5
真っ暗な森を奥へ奥へと進んでいくと、急にすこし開けたところが現れる。そこにぽつんと佇んでいる小さな家が僕の住まいだ。
我が家を目の前にして僕は足を止めた。
「ここがユイのおうち?」
ホホが無邪気に訊ねてくる。
「はい、そうです」返事をしながらも頭は別のことを考えていた。ホホに言っておかなければならないことがあった。
「明かりが点いているけど、誰かいるの?」
僕が話すよりも先に、彼女はそのことに気が付いてしまった。
もう腹をくくるしかない。
「ホホ」呼びかけた僕の声はちょっと硬い。「…ひと悶着あるかもしれない」
「え?」
ホホが僕のほうを向いたとたん、玄関の扉が勢いよく開いた。「ユイ!」
黒い影が玄関から勢いよく飛び出してきた。そして数歩行ったところでピタッと足を止める。
目の前に現れたのは15歳くらいに見える少年。
彼の名はビゼ。僕の同居人である。
母にメアリさんがいたように、僕にも使い魔がいる。それが彼、ビゼだ。
今は少年の姿をしているが、カラスである。
ビゼと僕が契約を結んだのは、僕が10歳の時だった。それ以来僕らはずっと一緒で、考えてみれば1日以上離れているのはこの7年間で初めてのことだ。
ビゼは漏れている家の明かりの中にいる。僕はまだそれの及ばないところにいる。僕たちの間には明らかな境界線が存在していた。
ビゼはカラスなので、暗いところでは目が利かない。だからこれ以上進むことができないし、暗がりにいる僕のこともよく見えていないかもしれない。
それでも彼はじとっと僕を睨んでいた。
「遅くなってごめんね」僕はとにかく、まず謝る。「ただいま、ビゼ」
「おかえり、ユイ」ビゼもとりあえず返事をしてくれる。しかし、「そんなことどうでもいい」とぶすっと呟いた。
「これ」ビゼはびしっと何かの紙を僕の目の前に突き出した。「何?」
「何って…、これ、昨日私が送った手紙だよね?」
霧雨亭に来たお客さんの具合が悪くなったから看病のために今夜は泊まる、そんな内容だった。
ビゼは不機嫌極まりない表情で「意味わかんねえし」と吐き捨てた。
「え、どこら辺が?」
僕はしげしげと自分で書いた文章を眺める。自分では簡潔にまとめられたように思っていたのだが。
するとビゼは手を下ろし、僕の前から手紙を消した。
「なんでユイが霧雨亭の客の看病するわけ?」
「いや、だってその場にいたから」
「アルがいるじゃん。アルの家なんだから」
「気の流れを整えてたの」
「それでも一晩中やってたわけじゃないだろ?」
「そうだけど…」
鋭い指摘に僕は口ごもってしまった。その隙にビゼはさらに追及を深めた。
「てか、その女でしょ?客って」鋭い視線を僕の隣に向けた。「だれ?」
急に話の矛先を向けられたホホは肩を小さく跳ねさせたが、「ホホって言います。よろしく!」と言って右手を差し出した。
しかしビゼは一瞥すると、ふんとそっぽを向く。
「ビゼ!」使い魔の無礼を僕はたしなめた。しかし彼はそれすら無視である。
「ごめんなさい、失礼なコで…」
僕が謝ると、ホホは首をぶんぶんと横に振った。
「ううん、全然」
彼女はそう言いながらひどく申し訳なさそうな顔をした。僕もかなり申し訳ない気持ちになって続ける。
「こっちはビゼ。…私の同居人で、使い魔」
ホホが果たして使い魔を知っているかわからなかったが、彼女は「そうなんだ」と言ってビゼを見た。
「使い魔に会うのって初めて」
どうやら存在は知っているらしい。しげしげと見つめている。
するとビゼは明らかに不快な顔つきになり、「何見てんだよ」とガンを飛ばした。
「あ、ごめんなさい」
ホホはすっと視線を外す。
「あんた、アルの客なんだろ?なんでここにいるの?」
凶悪な目つきのまま、ビゼはホホに噛みついていく。
「ビゼ!」僕は二人の間に割って入った。「ホホは私を送って来てくれたの!遅くなっちゃって危ないから」
「そんなことしなくてもおれを呼べばいいじゃん!おれが迎えに行くよ」
「ビゼは無理だよ。もうこんなに暗いんだから」
するとビゼは顔を真っ赤にして叫んだ。「無理じゃない!」
しまった。ビゼはカラス扱いされることが一番嫌なのだ。
「ごめん」
すぐに謝ったがもう遅い。ビゼは俯いてしまった。ぶーたれている。こうなってしまうと、機嫌を直すには時間がかかる。
