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猫とカラスと雨の森  作者: 夏川サキ
episode 4 彼女が旅に出た理由
27/33

3

 私が見た未来では、この倉庫でヴァネアはアルを誘っていた。

 彼は少し考え込んで、それから小さく頷いた。

 その時のどこかあきらめたような表情を見て、私は思った。

 多分もう、一生会えない、と。

 何の確証もない、単なる勘に過ぎないけれど、その勘が私をここまで走らせた。

 今、離れ離れになるなんて嫌だった。

 もう会えないなんて、絶対に嫌だと思った。

 そんな強い気持ちを誰かに抱いたのは、初めてだった。



「アルはわたさないから」

 私はきっぱりと宣言した。

 するとヴァネアは一瞬目を丸くし、それからふふっと笑った。

「かわいい」

 その言葉で一気に私の顔には熱が集まる。

 …なめられてるし。

 恥ずかしさと怒りがお腹の中でぐるぐる回りだす。

「私がしようとしていたことを、どうしてあなたが知っているのかはわからないけど、」ヴァネアは笑いを抑えて、少し首を傾げる。「でもそれは、あなたが決めることではないでしょう?」

 それは…そうなんだけど。

 認めはするけどしゃくだから、声には出さずに心の中だけで呟いた。

「彼はずっと、自由になりたいと思っていたのよ」

 自由になりたい。

 実際に言われてみて、思った以上にインパクトのある言葉だったことを知る。

 キーンと頭の中に響いて残る、そんなかんじ。

 …そうなの?

 振り返ってアルに訊きたくなる心を抑えて、代わりに私はヴァネアに問うた。

「……何から?」

「…すべてじゃない?」ヴァネアは微笑みながら答える。「彼を取り巻くすべてのものから」

 アルを取り巻くもの。

 ユイやビゼにメアリさん。

 霧雨亭、森の家、カッシュやゼフィ。

 家の事情。呪い。

 他にも私の知らないこと、いっぱい。

 それから、…私も。

 全部放り出してしまいたいって思っても、それは仕方がないのかもしれない。

「でもあなたは…それをアルから聞いたわけじゃない」

「そうね。ただ、付き合いは長いから。私たちは家族のようなものだったし。見ていればわかるわよ」

「そんなの、…アルが言ったわけじゃないのなら、わからない」

 言いながらも、私が信じたくないだけなのだと自覚していた。

 勝手だな、と自分でも思う。 

「わかるわよ」ヴァネアはかわいそうなものを見るような目を私に向けた。「だって私とアルは同じだもの」

「同じ…?」

「私も彼も、縛られている。自分じゃどうしようもないものにね」

 今度こそ本当に振り返りそうになった。

 でも振り返って「そうなの?」って訊ねてみても、眠っているアルは何も答えてくれない。

 それどころか、寝顔だからこそ感じ取れてしまう何かがある気がした。それを知りたくなくて、結局私は振り返ることができない。

 ………弱虫。

 自分のふがいなさから目を背けて、私は訊ねる。「あなたは何に縛られているっていうの?」

 ヴァネアは少しだけ表情を歪めた。「知ってると思うけど、私は使い魔よ」

「でもユイのおばあさんはもう亡くなってるじゃない」

 契約相手の魔女が死亡すると、契約は失効すると聞いた。そうすれば使い魔は自由になれると。

「それは契約次第よ。メアリだって霧雨亭の守護を続けてるでしょ」

 そう言った後、「まあ、契約なんてなくってもあの子は好きでやるんだろうけど」と付け加える。

「でもあなたは森の家を出て行った」

 契約上はまだユイのおばあさんとつながりがあるのかもしれないけれど、実際は好きなところに行って、好きなことをしている。

 それでもまだ自由ではないというの?

「私、呪われているから」

「え?」

 聞き間違えたかと、私は訊き返す。

「私の能力は人の記憶を書き換えることだけよ」

「じゃあ、みんながあなたのことを覚えていられないっていうのは…」

 ヴァネアは少しだけ微笑んで、告げた。

「サリュの、アルたちのおばあさまの仕業。あ、みんなは知らないわ。アルもユイもね」

 ヴァネアの言っていることが、うまく呑み込めない。

 ……どうして?

