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よみがえる記憶、それも一大事だ。
でも何よりも、今、社長に会うことができたことの方が私にとっては重要だった。
謝ろう。
「ごめんなさい!」
思いっきり頭を下げる。
すると頭上から「え?…え?」という社長の戸惑う声が降ってきた。
「ちょっと、どうしたの?」
私は姿勢を正して答える。「急にいなくなってしまって、ご心配をおかけいたしました。それから…こないだ、失礼な態度を取ってしまったから」
「ああ…、いや、こっちこそごめんね。急に押しかけて」
社長は苦笑いを浮かべる。
「君には本当に世話になったから、ちゃんと報酬は払っておきたかったんだ」
この人らしい言い分だな。そう思った。
そう思うと、胸の奥が苦しいような痛いような、変な感覚を覚える。
そしてこの時、私は本当に久しぶりに社長の顔をちゃんと見たことに気づいた。
「……ありがとうございます」
目を合わせて告げる。
彼は笑いかけてくれた。
優しい笑顔がそこにはあった。
「じゃあ…、行くね。元気で」
「社長も、お元気で」
「うん。ありがとう」
会議場に入っていく後姿を見送っていると、背後から声がした。
「よかったな。話できて」
「うん…」
本当に、そうだ。あのまま別れなくてよかった。ちゃんと伝えられて、よかった。
振り返るとゼフィ真面目な顔で頷いている。
「あ…」
思わず声が出ていた。
「……ホホ」
「ん?何?」
「俺の存在、忘れてただろ?」
図星だ。
いや、そんなことはどうでもいい。
「ゼフィ!」
私は彼にずいっと詰め寄った。
すると彼はなぜか一歩後ずさる。
「な、何?」
「お願い!ひとつ頼まれて!」
そして、私は走る。
朝の道を全速力で、港に向かって。
いろいろと思い出した。すごく大事なことを。
ヴァネア行かせてはいけない。止めないと。何としても。
彼女がすべて持って行ってしまう。
ツヅキの大事な思い出を。
そう、彼女がかけらを持っている。
それはあの日、社長たちが店にやってくる直前のこと。
買い出しを頼まれて市場に行っていた私は、行きつけの古書店の前で「あ」と小さく声を上げてしまった。そのまま足も止まる。
店先に並んでいたのは小さい頃に好きで、よく読んでいた本。
手に取って表紙を見ると、懐かしい猫のイラストが目に入り、思わず口元がほころぶ。
子どもの私はこの猫になりたいと思っていた。
いつも飄々としていて、前向きで、元気。
じっと猫を見ていると、なんだかアルみたいだな、と思った。
そうだ、この本を誕生日のプレゼントにしよう。
アルと私の本の好みはよく似ている。だから彼も気に入ってくれるんじゃないかな?
我ながらいい思い付きに思えた。私は早速本を購入すると、軽い足取りで店を出た。
そこで、彼女に出くわしたのだ。
「あ」
私の顔を見て、彼女は割と大きめな声を漏らした。
「……はい?」
……誰?
素朴な疑問を抱える私に、彼女は更に言う。
「あなた、なんでまだここにいるの?」
「なんでって…」そんなこと言われても。「っていうか、あなたは…」
誰?
そう言いかけて、はたと口の動きは止まった。
………いや、知ってる。この人、あの時の女の人。
私が社長の所を逃げ出す原因となった現場にいた彼女。宿屋でアンヴァンさんと話してた人だ。
武器がどうの。火薬がどうの。石がどうの。
アンヴァンさんとこの女の人の会話を聞いてわかったことは、この人たちが組んで隣国に武器を密輸しているということだった。
「こんなに派手に動き回って大丈夫なの?」
「大丈夫さ。双方の国に根回しはしてある」
「外部のこともそうだけど、自分の会社はどうなの?さすがにそろそろ勘付かれるわよ」
彼女の言葉に、アンヴァンさんは鼻で笑った。
「それこそ心配はいらない。あのぼんくらは俺を信頼しきっている。疑う余地なんてない」
初めて見るアンヴァンさんの笑顔は、私の心を一瞬にして凍てつかせ、知らしめた。
この人は、社長を裏切ってる。
確信したとたん、私の体は動いていた。
古本屋の前で再会した私たちは、なんとなく一緒に歩いた。
川沿いの堤防の道を歩きながら、頭の中で何度もアンヴァンさんのセリフが再生される。
社長のこと、ぼんくらだって。
信頼しきってるから、疑う余地なんてないって。
許せなかった。
裏切りもその言葉も。
一生懸命な彼を踏みにじられた気がした。
だから、気が付いたら私はふたりの前に飛び出していた。
そして………。
「……あれ?」
思わず声を漏らした私に、彼女がちらりと視線を寄越した。「どうしたの?」
「私…あなたたちの前に飛び出した後、どうしたんだっけ?」
まぬけな質問だと自分でも思う。
でもそこから先がなぜかきれいさっぱり思い出せないのだ。
彼女は黙ったまま、感情の読み取れない目で見つめてくる。その目が私の不安を煽った。
「いや、憶えてる!憶えてる、はず…なんだけど…」
自分に言い聞かせるように言った言葉は尻すぼみに消えた。
もしかして私はぼけてしまったんじゃないか。
嘘!まだ10代なのに!
