それぞれの朝
【カッシュの場合】
なんだ、この既視感…。てかユイちゃん、マジで足はえー。
その華奢な背中を見失わないように、カッシュは必死に後を追っていた。
カッシュだってそんなに足が遅いわけではない。ユイがケタ違いなのだ。
意外だった。ユイがこんなに足が速いなんて。知らなかった。
新発見の連続だな。
昨日の、厨房でてきぱき働いているユイの姿が思い出された。
彼の知っているユイはいつも兄の後ろに隠れて小さくなっている。
知り合ったのはもうずっと昔のことだけど、今になって初めて生身のユイに触れた気がしていた。
にしても…やっぱあの人の弟だわ。
思い浮かぶのは学生時代からの腐れ縁の男。
途端に既視感の理由に気づいた。
兄の服を着て疾走するユイの後姿は、昔のアルにそっくりだ。
最近は全力で走ってるような場面に出くわしていないが、アルも足が速い。
そしてかつてもカッシュはこんな風に彼の後を追ったことがある。
…いつのことだっけ?
わざわざ心の中で呟いてみるけれど、本当は忘れてなんかないし、すぐにその光景を思い浮かべることができた。
だってあの日から、あの真夏の森からずっと、カッシュはアルの背中を見つめ続けているのだから。
何事も卒なくこなすスマートな先輩は、飛び級しているせいで実はカッシュよりも年下だ。
そのせいなのか、はたまた昔は線が細くてどこか繊細な印象を醸し出していたせいか、カッシュは出会った時からずっと、アルのことが気になってならなかった。
まあカッシュ本人が根っからの世話焼き体質だったことも否めないが。
アルがこの場面で自分を頼ってくれたことは本当に嬉しかった。
なんでも自分で何とかしてしまう人だから。
だから絶対に、何としてでもユイを守らねばならない。
カッシュは、そう強く自分に言い聞かす。
ユイは森の中に入ってからスピードを一段と上げた。
本当に獣しか通らないであろう、道とも呼べない所を迷いもなく突き進む。
…見失ったら迷子だな。
そんな危機感もあながち冗談ではなかった。
ようやく辿り着いたのは、うっそうとした森の中にたたずむ古い家だった。
カッシュは今まで森の家に来たことはない。
初めて見る魔女の館は、森の中でもぽっかりと開けた場所にあり、想像よりもずっと明るい雰囲気だった。
「ビゼ!」
ユイが使い魔の名を呼びながら開けようとしたドアには鍵がかかっていた。
無言でポケットを漁る横顔に表情はない。だけどその手元はもどかしげで、乱暴だ。
「ビゼ!いる?!」
ドアを開けたユイは、カッシュがこれまでに聞いたことのない大声で叫んだ。
そして1階の部屋を次々と見て回る。
あまりの迫力に、邪魔をしてはいけない気がして、カッシュは玄関を入ったところから動けなかった。
1階にビゼの姿はなかったようで、ユイはすぐさま階段を駆け上がっていく。
カッシュは小さく息を吐いて、ユイの後を追った。
「ビゼ!」
2階はふた部屋だけで、ユイはまず手前の部屋の戸を少しだけ開け中を覗き込んだが、すぐに奥の方の部屋に向かった。それにカッシュも続く。
おそらくビゼの部屋かと思われるそこに、部屋の主の姿はなかった。
部屋はとても片付いている。昨日一日一緒に働いた、あの無愛想な少年の印象そのままの部屋だとカッシュは思った。
きちんと整えられたベッドの上には紙切れが置かれていた。
ユイがそれを手に取り、二つ折りになった紙を開く。
「…書き置き?」
カッシュの問いに、反応はなかった。
「ユイちゃん?」
ユイの顔を覗き込んだカッシュはぎょっとした。
それは今まで見たことのないような、奇妙な表情をしていたからだ。
眉間にしわを寄せ、困ったような、ちょっといらだっているような、そんな雰囲気。
ユイの口が小さく動く。