「初めから私をどうこうしようとしたわけじゃないの。たまたま、偶然そうなってしまったってだけで」

 偶然なんて、なにそれ。

「偶然なら…解いてくれてもいいじゃない」

「偶然でも、それはそれで都合が良かったみたいよ。いろいろと」

「そんな…」

「意外と使えるからね、この能力。だからユイのため、…というよりは森の魔女のために私を自由にしなかったんだと思う」

 あばあさんが家を重んじる人だったというのは、前に誰かに聞いたことがある気がする。

「だから私は呪いを解いて、使い魔やめて、普通の人間になりたいの」

 初めから最後までずっと、淡々とした口調で彼女は告白した。他人事のように。

 私は、何も言えなかった。

 納得してしまったから。

 納得していいのかどうかわからないけど。

 そんな若干混乱気味の私に、彼女は苦笑交じりで訊ねた。

「もしかして、あなたもそうかしら?」

「え?」

 思わず声を漏らしてから、私は慌てて首を横に振った。

 振ってみたけど、違う、という意味でもない。多分。

 そんなこと考えたくもないから、振り払っただけだのような。

「もし私が呪いを解く方法を手に入れれば、それはもしかしたらアルの役立つかもしれないでしょう?」

 それは…、そうだ。

 否定なんてできなかった。

「それにビゼだって」

「…ビゼ?」

「そうよ。人間になる方法、あの子だって知りたいはずよ。ずっと人間になりたがっているもの」

 これも言い返せない。

 ビゼはきっとそう思っているって、私でもわかるから。

「アルは魔力はないけど、魔法には詳しいでしょ?一緒に来てもらえれば、私の研究もはかどると思うの」

 そう言ったヴァネアは楽しそうだった。

 とてもいい思い付きをした、みたいに目を輝かせている。

 こっちは…、何だかくらくらする。

 頭がうまく回らない。

 この人のしていることは、決して良いことではないはずだ。

 人を操る石なんてとんでもないもの作ってるし。しかもいろんな人を巻き込んで迷惑をかけて。

 私は個人的にも多大なる被害を被っている。

 なのに、……言い返せない。

 アルは自由になりたい。

 ビゼは人間になりたい。

 ふたりのことに関しては、ヴァネアの言う通りだと思うから。

 この人のほうがふたりと長く一緒にいて、ふたりのことをわかってる。

 そんな考えがじわじわと広がって、私は言うべき言葉が見つからない。


「バーカ」


 その時、ふいに頭に浮かんだのは、いつもの聞きなれた悪態。

 ビゼの声だった。



 ビゼは弟に似ている。

 顔とかじゃなく、その雰囲気が。

 うちの弟も無愛想で、口が悪い。

 そんなだけど、私にとってはかわいい弟だった。


「その女は竜だ!」

 出会って数分の相手に見抜かれて、私は心底驚いた。

 何でわかったんだろう?

