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猫とカラスと雨の森  作者: 夏川サキ
episode 1 朝靄の君
6/33

6

 夜の森の闇は、深い。どこまでも真っ暗で、怖い。僕はいつもそう思う。

 それでも僕はその闇の中を全力疾走する。どんなに暗くったって、自分の庭みたいなものであるこの森の中で迷うことはない。

 今だって怖いけど、怖いままだって走ることはできる。そのことを僕は今知った。

 それはこの森が僕の世界のすべてだったから。たまに町に出ることもあったけれど、これまでの人生の大部分を過ごした場所、それが暗がりの森だった。

 自分の生い立ちとか、これまでの環境とか、思うところはいろいろある。だけど今は森を熟知していたことが役に立っていた。それにこう見えて僕は足が速いし持久力もある。修行で毎日森の中を駆けずり回っていたおかげで森に詳しくなったし、足腰も鍛えられた。

 思わぬところで、思わぬことが役に立つこともあるんだということを、今、身を持って実感している。そう考えると、本当に無駄なことって案外あんまりないんじゃないかっていう気さえしていた。

 どうか間に合って。

 これ以上はないってぐらいの強さで願いながら、僕は脚を、体を前に動かす。


 ビゼに言ったことは本当だ。

 弱っているホホを放っておけない。僕で何とかできるものなら助けたかった。

 でも本当にそれだけなのだろうか。

 それだけで僕は今走っているのだろうか。

 ビゼとケンカをしてまで彼女を帰したくなかったのは、彼女を追いかけたいと思ったのはなぜなんだろう。


 初めて会った時の、海に向かって深呼吸していたホホの姿が頭に浮かぶ。

 海を見つめる横顔。

 ふと思う。顔は見えなかったけれど、あの時彼女は泣いていたんじゃないかって。

 そうしたら、鼻の奥がツンとした。僕が泣いたって仕方がないのに。

 そうだ、僕はずっと心配だったのだ。ホホが泣いてるんじゃないかって。出会った時から今までずっと。

 海で彼女を一目見た時から目が離せなかった。倒れた彼女が心配で離れたくなかった。夜道を追いかけてきて、助けてくれたことは本当に嬉しかった。放したくなかった。傍にいたかった。

 なのに僕がうまく出来なかったせいで、さらに傷つけてしまった。ホホも、そしてビゼまでも。

 なかったことにはできない。それでも何とかしたい。謝りたいし、癒したい。

 僕は今、とても自分勝手な理由で走っている。



 近道をしたおかげで、もう森の入口まで来ていた。

 森から町へと続く坂道を下っていく彼女の後姿が見える。


「ホホ!」

 僕はお腹の底からを叫んだ。自分でもびっくりするような大声だった。

 あと一歩でまんまるになる月は高い位置から彼女を照らしていて、離れていても驚いた表情がわかった。

「ユイ?」

 僕は森を出て、坂道を駆け下りていく。

 その途中で、僕はふと違和感をおぼえた。

 僕の目が…おかしい?

 いや、そうではない。確かに見える。

 斜面の中ごろにいるホホの背後、月明かりに照らされた原っぱに、何か黒っぽい霞のようなものがちらついている。大人ひとり分くらいの大きさのそれはゆっくりとホホに近づいていた。