「ほら、家に入ろう?アルが晩ご飯を持たせてくれてるからさ、早く食べようよ」
アルはいつも、帰りにビゼと僕の分の晩ご飯を用意してくれる。だから晩ご飯は自宅でビゼと食べていた。アルの料理はビゼも大好きだ。一波乱あることはアルも予想していたらしく、霧雨亭を出る時に「ビゼの好物ばかりにしておいた」と言っていた。
でも僕らが思っていた以上に今夜の嵐は大きそうだ。
「ね?」と、僕は暗闇から手を伸ばす。するとビゼは僕の腕をぐいっと引っ張って、自分の後ろに僕の体を廻し込んだ。
急に、光の中に出ていったので、目がくらむ。
「ビゼ?」
振り返るとビゼはホホに対して構えていた。いつでも攻撃できるような態勢だ。
「何してるの!」僕は後ろからビゼの体を抱え込む。
「放せ!ユイ!」
ジタバタとビゼは暴れるが僕のほうが体は大きく、力も微妙に強いので、何とかしがみついていられる。
ちらりとホホの方を見ると、彼女は薄暗い闇の中でぽかんとしていた。
「帰れ!…森から出ていけよ!」
ビゼが低く唸る。
「ビゼ!やめて!」
僕はビゼの体にまわした腕にさらに力を込めた。
ホホは「私やっぱり帰ったほうが…」とおずおずと述べる。
ビゼは普段から僕にべったりだ。今までそういう経験がなかったが、他の人を家に連れてきたら嫌がるかもしれないことは予想できていた。
でも嫌がっても渋々受け入れるだろうと思っていたのだ。ここまで敵意をむき出しにするとは思わなかった。
「だめだよ」と僕は即答した。
「でも、」ホホは僕の下でもがいているビゼに目をやる。
「いいから。こんな時間に女の子ひとりじゃ危ないって、さっきわかったばかりでしょ?」
「危ないもんか!」
ビゼは叫ぶと押さえつける僕の腕から無理やり自分の左腕を引き抜き、ビシッとホホを指差した。
「その女は竜だ!」
急に、場が静まり返る。
僕はビゼの言葉を頭の中で反芻する。
その女は、竜。
ビゼははっきりとそう言った。
ホホが、…竜。
そして僕は妙に納得してしまった。
僕は竜についてはあまりよく知らない。これまで竜に出会ったこともない。頭の中にあるのは本で読んだり、人から聞いたりした知識だけだ。おそらく昔に本で読んだであろう一文が、僕の頭の中に浮かんでいた。
竜は星のエネルギーを食べて生きている。
僕はホホを見た。
彼女は少し困ったような表情をしている。
竜は生体の維持に非常に大量の星のエネルギーを必要とする。そのため多くの数が同じ場所で生活することができない。エネルギーを吸い取られすぎて、大地が枯れてしまうのだ。
彼女の気はいつも空っぽだった。
僕が補充しても、すぐになくなってしまった。それに、気の流れも独特だった。
その理由は、竜だから、ということなのだろうか。
僕の腕から這い出たビゼは「おれにはわかるんだから。だまそうとしても無駄だ」とホホに向かって言う。
「だまそうと思ったわけじゃないよ」
ホホは落ち着いた声で反論した。
「ふん、どうだか」ビゼは僕を抱えると、じりじりとホホから距離を取り始めた。その肩が小刻みに震えている。
ビゼは竜が苦手なのだ。
ホホはその場から動くことなく、静かな口調で続けた。
「それに完全に竜ってわけじゃないしね」
「…どういうこと?」
僕は思わず訊ねた。
「おばあちゃんが竜だったらしいの。おじいちゃんは人間。そして生まれたお父さんは半分竜で、人間のお母さんと結婚した。だから私の中に流れている血は四分の一が竜」
頭の中に家系図を描く。
「それに私、竜に変化することもできないし」
「え?」
ビゼと僕、ふたりの声が重なった。ホホは肩をすくめる。
「そんなもんなのよ。だから…あなたすごいね」
ホホはビゼに微笑みかける。「ほんと、ばれるとは思わなかった。使い魔って、みんなそうなの?」
ビゼはじっとホホを睨みつけたまま、答えない。だから僕が代わりに答える。
「みんな、ってわけじゃないと思う。人間よりは敏感だろうから、なにか違和感を感じる、くらいはあるかもしれないけど」
そもそも今は使い魔を持つ魔女も少ない。その上、竜に会ったことある使い魔となると、ビゼくらいだろう。
「そっか」ホホは少しほっとしたような顔を見せた。「だますつもりはないけど、あまり知られないほうがいいのもほんとだから」