 単純にそれが不思議だった。

「竜であることは人に言ってはいけないよ」

 小さい頃から、父は私たち姉弟にそう言った。

 それこそ何度も何度も。事あるごとに。

「どうして?」

 子どもの私が訊ねると、父は少し悲しそうな、困ったような笑みを浮かべた。

「みんなが怖がるから」

「私、何も悪いことなんてしないよ」

「何にもしなくても、竜ってだけで怖いものなんだよ」

 私は納得いかなかった。そんな私に苦笑し、父は続ける。

「それに竜の力を借りたいって人はたくさんいる。でも、竜の力は人間が使うには大きすぎるからね。力を巡って争いが起こったり、悪用しようとする人もいたりする」

 それを聞いた私は、世の中にはいろんな人がいるんだなあと思った。

 山の中で暮らす私は世間知らずで子どもで、全くぴんと来なかったけど、父がそう言うんだから気をつけようと肝に銘じたのだった。

 父の言っていたことの意味がわかったのは、旅に出てからだった。

 竜の情報を集めていた私は、世間の人々の竜に対する認識を改めて知ることとなる。

 おそれ、だ。

 人々は竜を怖がっている。

 そしてその力にあやかりたいとも思っている。

 私はどうしてうちの家族があんな山奥で暮らしているのか、その理由のひとつがわかった気がした。

 だけどそのおそれが自分に向けられたのは初めてだったので、私はうろたえてしまった。

 そしてどう対応していいのかわからなくて、取りあえず逃げたのだ。

 森の中を走りながら、頭の中にはずっと「どうしよう」がぐるぐる回っていた。

 竜と言っても血が薄いので、黙っていればわからない。そう思っていたのに、一発で見破る人もいることを知ったのだ。

 怖くてたまらなかった。

 ばれたら大変なことが起こる。なぜか私はそう思っていた。

 …いや、知っていた。

 森を走る私の記憶からは消されていたけど、今ならわかる。

 かつてばれて大変なことが起こってしまったから。

 だからその恐怖で、私は幻影を生み出してしまった。


 ユイに助けられて森の家に戻った私に、ビゼは容赦なかった。

 でも追い出すようなことはしなかった。

 それどころか、…案外面倒見がよかったのだ。

 ぶつぶつ言いながらも気にかけてくれる。

 私は、ぶっきらぼうでお人好しなビゼのことが、だんだんかわいく思えていった。

 そんなこと、本人に言った日にはめちゃくちゃ怒られるだろうけど。

 でも、だから私もアンナもすぐに懐いてしまったんだと思う。

 アンナと言えば、彼女と初めて会ったのは私とビゼが初めてふたりきりで出かけた時だった。

 私が調子に乗って荷車に山盛りの荷物を積む羽目になってしまい、ビゼの機嫌はすこぶる悪かった。

 それでも見捨てずに一緒に荷車を押してくれるのがビゼなのだ。

 途中木陰で休憩をした時に、彼は私の家族のことについて訊いてきた。

 怪力は竜だからなのか?とかそういった感じのことだったと思う。

 竜が心底嫌いな彼の口からそんな質問が飛びだしたことに、私は内心驚いていた。

 彼は昔、竜にひどい目に遭ったらしい。だから今でも竜のことが怖いし、嫌いなんだそうだ。

 初日の、私に対する反応もそのせいだった。

 ビゼの事情を知った私は、彼と接する上で不用意に近づかない、目を見ない、竜っぽさを出さない(?)といったことに気をつけるようにしていた。

 そんな風に注意を払いながら、ビゼとの距離をじりじりと詰めていた私だったが、実はずっと訊いてみたいことがあった。

 それは碧雨の竜、ビゼにひどいことをした竜についてのことだった。

 私の旅のメインテーマは「竜のことを知る」だ。

 なり行きで霧雨亭の店員となったが、当初の目的を忘れたわけではない。むしろ、ビゼがいたから雇われることにした、という面すらある。

 私がこれまで掴んできた情報は嘘か本当かわからない、まゆつばものがほとんどだった。

 だけど碧雨の竜だけは実在が悪評と共に証明されている。

 ビゼはその竜とかなりの時間一緒にいたのだ。私としてはそんなビゼに質問してみたいことがたくさんあった。

 でも彼の過去を思えば…訊きづらい。

 だから私はまずは仲良くなり、質問できる機会をうかがうことにした。

 そのチャンスがこの時初めて訪れたのだった。

 私は迷ったが、思い切って声をかけた。

「ねえ、ビゼ」

 するとビゼは「何?」とこちらに顔を向ける。

 その顔を見たとたん、訊けなくなった。

 ビゼがあまりにも普通に私を見たから。

 いつの間にか、彼は私のことを初めの頃のような警戒心むき出しの目で見なくなっていた。

 そのことに、この時気づいてしまったのだ。

 気づいたら、もう訊けなかった。

 つらいことを思い出させるようなことは、どうしてもできなかった。

 意味不明な私の行動にビゼはいらついていたけど、その方がずっとましだと思った。

 それ以来、私はビゼに碧雨の竜のことを訊いていない。

 チャンスは何度もあったし、訊けば多分ビゼもちゃんと答えてくれると思う。

 自分のすべきことを忘れたわけではないけれど、ビゼから情報を聞くということを、私はすでにあきらめている。



「……ビゼは喜ばないと思う」

 ぽつりと口から、言葉が滑り落ちた。

