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猫とカラスと雨の森  作者: 夏川サキ
episode 1 朝靄の君
3/33

3

 リビングの扉をそっと開ける。なるべく音を立てないように気をつけながら。

 頭だけ入れて中を覗くと、ソファの上に朝と全く同じ姿勢のまま眠っている彼女がいた。

 あまりにも動いていないので少し不安になる。

 朝靄の中で出会ったあの女の人だ。

 あのまま道に放っておくこともできず、僕は彼女を実家まで運んだ。

 彼女は石でできているのかと思うほどがっしりとしていて、重かった。細身だが骨格がしっかりしていて筋肉質なのだろう。非力な僕がよくもここまで運べたものだ、と自分で感心する。

 アルは普段、あまり動じることのない人なのだが、必死の形相で女の人を引きずって来た僕を見たときはさすがに目を丸くした。それでも倒れこむように入ってきた僕から彼女を引き取ると、軽々とリビングへ運んで行った。

 僕は足音を立てないようにそっと室内に入る。

 彼女の足元に白猫のメアリさんがうずくまっていた。

 それはとても意外なことだった。メアリさんはうちの猫だが、アルと僕以外にはなつかないし、さらに言えば僕にもあまり触らせてくれない。

 そのメアリさんが見も知らずの人の足元にぴったりとくっついて眠っている。

 …ほんと、不思議な人だなあ。

 眠っている彼女の顔を見つめる。その寝顔はあどけなさとはほど遠い。むしろ眠っているときのほうが、初めに感じたあの鋭利的な印象が強まるようにさえ感じる。

 倒れた時は本当に驚いたけど、僕はすぐに彼女が眠っているだけだと気が付いた。まるでゼンマイが切れた人形のようだった。

 僕は彼女の額の上に右手をかざす。気の流れを整えるのだ。

 人間だけに関わらず生き物は皆、体内に気と呼ばれるエネルギーを蓄えている。気は体内を循環しているのだが、そのめぐりは体調や精神状態と深く結びついている。体が弱っているときは気の量が減ったり流れが乱れるのだ。その逆も然りで、気が乱れているから体や心が不調をきたす場合もある。だから気を整えてやると疲れが取れたり、症状が軽くなったりするのだ。

 僕は気の流れを整える術を祖母から受け継いだ。実際に仕事として施術することもある。

 今朝、ここに運び込んだ時に彼女を診て、驚いた。彼女はからっぽだった。とんでもなく気の量が減っていたのだ。そしてほとんど流れていなかった。

 この状態はかなりまずい。まるで重症患者だ。さっきまで元気に会話をし、颯爽と歩いていた人とは思えない。

 だがどこか悪いところがあるようにも見えなかった。まあ少し医術をかじった程度の僕の見立てなので、自信を持って言い切れるものでもないが。でも寝顔を見ていると、この人はただ本当に疲れ切っているように思えた。

 アルと話し合った結果、僕たちは「しばらく寝かせておこう」という結論に達した。

 僕は口の中だけで小さく呪文を唱え続ける。大気中のエネルギーを吸い込み、僕を媒介してかざした手のひらから彼女に注ぎ込んでいた。

 朝も1回行ったので、少しはましになっているようだ。心の中でほっと息を吐く。

 それにしても彼女の気のめぐり方は独特だ。僕はこんな流れ方をする人に今まで会ったことがない。

 この人は…どんな人なんだろう。

 ふと、そんな疑問が頭の中に浮かんだ。

 そんなことを思ってしまったことに驚く。狼狽して、呪文が途切れてしまった。


「ありがとう。もう十分だよ」


 小さな声だった。僕は更に驚いて声の主を見た。

 明るい水色の瞳が僕を見つめている。彼女の瞳の色を、この時初めて知った。

「すごく楽になった。ありがとう。あなたが助けてくれたのね」

 ふわりと微笑まれると、急激に頬に熱が集中していくのがわかった。

 彼女はゆっくりと体を起こそうとする。

「まだ寝てたほうが…」

 確かに少しは回復しているようだが、まだまだ本調子ではないはずだ。

「大丈夫」彼女はソファの上で大きく伸びをした。「ずっと寝てなくて、ほんとに疲れてたんだ。あなたと話したらなんか急にほっとして、そしたらすごい勢いで眠気が襲ってきちゃった」

