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猫とカラスと雨の森  作者: 夏川サキ
episode 4 彼女が旅に出た理由
26/33

2

 毎朝私たちはこのぐらいの時間に起き出して、開店準備を始める。

 と言っても私が起きた時には大抵、すでにアルは動き出しているのだけど。

 階段を下りても、いつもの「おはよう」は聞こえてこない。

 こんな静かで、彼の気配のない朝。

 知らない家にいるみたいだ。


 音を立てないように歩いたつもりだった。

「……ホホ?」

 呼び声に振り返ると、リビングの扉から半身を出しているユイは寝ぼけ眼を擦っている。

「どうしたの?こんな早くに。今日はお休みだよ」

「うん…、」ついていない。メアリさんだけでなくユイにも見つかるなんて。「いつものくせで早く起きちゃったから、散歩に行こうかと思って」

「…早朝とは言え、危ないんじゃない?」

 ユイもメアリさんと同じような反応を見せた。

 この家の人たちは、みんな優しい。

 中でもとりわけユイは。

 つぶらな黒い瞳が全力で「心配!」と訴えていた。

「ありがと、ユイ。でも…もう大丈夫だと思う」

 彼はいぶかしむような視線を向け、少し首を傾げた。

「…覚悟決めたから」私は肩を竦める。「向かってくる奴は遠慮なく叩きのめすことにしたの」

「ホ、ホホ?」

「ほら、私強いから」自分で言うのもなんだけど。「力加減したつもりでもやりすぎちゃったりすることがあるわけよ。だからできるだけ手を出すことは避けてたんだけどね」

「それは…気づいてた」

 やっぱり。ユイはよく見ている。

「でもそんなこと言ってる場合じゃないし。私だって操られるのなんか嫌だもの」

 こうして話しているだけで、余計なことがユイに伝わってしまうんじゃないかという不安に駆られる。

 そのくらい、黒いつぶらな瞳は心を見透かすかのように、まっすぐに私を見つめていた。

 彼の形のよい唇が、ゆっくりと動く。

「一体、何が起こってるの?」

 私は凍り付いた。

 どうやってごまかそう。

 一瞬そんな考えが頭をよぎったが、すぐに無理だと気づく。

 ユイはもう勘付いている。この子は見た目ほどぼんやりとしてない。

「…わからない」

 正直に答えるしかなかった。

 実際、事がどこまで進んでいるかは私にもわからない。

「それは、…やっぱり私は知らないほうがいいことなのかな…?」

 ユイの言葉に、心臓をぎゅっと握られたような感じがした。

 この人に、また、こんなことを言わせてしまった。

 自分の気持ちを抑え込むようなことを。

 でも…アルは自分が今していることを、誰にも知られたくないと思う。

 特にユイには。

 私はひとつ頷く。「……ごめん」

 するとユイは少し困ったように笑った。

「じゃあ、仕方がないね」

 いつもと同じような、穏やかな口調だった。

 ユイはポケットから何かひものようなものを取り出し、それを口元に当てる。

 短く呟いたのは呪文のようだけど、魔法が苦手で不勉強な私には、何をしたのかはよくわからない。

「手、出して」

 左手を差し出すと、ユイは私の手首にそれを捲いた。

 よく見ると、ひものようなものは昨日ユイが髪を結っていたリボンだった。

「お守りだよ」

 薄い青の、細いリボンはユイのお気に入りのものだ。よく着けているのを見る。

 器用にリボンを蝶々結びをするその手に目が行く。

 ユイはこんなにかわいいのに、手だけは丸きり男の子なのだ。

 それに兄弟だからか、アルとユイ、ふたりの手はよく似ていた。

「即席だから長時間は持たないと思う。それからあまり遠くには行かないで」

「わかった」

 簡単な結界を施したのだろう。

 いつも感心するけど、彼はとても魔法がうまい。即興で複雑な魔法をいとも簡単に組み立ててしまえる。

「何かあったらこれに念じてね。すぐに行くよ」

「…ありがとう」

 私が顔を上げてそう言うと、ユイはそっと微笑んでくれた。

 ユイは優しい。

 だからみんな、ユイなら許してくれると思ってしまう。

 私も、ビゼも、アルも。

 そして本当に、ユイはすべてを許してしまうのだ。

 優しくて、とても強い人。

 それが私の知る霧雨亭の魔女だった。

「気をつけて」

 ユイの左手が一瞬だけ、私の左手をぎゅっと強く握った。