そんな風に思って、私はしどろもどろになって言葉を探す。
「別に不思議でもなんでもないわ」焦る私を尻目に、彼女は平坦な口調で言ってのけた。「私が記憶を消したんだもの」
記憶を、消す…?
「だから今日まで私のことも忘れてたでしょう?」
確かに、そうだ。
この人のことも、密会のことも、きれいさっぱり忘れていた。
「あなたの記憶を消して、別の記憶とすり替えたの」
彼女はさらりと告白した。
絶句。
記憶を消すって、そんな。まさか。……この人が?
「…そんなこと、できるの?」
ようやく絞り出した一言に、彼女は小さく頷いた。
聞いたことはある。そういう魔法もあると。でもとても高度な術らしい。
それをこの人が…。
………そうは見えない。
なんて思いっきり失礼な感想を抱いていると、ふとある疑問が湧いてくる。
「どうして全部思い出さないんだろ?」
自分がふたりの前に出ていったところまでは思い出したのに。そこから先が思い出せないのはなぜだろう。
すると彼女はぴたりと立ち止まった。
私も一緒に足を止める。
彼女は私の顔をじっと見つめ、口を開いた。
「そりゃ、あなたが思い出したくないと思っているからよ」
思い出したくない…?
「どういうこと?」
「知らないわ」
「あなた、その場にいたでしょ?何があったか知ってるじゃない」
強い口調で私が言うと、彼女は少し言葉を切って、それからゆっくり口を開く。
「私はあなたじゃないもの」
その言葉は不思議な響きを持っていた。何だろう、知っている言葉のはずなのに、初めて聞くような、そんなかんじになる。それに、なぜか鼓膜が変に震えてかゆい。
「確かに私はあの場所にいたけれど、あの時あなたが何を見て、感じて、何を思い出したくないと思ったのか、私にはわからない」
彼女の言い分は尤もだった。
それでも…、私は知りたいと思ってしまう。
客観的な事実だけでもいい。何があったのか。
知らないことが一番怖い。
すがるような視線を送る私に、彼女は小さくため息を吐いた。
「……あなたとアンヴァンが口論になって、その後取っ組み合いの喧嘩になった」
「…で?」
「それだけよ」
「…それだけ?」
「ええ」
確かに意外なことではある。あの冷静沈着なアンヴァンさんが口論をするなんて想像できないし、私は今まで誰かと殴り合いとかしたことない。
だけどそれだけのことを思い出したくないとまで思うのだろうか。
考え込んでしまっていると、再び、今度は大きなため息が聞こえてきた。
「ね?意味ないでしょ?私の話なんて」
確かに、聞けば思い出すことがあるかもしれないと思っていたので、当てが外れたかんじはある。
「でも…それは結果だもの。聞いてみなければわからなかった」
強がる私に、彼女は苦笑を漏らした。
「思い出したくないことなんて、みんなたくさんあるのよ。そして本当に忘れてしまってることもたくさん。それでいいじゃない」
そういう彼女の表情は今までよりも少しだけ柔らかくて、なんだか複雑な気分になる。
気持ちを切り替えるように、私は意識して声のトーンを上げた。
「あなたは…私が知ってはいけないことを知ってしまったから記憶を消したの?」
「そうよ」
「どうして…殺さなかったの?」
「そこまでのことじゃないでしょ?殺しちゃうと、後始末がいろいろとめんどくさいし」
彼女は笑いながらそう言うと、堤防を降りていった。
なぜか私も付いて行く。
「懐かしい」
ぽつりと彼女が零した。
「…ここに来たことがあるの?」
「昔、この町に住んでたのよ」
川から吹く風が、さっきよりも冷たい。
空を見上げれば、重たそうな雲が広がり始めている。
「自由っていうのも、案外難しいものね」
そう言った彼女の横顔は、変わらない。
でも声色はなんだか悲しい。
「…町を出て、自由になったの?」
「自由になったから町を出たのよ」
自由になって町を出た彼女は、今、果たして自由なのだろうか。
そんな疑問が頭の中を過ったが、口にすることはしなかった。
代わりにこんなことを訊いてみる。