「ホホ!後ろに何かいる!」

「え?」

 彼女が振り向くのと、その黒い霞が急に濃くなったのは、ほぼ同時だった。

 黒い影がが彼女を飲み込もうと大きく広がる。

 下り坂で加速した僕はホホに向かってそのまま突っ込んだ。そして彼女の体を抱えて草むらの中へ倒れ込む。僕たちはかなり勢いよく草の中へ転がった。

「大丈夫?!」

 僕はすぐさま体を起こし、彼女の顔を覗き込んだ。

 ホホは上半身をゆっくりと起こす。その顔は血の気が引いていた。彼女はどこかぼんやり度した様子で今まで自分が立っていた場所に目をやった。

「…ホホ?」

「また…いやだ…」

 彼女は小さな声で呟く。その言葉の指すところを探ろうとしたが、その前に再び黒い影が僕らに覆いかぶさろうとする。

 もう夢中だった。考えている暇なんてなかった。

 僕は服の中、首に下げているものに手をかけた。そして鎖を首から外し、迫る影へと投げつける。

 すると黒い影はすぐに僕が投げつけたものを取り込んだ。

 一瞬の静寂の後、乾いた、何かが割れるような音が響き渡り、黒い影が弾け飛んだ。

 僕は思わずホホの頭を抱え込み、ぎゅっと目を閉じた。


 多分、そんなに時間は経っていない。

 僕はそろそろと目を開ける。

 宙に、キラキラと光の粒が舞っている。まるでダイヤモンドダストみたいだ。何か、細かい粒が、月明かりを受けてきらめいていた。

 黒いものはもういなかった。

「きれい…」

 腕の中で声がした。ホホはさっきと同じ、ぼうっとした様子で光の粒を見上げている。

「人じゃなかったんだ…」

「…え?」僕は少し考えてから口を開いた。「…今の、人だと思ったの?」

 今度は彼女が不思議な顔をする番だった。

「どう見ても人でしょ?あれが社長の部下よ」

 さも当然、と言うふうに言い切られて、僕は困惑する。

「…僕には黒っぽい影のように見えてたよ」

 言っていいものか迷ったが、僕は正直に話した。すると彼女の目に、うっすらと恐怖の色が帯び始めた。

「そんな…、はっきりと人だった。私、あの人知ってるもの。あの人がずっと追いかけて来てたの」

 ホホは訴えるような視線を僕に投げかけた。「本当よ」

 その怯えた様子に僕は逡巡した。

 どうやらホホに付きまとっていたのは実際の人間ではなく、あの黒い影だったらしい。それがホホにだけは社長の部下に見えていた、というのが真相のようだ。

 その時、僕はこれが体の不調の原因のような気がしてきた。ずっと追われているということが彼女を精神的に弱らせた。精神的なダメージは体調にも気の流れにも影響する。

 僕は「人によって見え方が違う幻影もあるしね」と、努めて明るく言ってみた。

「げんえい…」そう言うとホホはしばらく考え込んで、「そう…だよね。人じゃなかったんだもの」

 自分に言い聞かせるような言い方だった。

「そうだよ、偽物だったんだ。それに、消えちゃったから大丈夫だよ」

「…これでもう、大丈夫?」

 上目遣いに僕を見上げ、か細い声でホホは訊ねた。

「うん。もう大丈夫」

 僕はきっぱりと答える。すると彼女は僕の肩に額を付け、「…よかった」と呟いた。

 本当のところは、よくわからない。彼女に何かしらの術がかけられていたことは確実だろう。だけどそれは僕の知らない術だった。だからこれで根本的に解決されたと言い切る自信はない。しかしそんなことよりも、ホホの心の負担が消えて、早く元気になることのほうが今は大事だと思った。


 そこでふとあることに気づく。

「ご、ごめんなさい!」

 僕は慌てて飛び退いた。ホホをずっと抱きしめたままだったのだ。

 ホホはかすかに笑って首を振った。「守ってくれて、ありがとう」

 多分僕の顔を真っ赤になっている。夜と言えど、今夜は月が明るいのでばれてしまっているだろう。

「ねえ、ユイ」ホホは首を少し傾げた。「何を投げつけたの?」

 あたりに舞っていた光の粒はもう地面へと落ちてしまっていた。代わりに今度は路面がキラキラと輝いている。

「水晶だよ」

 僕は短く答えた。

 少し離れたところに銀の鎖が落ちていることに気づく。拾い上げると、鎖と留め具のみが残っていて、石の部分は綺麗に粉砕されていた。

 掌の中に落とした残骸を見つめ、ちょっと迷ったが、僕は再び鎖のみになってしまったペンダントを首にかけた。

 その様子を見ていたホホは僕から目をそらすことなく言った。

「大事なものだったんだよね…。ごめんなさい」

「ううん、いいんだ」僕は慌てて首を振る。「これはお守りで…それで、僕たちをちゃんと守ってくれたから。役目を果たしたんだ」

 言いながら、これでは説明不足だと思った。これだけではホホに伝わってないと。伝えないといけないと思った。だから僕は打ち明けることにする。

「これは、母が作ってくれたものなんだ」

「お母さんって、魔女だったっていう…?」

 僕は頷く。

 母はアルと僕にひとつづつお守りを作ってくれた。僕は赤ん坊の時からずっと身に着けていた。もう体の一部みたいになっていたから、普段このお守りを意識することはなかったけれど、とっさのピンチに僕の体はちゃんと憶えていた。