「ヴァネアが来たみたい」
それはここ数日話題になっている女の名だったけど、実際のところ、カッシュはヴァネアのことをほとんど知らない。会ったこともなかった。
「ヴァネアがビゼを飛ばした」
「は?」
意味が分からず間抜けな声が出る。
「碧雨の竜がこのあたりをうろついてるらしい。だから用心のためにビゼを安全なところに飛ばすって」
言いながらユイは書き置きをカッシュに差し出した。
そこにはユイが説明したとおりのことが書かれている。
いや、それしか書かれていない。
「安全なところって…どこ?」
弱々しい声に顔を上げると、大きな瞳を潤ませたユイが見つめていた。
「ユイちゃん」
手紙には肝心の行き先が記されていないのだ。
ユイにわからないものが、カッシュにわかるはずもない。
「ここよりも安全なところなんて、そうそうないよ。それはヴァネアもわかってるはずだよ。なのに…」
カッシュはこれでも一応術師で、分析を得意としている。
きちんと調べたわけではないが、ユイの言うとおり、この森の家は霧雨亭と同じくらい厳重な警備態勢にあることは感じていた。
「今までは碧雨の竜だって、これで凌いでこれたのに…」
何かがあったのだ。竜の力が増したか、こちらの結界が弱まっているか。
どちらにせよ、それにユイは気づくことができなかった。
それが今、彼の自信を揺るがせている。
少し考えて、カッシュは口を開いた。
「ユイちゃん。霧雨亭に行こう」
困惑したままの瞳で、ユイが見上げる。
「ここと同じかそれ以上に守りが堅い場所がそうないことは確かだ。そして、その一つは霧雨亭だ」
用心のために場所は敢えて記さなかったのかもしれない。
「何より何かあったら、あの子はユイちゃんのところに行こうとするんじゃないのかな」
それしか提案できることが思いつかなかったのだけれど、でもそれは自信を持って言うことができた。
昨日初めて会ったビゼだけど、彼のユイへの愛はそれはもう見事に溢れまくっていたから。
だから彼にとっては、ユイの傍以上に安心安全な場所なんてないんじゃないだろうか。
そう思った時、ふいにカッシュは目の前の少年の兄を思い出し、心の中で苦笑した。
そんなカッシュをユイはじっと見つめる。
「…どうしたの?」
ユイの大きな瞳と、彼にそんなに見つめられること自体が初めてで、カッシュは妙にそわそわしてしまう。
「カッシュさん」
「…ハイ」
「一緒に来てくれてたんですね」
「今更ー?!」
思わず叫ぶと、ユイは表情を緩めた。
「そうですね。霧雨亭に行った可能性は高いかもしれません」
暖炉で手紙を送ります、と言って踵を返すユイ。
なびいた黒髪に視線を送りながら、ユイが自分に向けて自然に笑いかけてくれることも初めてだな、とカッシュは思った。
そしてそれは、カッシュの想像以上にアルの笑顔とよく似ていた。
「…なんだかなあ」
思わずそう呟いてしまった時、「ツヅキさん!」というユイの声が階下から響いてきたのだった。
【アンナの場合】
楽しみすぎて、眠れない。
そんなこと初めてだった。
じっとベッドの上に横になっていることすら苦痛になってきて、アンナはとうとう起き上がってしまった。
同室のエメラダのベッドに目をやると、彼女はぐっすりと眠っているようだ。
エメラダはいつでもどこでもぐっすり眠れる。そして一度眠ると朝まで起きることはない。
それでも彼女を起こさないようにアンナはそっとベッドを出た。
窓辺に立つと、見上げた空には雲が広がっていた。
「…うそ」
思わず小さくつぶやいてしまう。
音を立てないように細心の注意を払いながら窓を開けると、微かに雨の匂いがした。
せっかくのピクニックなのに…。
今度は口には出さなかった。出せなかった。がっかりしすぎて…。