 その自分の言葉を聞いて、確信する。

 だから今度ははっきりと告げた。

「人間になる方法を手に入れても、今急にアルがいなくなったんじゃ、ビゼは喜ばない」

 ヴァネアは感情の読めない目で、私の顔をのぞき込む。

「……それは、ユイが悲しむから?」

「それもある」

 否定はしない。ビゼのユイ至上主義は一貫している。

「でもそれだけじゃない。ビゼはアルのことが好きだから」

 アルがいなくなったら悲しいのは、ユイだけじゃない。

 それは私も十分わかる。

 それだけの時間を、私は彼らと過ごした。



「なあ、やっぱりさ、明日ピクニック行かない?」

 裏庭で洗濯を干していると、手伝ってくれていたビゼがぼそっと言った。

 明日のピクニックは中止。

 それは暗黙の了解だった。

 中止の主な原因はまぎれもなく私だ。

 今は術の干渉を遮ってもらっているので操られることはなさそうだけど、何かの拍子にまたややこしいことにならないとも限らない。

 解決するまでは、あまりフラフラ出歩かないほうがいいというのがユイとメアリさんの見解だった。

 その通りだと思う。

 だけど…申し訳なさすぎる。

 みんな着々と準備を進めていたし、本当に楽しみにしていた。

 しかも明日はただのピクニックじゃない。

 アルの誕生日、サプライズパーティーなのだ。

 だからできれば明日がいい。

 でも、…ここ数日、私は散々みんなに迷惑をかけた。これ以上困らせられないっていうのもわかっている。

 それにアルも体調が悪い。

 この間、私はアルを雨でびしょ濡れにしてしまった。それに彼はここ数日、仕事の後で森の家に来て、遅くまで話し、朝はいつも通りに店を開けるという生活をしていた。

 身体的にも精神的にも、私が負担をかけてしまったことが体調不良の原因なのは明らかだ。そう思うと本当に情けなかった。

 だからビゼの提案にも渋ってしまう。

「うーん、…難しいんじゃない?」

 私は手を休めることなく言った。

 自分でも声のトーンが暗いことがわかる。

 そんな私にビゼは珍しく食い下がった。

「こんな時だからこそ、なんつーか息抜き?とかさ、必要なんじゃないの?ほら、せっかくの休みなんだしさ。家に閉じこもってたら、おまえ絶対うじうじ考えるだろ?それって精神衛生上良くないと思うけど」

 私は驚いてビゼを見た。

「…なんだよ?」

 私の視線に、彼はうっとうしそうな顔をする。

「いや、ただ単純にびっくりしてます。そんな…ビゼにダイレクトに心配される日が来るなんて」

 するとビゼは心底あきれたような、深いため息を吐いた。

「バーカ、おまえだけじゃないっての」

「え?」

「みんな、だよ。みんな息抜きが必要なんだろ。しょうがないことだけど、今、なんか空気淀んでるし」

 まあ確かに明るい雰囲気だとは言い難い。

「こんな時だからこそ気持ちが上向いてるってのが大事なんじゃない?ほら、あの石って精神状態に作用するっていうし、楽しくしてたほうがちょっかいかけてくる隙がないんじゃない?」

「……おっしゃる通りで」

「だろ?」

 ビゼは得意そうに笑う。

「でも、アルは大丈夫かな?」

 彼はやはり明日は一日ゆっくり休んだ方がいいのでは…。

 そんなことを思っているとビゼは「多分大丈夫だろ」と何でもないことのように言った。

 私の手が止まる。ビゼを見ると、彼も手を止めてこちらを向いた。

「いつものことだから。頭痛持ちなんだよ。よく薬飲んでるだろ?ユイが処方してるんだけど、あれ飲めばすぐに治る」

「…知らなかった」

 頭痛持ちだってことも、薬を飲んでいることも。

 一緒に住んでいるのに。

 私の表情から何かを悟ったであろうビゼは「まあ、そういうこと人に言うような奴じゃないし。隠すのうまいから」とフォローを入れてくる。

 そしてアルの頭痛は精神的な要因が大きいんだとビゼは教えてくれた。

「なんか知らんけど、多分またひとりで考え込んでるんだろ。訊いても答えないだろうから訊かないけどさ」

 ビゼとアルが親しくなってきたのは、ほんの最近のことだとユイが言っていた。

 それまでビゼはアルのことをちょっと怖がっていたのだとか。

「だからアルにこそ、気分転換が必要なんだと思う」

 怖いからよく気を付けて見ていたというのもあるんだろうけど、今はきっとそれだけでない。それは私にだって感じ取れた。

「誕生日パーティーするんだろ?」

「…うん」

「サプライズにするんだろ?」

「うん」

「だったらやっぱ、明日のほうがいいんじゃない?アルの誕生日は明日なんだし」

「…そうだね」

 私たちがパーティーの計画を話した時、ビゼは仏頂面で聞いていた。そしていかにもしょーがねーな、というかんじで「おれが反対してもやるんだろ」とこぼしていた。

 多分初めからそんなに嫌でもなかったんだろうけど、そこはほら、ビゼだから。

 ビゼは再び洗濯物に手を伸ばしながら、「それにアンナがすっげーケーキ作るって張り切ってたからな」と少し笑う。

 昨日、本当はみんなで最終の打ち合わせをする予定だった。そのためにアンナは来てくれたのに、私は眠っていたし、ユイも森の家から出られなかった。だから彼女に対しても本当に申し訳ないと思っていた。

