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「いらっしゃいませ!」
明るい、元気のいい声が店内に響きわたる。やってきた常連さんは一瞬ぽかんとした表情を浮かべてからアルに訊ねた。「新しい子雇ったの?」
カウンターからから顔をのぞかせたアルは「今日はユイの友達が手伝ってくれているんだ」と言った。
ホホの働きっぷりは見事だった。
実家の宿屋の手伝いを幼い頃からしていたそうだ。接客も厨房もどちらもこなせた。客席をホホに任せることができたので、アルは料理に集中できる。
黙って突っ立っているとその整った顔立ちから冷たい印象を受けてしまうホホだが、話すとそんな印象はするすると溶けていく。気さくで気のいい女の子だった。
お客さんの前でも愛想がよく、ニコニコしながらくるくるとよく働いた。それがなんだか可愛らしい。うちのお客さんは少々気の荒い海の男たちが多いが、ホホはその相手も上手だった。おっさんたちが鼻の下を伸ばしている。
朝の客がひと段落すると、僕たちは少し早い昼食を取る。
表の札は一旦準備中に換え、ホホと僕は客席の隅でアルの作ってくれたサンドイッチをほおばっていた。
「素敵なお店だね」
ホホが店内を見まわしながら言う。
そうだ。昨日はいろいろあって忘れていたけれど、そういえば彼女は気になることを言っていた。
「ホホは…うちの店のこと知っているんですか?」
「話に聞いたことがあるんだ」そう言うと、ホホはいたずらっぽい笑みを浮かべた。「実は私、この町で生まれたらしいの」
昔、ホホの両親はこの町の外れで灯台守をしていたそうだ。だが彼女が生まれて1年経たないうちに一家は引っ越すことになった。両親はこの店にも来たことがあるらしい。
「それで灯台に行きたかったんですね」
ホホはこくりと頷いた。
「旅に出る時、この町には必ず来ようって決めてたの。だけどこんな風に、逃げているうちにたまたま行き着くことになるとは思わなかったけど」
カラカラと笑う彼女に昨日の心細そうな様子は見られなかった。
食べ終えた彼女は席を立つと、壁に貼ってあるメニューの前へ立った。
「魔女、あります…?」くるりと振り返る。「これってユイのこと?」
それはメニューに並べて貼られている張り紙だった。「魔女、あります」そう書かれている。
なんて言おう?僕は逡巡してしまった。
昨日のしつこいお客にはきっぱり即答できたのに、ホホを相手になぜか戸惑う。
「それは昔、うちの親父が書いたんだ」
何のためらいもない、いつも通りのよく通る声が後ろから降ってくる。
昼の準備を終えたアルが自分の分のサンドイッチを持ってやってきた。
「うちの母は魔女でね、父と一緒に店をやりながら魔女の仕事もしていたんだよ。で、その宣伝に」
アルは壁の文字を指さす。
「ふたりとももう亡くなってしまってるんだけど、なんとなくはずせなくて」
アルの言葉は的を得ていると思う。そう、なんとなくなのだ。
もう、20年以上ここに貼ってある。メニューだって何回か張り替えているのに、それはずっとそのまま、誰も手を触れない。紙はとっくに黄色く変色して、文字も色あせている。
「そっか、じゃあユイのその力はお母さん譲りなのね」
「え?」
僕は狼狽えた。昨日ホホに魔術を施したし、今の話の流れからして、僕が魔女だということを彼女はもう知っている。
だけど僕は怖かった。自分の口で告げることが。
「うちのお父さんとお母さんも、この張り紙を見たのかもしれないね。ユイのお父さんやお母さんと話したのかもしれないね」
なぜか嬉しそうにホホは言う。
「ユイも魔女を仕事としてやってるの?」
ホホは僕をまっすぐに見つめて問う。ごまかすこともできなくて、僕はためらいがちに頷いた。
「じゃあやっぱり、これはユイのことだね」
ずっと貼られていて、色も褪せて、壁の一部のようになってしまっているその紙。
それは僕自身のように思えた。
だけどその後にホホが続けた言葉は意外なものだった。
「ユイは霧雨亭の看板娘だもんね」
僕は何も反応できず、そのままホホを見つめる。
すると隣でアルが大きな声で笑い出した。
「ホホの言う通りだ」
何がそんなにおかしいのだろう。それに僕は看板娘なんかじゃない。
同意を受けて満足そうなホホは、僕の向かいに座るとおいしそうにお茶を飲んでいた。
お昼も盛況で、目の回るような忙しさだった。それでも人ひとり増えたことはやっぱり大きく、アルも僕もいつもよりは余裕があった。
だが閉店後、ホホは再び体調を崩してしまった。