夕方、部屋に戻ると、窓の隙間に手紙が差し込んであった。
差出人はビゼで、内容は明日のピクニックの決行のお知らせだった。
「ホホも元気になった。予定どおり行くから準備しとけ。」
たったこれだけのそっけない文面が嬉しかった。
にやにやするアンナの横でエメラダは「どうやってここに手紙を差したのかしら」と首を捻っていたが、そんなことはアンナは気にしない。
だってビゼは魔法使いの助手なのだ。そのくらいなんとでもできるのだろう。
それでもアンナだってビゼは不思議な人だと思ってる。
ビゼだけじゃない。ビゼの主人のユイも、アルも、ホホだって。
みんな優しくていい人たちだけど、霧雨亭の人たちはどこか浮世離れしていた。
今までアンナが出会ったことのない人種であることは確かで、それが楽しくてつい足を向けてしまう。
だからみんなで行ける今回のピクニックはずっと楽しみにしていたし、ここ最近のアンナの頭の中はアルのお誕生日用のケーキをどう作るかでいっぱいだった。
ホホの具合が悪いと聞いた時はもちろん心配だった。だけどピクニックが中止になってしまうかもしれないことを残念に思う自分がいるのも本当で、そんな自分をアンナは恥じた。
それだからビゼからの知らせをうけて、すごく、ものすごく嬉しかったのに…。
恨めしい気持ちを込めて再び空を仰いだ時だった。
「!」
突然突風が、アンナに向かって吹き付けた。
とっさに顔を腕でかばうとと同時に、風に紛れ込むかのように何かがアンナのお腹にぶつかる。
予期せぬ衝撃によろめいたアンナはそのまま尻餅をついた。
…何が、起こったの?
いつの間にか瞑っていた目を恐る恐る開けると、黒い塊が目に飛び込んできた。
「…え?…何?これ…」
そう言いながらも、アンナはすぐにこれが何だかわかった。
鳥だ。大きな鳥が、自分のお腹の上で伸びている。
どうしよう!
叫んだつもりが、びっくりしすぎたせいか声にもなっていなかった。
暗くてよくわからないけど、黒っぽい鳥だった。カラス、かな…?とアンナは思う。
ぐったりした鳥は動く気配がない。
「…死んでるのかな?」
呟いてぞっとしてしまうが、そっと羽に触れると、黒い体がピクリと揺れた。
生きてはいる。そのことにほっと胸をなでおろした途端、ふと思う。
「…ビゼ、さん…?」
なぜだかわからない。
だけどアンナは自分の上に乗っかっているこの鳥が、あの無愛想な少年なのではないかと感じた。
いや、まさか。…でも、
混乱するアンナの耳は次なる危機を拾った。
廊下を誰かが歩いている。
舎監の消灯後の見回りだ。
あれこれ考える間もなく、アンナはとっさにビゼ(とおぼしき鳥)を抱えた。そして一緒にベッドに潜り込んだ。
頭から布団をかぶり、ビゼをぎゅっと抱きしめていると、アンナたちの部屋の扉が開く音がした。
なぜか、息を止めた。
そして、ビゼさん!動かないで!と祈る。
舎監の「まあ」という小さな声がして、アンナの心臓はひときわ大きくはねた。
コツコツという靴音はアンナのベッドの前を通り過ぎる。
キィっという小さな音で、窓を閉めてくれたことを察する。
そして足音はそのまま部屋を出て行った。
アンナは大きく息を吐き、脱力した。
…何やってるんだろう、私。それに、この鳥がビゼさんだなんて。
布団を剥いで起き上がると、ベッドの上で眠っている(?)鳥をまじまじと見つめた。
ぱっと見たところ、けががあるようではない。ただただ眠っているだけのようだ。
アンナはもう一度、「ビゼさん」と小さく呼んでみた。
反応はなかった。
よくわからない。わからないけど…、とりあえず鳥も自分も無事だし…まあ、いいか。
わからなすぎて、アンナの脳は考えることを放棄してしまったらしい。