「母は僕が赤ん坊の時に死んじゃったから、僕に母の記憶はない。だけど今日初めて母を感じることができた気がする」

 珍しく自分の気持ちがすんなりと言葉になっていた。

「だから、そんな顔しないで…?僕は…嬉しいんだ」

 自分の口から出た言葉で、初めて自分の気持ちに気が付く。

 僕は嬉しかった。母がずっと守ってくれていたことを実感して。僕の守りたい人を守ってくれて。それから今、目の前にホホが無事でいてくれて。顔も知らない母に心から感謝した。

 そして思った。僕がここに来た本来の目的を果たさねば、と。

「ホホ」改まって呼びかけると、彼女はゆっくり瞬きをした。「さっきは…家の前では、本当にごめんなさい」

 僕は頭を下げた。すると今度はホホが慌てて首を振る。

「いや、そんな、ユイが謝ることじゃないよ。っていうか、私の方が謝らなくちゃいけないくらいで…」

 彼女の声は尻すぼみだった。そして少し俯く。

「やっぱり、初めに話しておけばよかったね。ユイ、施術してくれてる時に変だと思ったでしょ?」

「…うん」

 僕は正直に頷いた。彼女のホホは少しだけ笑った。

「ごめんね。ユイは私を楽にしようとしてくれてたのに…それにビゼのことだって、前もって知ってたらこんなことにはならなかったのに」

「ううん、それは関係ないよ」僕は間髪入れずに反論した。「僕があなたを誘ったんだから、うまく対処できなかった僕が悪いんだ」

 ビゼの反応はある程度想像できていたはずなのに、きちんと言い聞かせられなかったのは僕のふがいなさだった。

「ビゼは昔、竜にひどい目に合わされたことがあって、竜がちょっと苦手なんだ」

「そう…だったの。なら、本当に悪いことしちゃったのね」

 ホホは俯いたまま、右手で顔を覆った。

「でも、ちゃんと説明したから」僕ははっきりと言い切った。「ホホの具合が悪いこともすべて説明したら、わかってくれた」

 ビゼは本来、ものすごく聞き分けがいい。素直じゃないので文句はこぼすが。ただ、アルと同じで僕に関しては重度の心配性なのだ。

「ホホ、このまま行っちゃうつもりだったでしょ」森で去りゆく彼女の背中を見た時、そう思ってしまった。「もう僕たちの元を離れようと思ったでしょう?」

 彼女の体が、少しこわばった気がした。それが答えだと思った。

「戻ってきて…くれないかな」

 やっと口にしたのは、一番言いたかったことだ。

「…でも」

「言いたくないことは言わなくていいから」

 ホホの顔が少しだけ上がる。水色の目が訝しむように少し細められる。

「僕は…人見知りで、まともに人と話せないし、世間知らずだけど…。でも、いや、だから…ホホの言えなかった気持ちは…少しわかる気がする」

 言いたいこと、言いたくないこと、言わなければならないこと、言ってはいけないこと。僕らの中に詰まっているすべてを、言葉にして吐き出せるわけじゃない。

「だけど、…しんどい時に淋しいのはいけないから。こんなに暗い森で…ひとりぼっちはいけないって…そう思ったから、追いかけてきた」

 うまく言えている自信がない。いつも「言わないこと」を選び続けてきた僕は、訓練ができておらず、肝心な時に相手にきちんと伝えることがとても下手くそだ。

 それでも彼女の心をつなぎとめたくて、僕は思わずその手を取った。

 僕の掴むホホの左手はとても冷たい。微動だにしない。石像に触っているみたいだった。

「ユイは…」少しの間を置いてホホの口が動く。「怖くないの?」

「怖くないよ」

 僕はそう言って握る手に力を込めた。

 するとわずかに握り返される。

 ゆっくりと顔を上げた彼女は、泣きだしそうな笑顔だった。

「…ありがとう」


「今日何回この道通るんだろうね」

 僕の後ろでおかしそうに話す彼女がいる。

「ほんとだね」

 同意しながら、再びふたりで森の径を歩けることを嬉しく思う自分がいた。

 暗い森の不気味さもふたりならちょっとマシな気がする。



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