昨日のように倒れたわけではないが、明らかに顔色が悪い。
「ちょっと張り切りすぎたみたい」
ソファの肘置きにもたれかかったホホは恥ずかしそうに目を伏せた。
僕は昨日のようにホホの額に手をかざす。少しは回復していた彼女の気はまた一気に減っている。まるでどこからか漏れているみたいだ。
「…医者にちゃんと診てもらったほうがいいかも」
気を注ぎこんだ後、僕は言ってみた。異常があるのは確実だろう。
「大丈夫。少し休めばよくなるわ」
「でも、」
「本当に。平気だよ。…ね?」
僕の言葉を遮ったホホは少し強い口調だった。病院に行きたくないのかもしれない、と思った。
アルも僕と同じように感じたみたいで「じゃあ、ちょっと様子を見ようか」と言った。
「でもこれ以上具合が悪くなるようだったら、すぐにお医者さんを連れてくるからね」
そう釘を刺すと、ホホは小さく頷いた。
僕は今夜もここに泊まることにした。
2日続けては初めてだ。ビゼはすごく、ものすごく怒ると思うけど、今はここを離れたくなかった。
しかし辺りがすっかり暗くなった頃、ビゼから連絡が入った。
いつからか知らないが、僕の自宅の暖炉と霧雨亭の暖炉は、暖炉を通じて手紙のやり取りができるようになっている。特別な技術や儀式はいらない。手紙を書いて、ただ、念じて燃やすだけだ。魔力を持たないアルでもできる。僕も詳しい仕組みは知らないが、時空が歪められて暖炉同士が繋がっているらしい。
ビゼが送ってきた手紙には急ぎの仕事が入ったことが書かれていた。町の病院からの依頼で、明朝緊急の手術があり麻酔薬など、いくつかの薬が必要だという。また投薬の補助のため手術に立ち会ってほしいそうだ。
準備が必要だった。すぐに帰らなければならない。
「ビゼから?」
リビングに入ってきたアルが訊ねる。僕は頷いた。
「急な仕事が入ったみたい。…今夜は戻らなくちゃ」
僕は振り返る。ソファで眠るホホを見た。
顔色は夕方よりもずっといい。さっき少しだが食事も取っていた。多分僕がいなくても大丈夫だろう。
だけどなぜか後ろ髪が引かれる思いだった。
「俺がついてるから。何かあれば知らせるし」
アルは諭すように、優しく言う。今はアルに任せるしかなかった。
「…うん、よろしく」
いつものことだが、アルは僕をひとりで夜道に出すことをものすごく渋る。今日も送って行くと言いだしたが、子どもじゃないからと僕は丁重にお断りした。しぶしぶ引き下がる心配性な兄に僕は小さくため息を吐く。
全く、アルはいつまでも僕に甘い。
夜道を急ぎながら、僕は胸の中でひとりぼやいた。
夜と言っても町の中は明るいので、そんなに怖くなかった。森はもっと、本当に真っ暗だ。
僕は歩きながら、帰ったらしなければならないことを頭の中で順序立てていた。そのことに集中していた。
だから後ろから近づいてくる人影に気が付かなかった。
急に肩をつかまれる。
僕は驚いて振り返った。それと同時に被っていたフードを剥ぎ取られる。
ぴゅう、という口笛の音が耳をかすめた。
「やっぱり女だ」
「結構上玉なんじゃないか?」
2人の男が両脇に立ち、僕の両腕を掴んでいた。暗がりでよく見えないのだろう。顔を近づけてくる。するともわっとしたアルコールのにおいが鼻を突いた。酔っ払いだ。
僕がその匂いに顔をそむけると、「へへへ、嫌がられてるよ」「おまえ、くさいって」と2人は下品に笑い合った。
こんな奴らにかまっている暇はなかった。
「は,放してください」
声を出して驚いた。毅然として言ったはずだったのに声は小さく、弱々しい。
だったらと僕は掴まれている両腕を振りほどこうとしたが、相手は結構な馬鹿力でびくともしない。
「ねー、飲みに行こうよ」
耳元でささやかれて、悪寒が走った。
「急いでるんです!」
自分の口から漏れ出るか細い声に泣きたくなった。どうしてこんな時まで僕はこんななんだろう。はっきりきっぱり、大きな声で言ってやればいいのに、小さな震える声でささやくことしかできない。
「さ、こっちだよ」
無理やり引っ張られそうになった時、急に右腕が自由になった。
「え?」自分の右側に目をやると、それまで僕を掴んでいた男が倒れている。
なんで?と思った瞬間、視界の左側に黒い袖が伸びてくるのが見えた。
黒い袖から伸びる白い、細い手。それが左側の男の首に絡みつく。
そして男の耳元に形の良い唇が寄せられた。
「ホホ…」
彼女は何かを囁いている。
すると男は急にとろんとした顔つきになり、瞼を閉じた。ホホが男の体を解放すると、男はそのまま崩れ落ちる。