その途端急に襲ってきた眠気に、アンナはそのまま身を委ねた。
「……おい」
小さな声で、呼びかけられる。
…エメラダ?めずらしい、私よりも早起きなんて。
「おい、起きろ」
低い声…、エメラダじゃない。
はっと目が開く。
黒い、鋭い眼光に射貫かれた。
「ビゼ、さん」
かすれる声で呟く。
「ここはどこだ?」
そう言ったビゼがとても近くて、アンナは慌てて後ずさろうとした。
「わっ!」
「おい!」
ベッドから落ちそうになったアンナを、ビゼの腕が支える。
その時アンナはようやく自分の状況を理解した。
自分の部屋の、自分のベッドに、ビゼと寝ている。
しかも、自分が暴れたせいで、抱き寄せられる格好になってしまっている。
顔が一気に赤くなるのがわかった。
「ビゼさん、こ、これは…」
「知らねえよ。目が覚めたらここにいた」
彼の言葉で、アンナの夕べの記憶が覚醒する。
ビゼに昨夜のことを説明すると、彼は途端に渋面になった。
「ヴァネア…」
彼の口から洩れたのは、アンナの知らない名前だった。
「そっか、悪かったな。急に押しかけて」
状況を理解したビゼはいつもと変わらぬ様子で謝罪する。
それがとてもいつもどおりだったので、アンナもつい尋ねていた。
「ビゼさん、鳥…の姿でしたよね…?」
「ああ、おれ、カラスだから」
「…カラス」
「うん。ユイに人間の体になれるようにしてもらったんだ」
「へえ…。そうなんだ…」
何だか、とてもすごいことをめちゃくちゃさらっと聞いてしまった気がする。
アンナがそんな気持ちに浸っていると、背後から声がした。
「あなたたち、何してるの?」
振り返ると、パジャマ姿のエメラダが目をまるくして、アンナたちを凝視していたのだった。
【メアリの場合】
そして、誰もいなくなった。
アルも、ホホも、ユイも出かけて行ってしまい、霧雨亭にいるのはメアリだけだ。
いつものことよね、と彼女は胸の中で呟く。
自分はいつもここで待っているだけだ。待つことしかできない。
メアリは毎日毎日多くの人が出入りする店の玄関に目をやった。
いろんな人がここから出て行った。
ちょっとそこまで、といった感じで出て行った人が2度と帰らなかったこともあれば、もう帰ってこないかもしれないと思っていた人が急に戻ってきたり。
どうなるかなんて、わからない。人も、猫も、…カラスだって。
ただ、自分だけはずっとここにいる。それだけは変わらない。
そうでしょ?シビル。
カラン、と軽い音がして、扉が開いた。
店内に入ってきた人物を見て、メアリは目を眇める。
その人物はメアリの姿を見つけると、ニコニコしながら言った。
「嘘つき」
ヴァネアだった。
メアリは反応もせず、ただじっと彼女を見つめている。
ヴァネアもそんなメアリを様子を気にすることなく話を続けた。
「どうせメアリが言い出したことなんでしょ?」
「…何のこと?」
「『バラが枯れた』なんて。そんなひどい嘘思いつくのはあなたくらいよ」
「こうでもしないとあんたは姿を見せないでしょ」
悪びれた様子もなく言い放ったメアリに、ヴァネアもあっさりと「まあね」と返す。
最後に二人が会ったのはアルたちの祖母、サリュの葬儀の後だった。
もう再び会うことはないと、実はメアリは思っていた。
ヴァネアはサリュを、森の魔女をうらんでいた。
その枷がなくなったのだから、もう戻ってくることはないのだろうと。
メアリが思っていた以上に、ヴァネアは人間になることへの執着が強かったらしい。
バラの封印。それはメアリたちの命。
彼らの心臓が森の家と霧雨亭を守っているのだ。
「森の家には行ったの?」
「行ったわよ」
「そりゃあ、ご足労をおかけしました」
全く心のこもっていない謝罪だ。