 ビゼはアンナに、ホホは風邪だと説明してくれていた。だからもしかしたらパーティーは中止になるかもしれないと。

 アンナは私をすごく心配していたそうだし、事情も納得してくれている。それでもがっかりさせないで済むなら嬉しい。

 それはきっとビゼも同じに思っているはず。

「…ビゼ」

「何だよ?」

「なんか…、今日は一味違うね」

 するとビゼは一瞬きょとんとして、それから眉をしかめた。

 いつも通りな彼の反応に、ちょっと安心する自分がいた。



 その後、ビゼと私はユイとメアリさんの説得にかかった。

 手強いふたりから了解をもらうと、彼はカラスの姿になって女学校にいるアンナに決行を伝えに行き、それからひとり森の家に準備に戻った。

 そこまでするのはアルがユイのお兄さんだからという理由だけではないはずだ。

 なんだかんだ言うけど、ビゼだって今日を楽しみにしていた。

 それにアルのことを心配してたし、誕生日を祝いたいとも思っていた。

 私はそう思うことにする。

「だから悪いけど、今回はあきらめて」

「…何がだからなのか、よくわからないんだけど」

「ユイもビゼもメアリさんも、それから私も、アルにいなくなってもらったら困る」

「それはあなたたちの勝手じゃない」

「そうよ」

 ユイのこと、ビゼのこと、メアリさんのこと。

 霧雨亭のこと、森の家のこと。

 アルのこと、私のこと。

 それから今日のこと。

 いろんな人の思いと、自分の気持ちが混ぜこぜになる。

 でも間違ってはいけない。

 私は、私のために動いてる。

 ユイが悲しんでいるところや悔しそうなビゼを、私が見たくないだけだ。

 今の霧雨亭に、私がもっといたいだけだ。

 だから、今、確実に間違いなく伝えられるのは、私の気持ちだけ。

 そしてそれを伝えたい相手はヴァネアじゃない。

 気づいた私は、今度は迷わず振り返る。

 眠るアルを見つめた。

「私だってアルが好きだもの」

 そして今度はヴァネアに体ごと向き直る。

「私、わがままだから。私がアルを行かせたくないの」

 勢いで出た言葉に、妙に納得する。

 わがままでも何でも、行ってほしくない。

 まじりっけなしの私の気持ちだった。

 すると、背後から「ふっ」と吹き出す声が聞こえた。

 振り向くと、寝転がったままのアルが笑っている。

「…アル」

 びっくりした。

 てっきり眠ってるもんだと…。

 笑う彼を見ながらいくつかの疑問が浮かぶが、口にしたのはこれだった。

「…何で笑ってるの?」

「ごめん」彼はまだ可笑しそうにしている。「もうちょっと寝たふりしてようかと思ってたんだけど、ホホが…」

「私?」

「『わがままだから』って、すごい開き直り方だなーと思って」

 そうかもしれないけど…。でもそんなに笑うとこ?

 まあ、アルの笑いのツボはちょっと人とずれてるしね。

 そんなことを思っていると、アルは「よいしょ」と体を起こした。

「ずいぶんぐっすり寝てたわね」

 ヴァネアが声をかけるので、私はピクリと反応してしまう。

「うん。よく寝た」

 言いながら伸びをするアルだけど、その顔にはまだ疲労の色が濃い。

 顔色だって、決して良くない。

 観察するように見ていると、目が合った。

「おはよう」

 彼が言ったのはいつもの朝のあいさつ。

 なのに私は泣きそうになる。

「…おはよう」

 返すと、アルはにこりと笑ってくれた。

 ……ああ、そうだ。この笑顔が好きなんだ。

 傍にいたい。隣で笑ってほしい。

 そう思うから、私は今ここにいる。

 そのことに気づいた私は、自分も笑ってみせた。

 泣きたくて、笑いたくて、多分すごく変な顔になってるだろうけど。


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