それはすんなり納得できた。ビゼほどあからさまな敵意を見せないにしても、怖がられたり、距離を置かれることはあるかもしれない。あるいはその力を利用しようとする人も。
「急に来て、ごめんね」
ホホはビゼに言った。ビゼの方に体は向いていたけど、あえて目は見ようとしなかった。
そして今度は僕に向かって言った。
「やっぱり、帰るね」
僕が口を開こうとすると、彼女はそれを遮るように「私強いから、ひとりで大丈夫だよ?」と続けた。
そしてこちらの返事も待たず、彼女はくるりと体の向きを変えた。反対方向へ、今来た道を辿るように、再び森の中へ駆けていく。
だめだ。
今、見送ってしまうと、もう、一生会えない気がする。
「ビゼ」
僕の声にビゼはビクッと体を震わせた。
「ホホは碧雨の谷の竜じゃないよ」
碧雨の谷には近づいてはいけない。
それはこの地域の人々の間に古くから言い伝えられている言葉だ。
碧雨の谷には古くから竜が棲む。その竜は、かなり邪悪らしい。だから近づいてはいけない。目を付けられたら最後だ、と。
その極悪竜に目を付けられたのがビゼだった。彼がまだ、ただのカラスだった頃の話だ。僕も詳しく聞いたわけではないが、かなりひどい目にあったらしい。
僕の肩を抱いたまま、ビゼは小さな声でうめいた。「わかってる」
「うん…そうだよね」
「だけど…竜は、こわい」
「うん」
「それに…」ビゼは僕の目を少し見て、そらす。「いやだ」
「何が?」
「ユイを取られそうで、いやだ」
消え入りそうな声はちゃんと届いていた。
僕はぎゅっとビゼを抱きしめる。
「約束したでしょ?私とビゼはずっと一緒だって」
「…うん」
ビゼが僕にしがみつく。
「何があってもそれは変わらないよ」
「……うん」
僕はずっと昔のことを、ビゼと契約を交わした時のことを思い出していた。
あの時もこうしてビゼをぎゅっと抱きしめた。
「あの人…ホホね、僕が酔っ払いに絡まれてるところを助けてくれたんだよ」
「えっ!」
がばっと勢いよくビゼが顔を上げる。「ユイ!」
彼の額に寄ったしわの深さに、僕は思わず吹き出しだ。
「何笑ってんだよ!」
「ごめん。でも、大丈夫。何もされてないよ」
「ならいいけど…」と言いつつ、まだ不満げだ。
「ホホはね、メアリさんに僕を助けるよう頼まれたんだって」
僕の言葉にビゼは目を見開いた。
使い魔どうしであるが、ビゼもメアリさんと話したことはないという。
メアリさんは全てを遮断している。人間とも動物とも、もう誰とも話さないって決めているのではないかと僕は思っていた。
それでも彼女はただの猫に戻ったわけではなかった。霧雨亭には彼女が結界を張っていた。変なものを入れないようにして、母がいなくなってもまだ兄と僕を守ってくれている。
そんなデキる先輩使い魔であるメアリさんのことを、ビゼはおそれていた。だからビゼは霧雨亭にはあまり近づかない。
「メアリさんが喋ったわけじゃないみたいなんだ。だから、声が聞けたのは、竜の力のせいなんじゃないかな」
動物同士は人間と動物の間よりも意志の疎通がしやすいという。僕のピンチに、メアリさんから思わずこぼれてしまった心の声を、竜の血を引くために感覚が鋭いホホが拾ったのではないだろうか。
「それにあの人ね、気をうまく吸収することができなくなってるみたいなんだ」
竜にとってそれがどういうことを指すのか、ビゼもわかっているだろう。
「あの人、放っておいたら死んじゃうかもしれない」
僕はあえてはっきりと言葉にした。そうしたら自分の言葉にぞっとした。
ビゼは黒い瞳で、まっすぐに僕を見つめる。
「ユイは、助けたいんだ」
質問ではなく肯定の言葉に、僕は頷いた。「お願い」
ビゼは小さく笑った。それが、どこか泣き出しそうにも見えた。
「おれがユイの『お願い』に、弱いの知ってるくせに」
「…ごめん」
使い魔は魔女の命令に背けない。それがわかっていて言っている僕はひどいやつだ。
それでも僕はホホを追いたい。
ビゼが片手を出す。
「ごはん、あるんだろ?先に食べてる」
「…うん。すぐに戻るから」
僕は鞄ごとビゼに預けた。
「ユイ、忘れてるかもしれないけど、この後明日の準備があるんだからな」
忘れてた。
僕の表情を読み取って、ビゼはわざとらしくため息を吐く。そして「早く行けば」と言った。
「ありがと、ビゼ」
僕はもう一度素早く彼を抱きしめると、再び森の中へと駆けだした。