だがヴァネアもそんなことは気にした風もなく、ただじっとメアリを見つめ、言った。
「私も、あんたに会いたかったの」
それは意外な言葉で、動じないことに関しては右に出るものはいないメアリの心も少しだけ揺さぶられた。
メアリも改めてヴァネアを見つめ返す。
そこにいるのは確かに、決して仲がいいとは言えない旧知のカエルだ。
なのにどこか違和感を感じる。
その理由がわからない。
それがひどく気持ちが悪い。
メアリが遠慮なく訝しむ視線を向けていると、ヴァネアは呆れたような目をして尋ねた。
「で?私に何の用だったの?」
そうだ、こんなことをしている場合じゃなかった。
本題を思い出したメアリは背筋を伸ばして口を開く。
『ホホにかけた術を解いて』
ふたりの声がぴたりとハモる。
目をぱちくりとさせるメアリと、それを見てにんまりとするヴァネアがいた。
「この様子だと、ユイに会ってもきっと同じことを言われるわね」
「…ビゼから聞いたのね」
「ビゼだけじゃないわよ。アルも」
アル、という音に体が反応してしまうのは、ほとんど反射だ。
メアリは自分にそう言い訳した。
「相変わらず愛されているわね、ホホは」
その言葉にメアリはハッとした。
もう自分たちしかいないのだ。あの時のことを知っているのは。
そして気づく。自分だけじゃなかった、と。
殆ど敵みたいな相手だけど、共有できる相手がいたことに、メアリは少なからずほっとしていた。
「あんた、あの子がホホだとわかってて術をかけたの?」
「もちろん」ヴァネアは少し考えて付け加える。「ホホだから、かな」
「え?」
聴き返すメアリに、ヴァネアは今日一番の真剣な表情を向けた。
「初めは、本当に偶然だった。偶然ホホと会って…。でもホホだから放っておけなかった」
「…一体何があったの?」
ロドリスのところで何があったのかは、ホホ本人も憶えていない。
それは目の前にいる女が記憶を消したからだ。
では…、なぜヴァネアはホホの記憶を消したのか?
「消した記憶自体は…大した内容じゃない。でもその記憶がきっかけになってしまう」
「きっかけ?」
「竜の力が覚醒するきっかけ」
竜。その言葉は、メアリの胸にざらりとした不快な感覚をもたらす。
振り切って逃げても、いつの間にか自分たちに付きまとってくるのはなぜなのか。
「メアリ」
ヴァネアから名前を呼ばれるのは、本当にものすごく久しぶりのことだと、メアリは頭の片隅で思った。
「ホホを竜にしてしまってはだめよ」
普段の彼女からはありえないくらい丁寧で、真剣な口調だった。
だから、メアリは余計に怖くなる。
どうして?という言葉が頭の中だけで響いて、口から出ていこうとしない。
じっと見つめ続けるメアリに、ヴァネアは更に言葉を重ねた。
「ホホが竜になれば、世界は滅ぶわ」
母屋の暖炉の前で、メアリは動けなかった。
火のない暖炉はぼんやりと視界に入ってはいるけど、頭の中はさっきヴァネアから聞いたことでいっぱいだった。
「正直、世界なんてどうでもいいんだけど、私の野望を果たす前に滅んでもらっちゃ困るのよ」
それは実にヴァネアらしい言い分で、呆れた。呆れて少しだけ笑ってしまった。
「私は、何もできないんだって」
誰もいないから、独り言だから、口にすることができた言葉は思ったよりもずっと小さく、弱かった。
一貫しての傍観者。
そんなこと、とっくに知ってる。
心の中でそう呟くと同時に、リビングの扉が開いた。
「あ、」と、声に出して入ってきたのはアルだった。
「…おかえり」
「ん、ただいま」
アルは何か急いでいるようだ。どたどたと部屋の中を歩き回る。
でもメアリにはそれが、自分がいたからわざとそうしているように見えてならない。
リビングに入るまでは足音も立てなかったくせに。気配すらしなかったくせに。