「ずっと、町を出たかったの?」
それは純粋に、単なる興味で。
慣れ親しんだ住まいを離れる理由は、それこそ人それぞれだ。だからこそ訊いてみたかった。
人が旅に出る理由。彼女が旅に出た理由。
ずっと同じ場所にいられない理由。
すると彼女は変わらぬ調子でさらりと答えてくれた。
「そういうわけじゃないけど、でも自由にしたい人がいたから」
川面を見つめる彼女の表情は読み取れない。
私の視線に、彼女が反応する。
「……何?」
「あ、いや、…何でもない」
慌てて私も川の方を向く。それが可笑しかったのか、クスリと笑い声が聞こえてきた。
「今になって思えば、この町もそんなに悪くなかったな」
呟く彼女の顔を見たかった。多分、とてもいい顔をしてると思ったから。
でもそれはしてはいけないように感じて、私は向こう岸を見ながら「うん、ここはいい町だね」と返した。
「あなたはこの町が気に入ったのね」
「うん」
「だから…ここにまだいるのね」
「そうだね」
すると彼女は声を上げて笑った。
「どうしたの?」
驚いて彼女を見る。彼女はとても楽しそうだった。
「いや、」首を振りながらまだ笑ってる。「強い気持ちが最強なのかもなって、思って」
「強い気持ち?」
「そう。…それこそがどんな呪いも解く、たった一つの方法なのかもしれない」
そう言いながら、彼女は服のポケットから何かを取り出した。
「……破片?」
白っぽいそれの、見たまんまを言う。
「うん」彼女はつまみ上げた破片を、曇天にかざした。「私の宝物。この町の思い出が詰まってるの」
「ふうん…」
私にただの小汚い破片に見える。
だけどそれが彼女にとってはかけがえのないものだということは、その横顔を見るだけで十分に伝わるのだった。
頭の中に急激に溢れてきた情報に、処理が追いつかない。
私はいろんなことを知っていた。
ロドリス商会の密輸入のことも、アンヴァンさんの裏切りも、ヴァネアのことも。
少年はヴァネアが消した記憶をよみがえらせたのだ。
おそらく私はアンヴァンさんと喧嘩になった時、竜の手になってしまったのだろう。
そしてその手で彼を傷つけた。
…もしかしたら、取り乱した私を見かねて、ヴァネアが記憶を消してしまったのかもしれない。
とにかくそのショックは相当なものだったようで、今も私はその時のことだけは思い出せないままだ。
そして…竜であることをアンヴァンさんとヴァネアには知られてしまった。
アンヴァンさんの抜け目ないというか打算的な性格から考えると、私の竜の力を利用しないわけがない。
だからヴァネアは黒曜石を使って私をこの町に誘導した。
…逃がすために。
操りの術の実験と称してアンヴァンさんを欺き、この町から船に乗せて家に帰す。それが彼女の計画だった。
なのに私がまだこの町にいるから、「なんでまだここにいるの?」と驚いていたのだと思う。
とかいろいろ考えてはみたけれど、多くは私の勝手な予想だ。本当の所はわからないこともたくさんある。
ヴァネアはなぜ私を逃がそうとしたのか、とか。
本当に逃がすつもりだったか、とか。
そもそも彼女の話が本当だったかどうかも…。まあそれを言っちゃうと全ての前提が崩れてしまうんだけど。
そのくらいあやふやで、全部私の妄想かもしれないことだったけど。
それでも…根拠のない自信がどこかにあって、彼女は本当のことを言っていたし、私の考えは完全なる外れなものでもないと私は思っている。
ヴァネアは別れる時、再び記憶を消し、ユイが破った操りの術を施した。
そして再び船に乗せようとした。
どうして彼女はそこまでして私を家に帰そうとするんだろう。
…会わなくちゃ、ヴァネアに。もう一度。
聞きたいことが、たくさんあるから。
そして…彼女が持ってる破片。ツヅキの記憶のかけら。
もし彼女の言っていたことのほとんどがでたらめだったとしても、あのかけらが宝物だということだけは本当だったように思うから。
私は彼女に言いたいことがある。
どうしても、伝えたいことがあるのだ。