はホホが選んでくれたのだ。
するとビゼは苦々しい顔で「ユイは何着てもかわいいんだよ」と吐き捨てた。
「確かにユイはかわいいけど、私のコーディネートのおかげでユイのかわいさがさらに引き立てられてると思うなー」
「調子乗ってんじゃねーぞ、竜女!」
怒鳴るビゼに、ホホはケタケタ笑う。
僕はそんなふたりを尻目に出かける準備を黙々と続けた。
ビゼとホホはずっとこんな感じだ。僕も初めははらはらしたが、このところは案外ふたりともこのやり取りを楽しんでるんじゃないかと思う。特にホホは。
「じゃあ、行くからね。ビゼ、あとよろしく」
上着を着ながらそう言うと、それまでのふくれっ面も少し収まって、ビゼはいつものように「いってらっしゃい」と言ってくれる。
「またね!ビゼさん」
元気に手を振るホホに、ビゼは「はいはいまたね」とおざなりに手を振り返していた。
外は雨だった。軽い小雨なので傘は差さず、僕らは上着のフードを被った。
「おそろい」そう言ってホホが笑う。その笑顔につられて、僕も微笑んだ。
幻影から解放されたホホはみるみる元気になっていった。
あの後2,3日はまだ僕が気を補充していたけれど、すぐにそれも必要なくなった。
アルはホホを正式に雇うことにした。ホホは旅の途中だけど、しばらくこの町にいることにしたらしい。
「どうして…この町にとどまることにしたの?」
早朝の森の中を歩きながら、僕はホホに訊ねた。
普段ホホは霧雨亭に寝泊まりしているが、たまに森の僕の家にも泊まりに来る。彼女はこの森が好きらしい。それに森の中の方が星のエネルギーをよく吸収できるのだそうだ。
ただし、ホホは元気になるが、ビゼは不機嫌になる。だけど彼は来るなとは言わない。
「うーん、なんでだろう。移動に疲れたし、ちょっとゆっくりしたいって思ったからかなあ」
ホホは考え込む。それから「お金も貯めたいしね」と付け加えた。
どんな理由にせよ、彼女がここにいてくれることは嬉しい。
雨の森を抜けて町に入る。霧雨で煙る朝の町は、ホホと出会ったあの朝を思い出させた。
いつものように堤防の上を歩く。横に並ぶのは狭いから前にホホ、後ろに僕、縦列になる。
「ねえ、ユイ?」
「なに?」
「ここで初めて会った時、逃げようとしたでしょ?」
「え?」
ばれていた。
「私が声かけなかったら、堤防から降りて行ってしまってたでしょ?」
ホホは顔だけ少し振り返ると意地悪気ににやりと笑った。
「…う、うん」
仕方なく認める。
「やっぱり」その声はどこまでも楽しそうだ。「話しかけてよかったー」
「そういえば、まだ灯台に行ってないよね?」
「あ、ほんとだ。忘れてた」
あんなにものすごい勢いで行きたがっていたのに、あっさり忘れたままにできるところがホホだなあと思った。
そこで僕は思い切って言ってみた。「今度の休みに行ってみる?」
するとホホはぐるんと、大きく振り返る。「いいの?」
急にこっちを向くから僕はちょっとびっくりしていたが、平静を装って頷いた。
「やったあ!じゃあみんなで行こうね」
「みんな?」
僕は思わず聞き返した。なんだか風向きがおかしい。
「うん。だって、ユイが行くところには必ずビゼもついて来るでしょ?そうなったら、アルだけ仲間外れなのも淋しいし」
確かに。彼女の読みは正しい。
少し期待はずれな感じは否めないが、それもまた楽しいだろう。
「そうだね、じゃあみんなで行こう」
「お弁当持っていこうね」
それだけで、明らかにホホの足取りが軽くなったのが後ろから見て取れる。そんな彼女の様子に、思わず僕も笑みがこぼれるのだ。
灯台へ行こう。
町を出て、森を抜けて。
森の向こうはひと気のない淋しいところだと聞く。
まだ見ぬそこが世界の果てのような場所でも、あなたがいればきっと楽しい。
読んでくださって本当にありがとうございます。
episode 1 はここまでです。
次は語り手がビゼに移ります。