 なんてことないように話す。事情はいまいちよくわからない。

「…どれくらい寝てなかったんですか?」

「うーんと…、3日、いや4日だ」

 なんてことなくない。僕は目を見張った。

「あの、あなたは…旅の人?」

 朝から訊ねたかったことを、僕はやっと口にした。

「うん。あ、まだ名乗ってもいなかったね。私、ホホ。」

 ホホ。心の中だけでその名をゆっくりと反芻する。

「…私は、ユイル。…みんなはユイって呼ぶ」

 顔を見て言うことができなかった。

「よろしくね、ユイ。本当にありがとう」

 ホホは深々と頭を下げた。栗色の髪が揺れる。

「あ、」ホホは自分の足元に目をやった。メアリさんはまだうずくまって寝ている。

「ぬくい」

 彼女はそう言って嬉しそうに目を細めた。



「どうぞ、めしあがれ」

「はい…いただきます」

 うちの住居部の台所には夕方、西日がさんさんと降り注ぐ。夏場はかなり暑いが、今の季節はあったかくて気持ちいいくらいだ。僕たちはそんなオレンジ色の光の中でちょっと早い夕食を取っていた。

「おいしい!」

 スープを一口飲んだホホは顔を輝かせた。

「お口に合ってよかった」アルはそう言って、白身魚の煮付けとサラダを食卓に並べた。「店の残り物で悪いけど」

「ううん、ほんと、すごくおいしい」

 ホホは僕の向かいの席で、すごい勢いでスープを平らげていく。

「無理せず、食べられるだけ食べなよ?」

 目が覚めたばかりとは思えないその食欲に、アルも若干圧倒されているようだ。

「うん、わかった」といいつつ、ペースは衰えない。

 僕たちの心配をよそに、スープを全て飲み干したホホは次にサラダに手を伸ばした。

「ユイもホホに負けずにしっかり食えよ」

 彼女のみごとな食いっぷりに見とれていた僕は、アルの言葉にはっとした。あわてて手を動かす。

 食事をしながら、ホホは自分のことを話してくれた。

 彼女はここからずっとずっと遠くの、海を渡ったむこうにある大陸の国からやってきたそうだ。その国の名前を聞いても、名前しか知らない僕はピンとこなかった。商船に乗っていたアルは地理に詳しいので、その国のことについてホホと話していた。

「世界を自分の目で見てみたいと思ったの」

 彼女の家は山小屋の宿屋を営んでいるらしい。子どもの頃から宿のお客さんに自分の知らない外国の話を聞いているうちに、そう思うようになったそうだ。

 数か月前、ホホはこの国にやって来た。そして旅費を稼ぐためにとある豪商に雇われ、商隊の警備隊員として働くことになったという。そのことを聞いて、倒れたホホの腰に立派な短剣が下げられていて、ソファに寝かせる時にそれを僕の手ではずしたことを思い出した。