「ユイ!大丈夫?」
倒れている男をまたいで、ホホは僕の手を取った。心配げに顔を覗きこんでくる。
「う、うん…。だいじょうぶ…」
僕は呆然としてホホの顔を見つめ返す。そして疑問は口を突いて出た。「どうしてここに?」
「メアリさんが教えてくれたの。ユイが危ないって、ここに行けって」
僕は目を見開いた。「メアリさん、喋ったんですか?」
うちの飼い猫メアリさんは、母の使い魔だった。使い魔とは魔女の助手のようなものだ。人間以外の動物と契約し、主従関係を結ぶ。
魔力を与えられたメアリさんは猫だけど、喋ることができる。人間の姿にだってなれる。だけど母が亡くなって、メアリさんは自分の意志でそれらをやめてしまったらしい。だから僕はメアリさんが喋ったところを聞いたことがないし、人間になった姿を見たこともなかった。
「ううん、喋ってないよ」
キョトンとした顔で、ホホはふるふると首を振る。
「じゃあどうやって…?」
僕はホホを凝視したまま訊ねた。すると彼女は困ったように眉をひそめた。
「わかるんだ、私には」
結局それしか言ってくれなかった。
ホホは地面に転がっている男たちを軽々と担いだ。ふたりいっぺんに。そして道の端に放ると「じゃ、行こっか」と歩き出した。
「え?」
今見たものは幻か?そんなことを考えながら僕は慌てて後を追う。
「ユイを送って行くよ。あの森におうちがあるんでしょ?」
「そうだけど…、体調は?」
「ユイが楽にしてくれたからもう平気」
「そんな、だめです!安静にしてなくちゃ」
僕が声を荒げるとホホはぴたりと足を止めた。そしてくるりと振り返る。
「私だって、このままユイをひとりで行かせることなんてできない」
「…」
「ユイは私を助けてくれたでしょ?だから今度は私がユイを助ける番だよ」
まっすぐに目を見つめられる。
「大丈夫!私、強いし!」
それはこの目で確認済みだが。
多分言っても聞かないんだろうな。僕は額に手をやると唸った。
「…ああ、もう、アルはなんで止めないかな」
ホホを外に出すなんて、あの兄は何を考えているのだろう。
するとホホは視線を落とした。なんだか言いにくそうに、でも言いたそうに、もごもごしている。
「…どうしたんですか?」
その様子を不審に思って訊ねると、ホホは勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい!!」
「は?」
「アルも…眠らせてきちゃった」
アルはちゃんと止めたらしい。自分が行くとも言ったらしい。だけどそれを振り切って来てしまったらしい。
「…今みたいに?」
僕は背後に転がっている男たちに視線をやる。
「そう、今みたいに」
めまいがする。なんてことをするんだ。
「大丈夫!これはすぐに目が覚めるよ!体に害はないし!ただの眠り歌だから」
眠り歌。聞いたことがある。世の中には「力のある歌」というものがあり、そういう歌を歌える人物が存在するということを。
そしてホホは消え入りそうな声で続ける。
「それにアルが行っちゃうと、誰かが怪我をしてしまうかもしれないから…」
それは…きっとホホの言う通りだろう。アルはむやみに暴力を振るう人間ではないが、売られた喧嘩は買う。それに僕のことになると必要以上に過敏になってしまうところがあるし。
そしてホホは上目遣いで僕を見た。「一応、ごめんなさいって、書置きも残してきたよ…?」
その一言に、僕は思わず吹き出してしまった。
ほんと、すごい、この人。かなわない。
僕は森に向かって歩き出した。
「…ユイ?」
「帰ったら、アルに手紙を送らなくちゃ。きっと心配してる」
夜明け前から店の準備を始めるため、アルは毎日早寝だ。心配したり、こっちへ来たりしていたら寝不足になってしまう。
後ろでホホが僕について来る気配がした。
「ユイを送ったら、すぐに店に戻るから。そしたら…」
「やめてください」僕は顔をしかめた。「そしたら今度は私がホホを送っていくことになるでしょ」
それでなくても今夜は忙しい。行ったり来たりなんてしている暇はない。
「私ならひとりでも平気だよ?」
「だめです。今日はうちに泊まってもらいますから」
僕は強い口調で告げた。するとホホはあっさり「わかった」と返した。
「明日、アルにちゃんと謝るね」
「はい」
僕らは並んで歩きだす。
「ホホ」僕は歩きながら、顔だけ彼女のほうに向けた。「助けてくれてありがとう」
少し見上げる彼女の顔に照れたような笑みが浮かぶ。
「どういたしまして」
ふと思った。最後にこの道を誰かと歩いたのはいつだっただろう。