メアリは思わず恨みがましい視線を向けそうになって、そっと彼から目を背けた。
いくらぼんやりしていたとはいえ、メアリは猫だ。人間よりも敏感な彼女が、家の中に人が入ってきたことに気が付かなかった。
でもそれは今に始まったことじゃない。
アルが船を下り、この家に戻ってすぐの時から、メアリはとっくに気が付いていた。
「ビゼは?来てない?」
テーブルで紙に何かを書き込みながら、アルが尋ねる。
「アンナのところよ」
「アンナ?」
手を止めたアルは顔を上げてメアリを見た。
「ジンカハニスに避難させたって」
彼はわかりやすく肩を落として息を吐いた。「ヴァネアか」
そんなアルを見て、メアリはヴァネアが言っていたことが本当だったのだと知った。
「アルに一緒に来ないかって誘ったんだけどね。断られちゃった」
さらりと告げるヴァネアを、メアリは凝視した。
いや、睨みつけた。
「なんで、そんなこと」
「だって、ぐらぐらなんだもの、あの子。危なっかしくて放っておけないわ」
そしてヴァネアは真正面からメアリを見据えた。
「アルはシビルじゃないのよ」
静かな店内に、ヴァネアの声は案外響く。
「そんなのわかってる」
絞り出すようにそう言った言葉が、自分でもびっくりするくらい弱々しい。
「そう。ならいいんだけどね」
そう言ったヴァネアも、メアリの嘘に気が付いているのは明白で、何とも言えない視線をメアリに注いでいた。
その視線がたまらなくて、メアリは俯く。
ヴァネアの言う通りだった。シビルを、アルたちの母親を守り切れなかったことをメアリはずっと悔いている。
そしてその負い目をアルで晴らそうとしている。
メアリも頭ではわかっている。そんなことをしても意味がないと。
でも心がどうしても言うことをきかないのだ。
旧知のカエルはそのことをとっくに見透かしていて、それがまた悔しい。
頭上からため息が降ってきた。
それは案外優しい音で、メアリの胸は余計ぎゅっとなる。
「もう少し自由になってもいいと思うけどね」
そんなこと言われたって、もうどうしていいのかなんて自分でもとっくにわからない。
でもメアリはそんなこと、口がさけても絶対に言いたくないのだった。
「ジンカハニスとは考えたな。あそこなら守りは堅い」
感心しながらアルは再び手を動かし始めた。
その様子を見ながら、メアリは訊いた。
「…どうしてヴァネアと行かなかったの?」
するとアルは「そんなことまで知ってんのか」と小さくぼやいてからメアリに視線を送る。
「…逆に訊くけど、どうしてヴァネアと行かなくちゃいけないの?」
自由になりたいんじゃないの?この家から。彼を縛るすべてのものから。彼自身から。
頭の中に浮かぶ言葉を、吐き出すことはできなかった。
メアリは怖かった。アルの答えを聞くのが。
だから代わりにこう言った。
「行かないで」
するとアルは手をぴたりと止め、顔を上げた。
あからさまに驚いた顔が、目の前の白猫を見つめる。
しまった、とメアリは思った。思わず口走ってしまった、と。
でも一度言ってしまった言葉はどうしようもない。
一瞬で後悔してしまったメアリに向かって、アルはゆっくりと口を開く。
「……行くわけないだろ。店もあるんだし」
なぜか半笑いでそう言った。
その様子にカチンときたメアリが言い返そうとすると、アルは言葉を続けた。
「それにこう見えて、結構気に入ってるんだ。今の生活」
立ち上がったアルの手には四つ折りにされた手紙がある。
アルは暖炉の前まで来ると、その手紙を暖炉に放った。
そして小さく呪文を唱えながら擦ったマッチで、手紙に火をつける。
青い炎がパッと激しく燃え上がったのは瞬間のことで、手紙もろともすぐに消え去った。