「取引が行われる場所がちょっと物騒な場所を通るから、警備を固めたかったんだって」

 ホホが口にした場所は確かに治安があまりよろしくない地域だった。

 だが、心配したような事態もなく、旅は順調に進んだ。荷物も無事に引き渡し、明日には会社のある町に戻ってこれる、そんな日の夜に事件は起こった。

「は?プロポーズされた?」

 兄の間の抜けた声が台所に響き渡る。僕もきっとぽかんとした表情を浮かべているはずだ。

 話の方向が180度ずれたように感じた。

 ホホは神妙に頷いた。

 行く先が全く見えない。

「相手は?」

「ご主人様」

 重要な取引だったので、旅には社長自ら同行していた。ホホは一介の警備兵に過ぎないが、何度か話をする機会があって、その時に見初められたらしい。

 しかしホホには全くその気がなかった。

「社長っていくつなの?」

「たしか…28歳だったと思う」

 若い。社長って言うから、てっきりもっとオヤジだと思っていた。

「そっかー、ホホとはちょっと離れてるね」

 アルの言葉に僕は驚く。「なんで年がわかるの?」という視線を兄に、「いくつなの?」という視線をホホに投げかけた。

 きょときょとふたりを見ていると、僕の戸惑いを感じ取ったホホがすまなそうに告げる。「私、18よ」

 若い。僕と1つしか違わない。てっきり20歳を越えていると思っていた。

「ごめん。失礼な奴で」なぜか僕よりも先にアルが謝る。僕も慌てて謝る。「ご、ごめんなさい」

 ホホは首を横に振りながら「ううん、いつも実年齢より上に見られるの」と笑っていた。

 そして脱線してしまった話を元に戻す。

「それできちんとお断りしたんだけど、なかなかあきらめてくれなくて。ついには押し倒されそうになったから、殴って逃げてしまったの」

 ホホは自分の握りこぶしを見つめている。ぐーでいったんだ…。

「災難だったね」

 アルは眉間にしわを寄せている。

 ホホは「ううん」と首を横に振った。「まだ続きがあるの」

「続き?」

「追ってくるの」

「その社長が?」

「社長の部下が」ホホはうんざり、というように吐き出した。「逃げても撒いても、私を見つけ出すの」

 かれこれ8日間も鬼ごっこを続けていて、気づけば彼女は東西に長いこの国の、西の端の町から東の端にあるザッカリーまで逃げてきたそうだ。

 それは、かなり怖い。

 ここ数日は眠らず、ろくに食事も取らずにひたすら移動してきたらしい。そんなでは倒れても無理はない。

 僕とアルはそっと視線を交わした。僕は小さく首を横に振る。

 追手はどうやってホホを見つけ出しているのか。

 僕が確認できる範囲では、彼女に何かしらの術がかかっているような感じはなかった。ただ、世の中には僕の知らない魔術なんてたくさんある。感知できない術も、感知できなくする方法もたくさんある。

 それに商人という仕事柄、顔も人脈も広いだろう。緻密な情報網を持っているのかもしれない。

 ホホは不安そうな表情で視線を食卓に落としている。さっきまで自分よりも年上に見えたのに、その様子は小さな子どものようだった。

「しばらくうちにいるといいよ」

 明るい声でアルが言った。ホホがはじかれたように顔を上げた。

「そんな、見ず知らずの方にこれ以上ご迷惑を掛けるようなことは…!」

 恐縮してぶんぶんと手と頭を振った。

「でも、君ぼろぼろだよ?そんな状態で放り出すなんてできないよ」

 アルはそう言ってサラダをばりばり食べる。

「でも、ここにも追手が来るかも。あなたたちを巻き込んでしまうことはできない」

 声は尻すぼみに小さくなっていった。そんなホホを、アルは豪快に笑い飛ばす。

「心配しなくても、俺たちなら大丈夫だよ。なあ?ユイ」

 急に振られてびっくりするが、ホホの心細そうな顔を見ると、こくこくと頷いてしまった。

「ほら、ユイもそう言っているから。ね?せめて体調が元に戻るまで」

 アルは目を細めて微笑みかけた。するとホホもはにかんで僕たちを交互に見た。

「…ありがとう。お世話になります」

 その笑顔が年相応だったので、僕はちょっとほっとした。



「アルって、すごいよね」

「なんだ?突然」

「いや、初対面の女の子によく『うちにいなよ』って言えるなと思って」

「放っておくわけにもいかないだろ」

「あの人の言っていることが全て本当だとは限らないでしょ?」

「それはそうだけど。でも大丈夫だよ」

「なんで言い切れるの?」

「うちにはメアリさんがいるからね。やばいものはメアリさんが家に入れないよ」

「…そうだけど」

「そうじゃなくてもあの子は大丈夫だと思うけどね」

「なんで?」

「俺の勘」

「…あっそ」



 僕はその晩、霧雨亭に泊まることにした。家で仕事が溜まっていることはわかっていたけれど、なんとなく帰れなかった。ビゼには連絡を入れておいたが、多分すごくむくれている。明日が怖い。

 ここに泊まるのは本当に久しぶりだった。何の気なしにその回数を数えてみたら、物心ついてからでは片手で足りるくらいしかなかった。

 この家にはちゃんと僕の部屋があった。そしてそこのベッドがいつでも使える状態になっていることも、ずっと知っている。

 その僕のベッドはホホに譲った。しっかり休んで、元気になってもらわなければならない。

 僕は夕方までホホが横になっていたソファに寝そべる。

 いつもと違う天井を見上げ、なんだか不思議な気持ちになったりしたが、疲れがすぐに僕を眠りへと誘った。



 その翌朝、僕たちが厨房で開店準備をしている時だった。

「おはよう!」

 元気のいい挨拶とともにホホが厨房に入ってきた。

「おはよう、ホホ」

「…おはようございます」

 今日は髪をひとつに束ねているんだなあ、と思っていると、彼女は言った。「私にも手伝わせて」


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