 熱く、力強い、ユイの手。

 彼の心の内が伝わるようで、胸がまた苦しくなる。

 それでも私は行かなければならない。

 小さく頷いて、私は踵を返し、霧雨亭を飛び出した。



 東へ行かなくちゃ。とにかく東へ。

 私の頭の中はこのことでいっぱいだった。

 早く逃げないと。追ってくる。

 迫ってきた社長を思わず殴ってしまった私は、いろんなことが怖くなって、すぐさまその場から逃げ出した。

 殺してはいなかったはずだ。息をしているのは確認した。

 なぜ東に行こうと思ったのかは、自分でも謎だった。ただ、急に頭にポンと浮かんだ。

 後から思えば、そう操られていたんだろうけど。

 記憶を消され、偽の記憶を植え付けられた私は、東へ行くように仕向けられていたのだ。

 そして私はアンヴァンさんの幻に追い回されることになった。

 無理やり連れ戻しに来たのか、それとも報復か。

 理由はそのあたりだろうと思い、私は逃げた。

 しかし逃げても逃げても、街角でアンヴァンさんの姿を見る。

 それはとても気味が悪かった。

 いっそ話し合った方がいいのではないかとも考えたが、怖くてできなかった。

 襲われそうになったことも、追われていることも、報復も、全部が怖い。

 結局、すべては嘘と幻だった。幻に怯える心がさらなる幻を見せていた。

 でもそれを知らなかった私は、ただ逃げるしかなかった。


 4日間不眠不休で移動して来て、大きな港町に着いた。何だかもうよくわからないくらいへとへとで、ここが何という名前の町なのかも知らずにいた。

 夜明け前。

 フラフラの体で防波堤に上った。

 まだ暗い海を、見るともなしに見る。

 ここはおそらく大陸の東の果て。

 これより東にはもう海しかない。

 北に行くか、海を渡るか。

 海を、渡る。そうすれば…家に帰ることができる。

 ふと浮かんだ考えを、私は慌てて打ち消した。

 それはできない。

 だって私はまだ何も見つけていないもの。

 今帰ったって、家族をがっかりさせるだけだ。

 それに…、もうひとつ帰ることができない事情が発生していた。

 逃げ始めてから体調がおかしい。

 疲れが全然取れないのだ。

 こんな状況だから、初めはただ単に疲労やストレスからだと思ってた。

 でも、なんか違う。そういうんじゃない。

 そして気がついたのは、星のエネルギーがうまく吸収できていないということだった。

 今まで、こんなこと起こったことがない。

 意識なんてしなくても、自然に摂取できるものなのだ。

 だからどうやったら意識的に取れるのかもわからない。

 私は焦った。

 焦ったところでどうしようもないんだけど。

 焦るせいで、ますます悪くなっている気さえもした。

 こんな状態で家に帰るなんてできない。みんなを心配させるだけだ。

 問題が山積みの我が家なのに、更に問題を増やすことはしたくない。

 でも…どうしたらいいのか、わからない。

 完全に途方に暮れて、ただ、ぼんやりと海を眺めるしかなかった。

 ほんのり明るくなりつつある空も、闇のような海も、朝靄も、全部が心細くて泣きそうだった。

 涙が出ないように、私は大きく息を吸う。

 大きく深呼吸。

 大丈夫、大丈夫。落ち着け、私。

 自分に言い聞かせながら何度か深呼吸を繰り返すと、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。

 朝の空気はおいしい。

 今はそれをしっかり味わおう。


 そんな時に、その子は現れた。

 朝靄の中、堤防にぽつんと佇んでいた。

 大きな目を、まん丸に、いっぱいに見開いて。

 少しだけポカンと口を開けて。

 その様子がとてもかわいらしくて、私は思わず微笑んでしまったのだった。


 それが、ユイと私の出会いだった。

 偶然にも辿り着いたザッカリーの町で、一番初めに接触した人物が、目的の霧雨亭の息子だったのだ。


 ユイは初め、ものすごくおどおどしていた。

 目も合わせてくれなかった。

 最低限しか喋ってくれなくて、しかも妙な敬語だった。

 それでも彼は、私を助けてくれて、傍に居続けようとしてくれた。

「言いたくないことは言わなくていいから」

「しんどい時に淋しいのはいけない」

 ユイの言葉は、私の中に素直に沁み込む。

 ユイの優しさは心にものすごく添う。

 だから私は甘えてしまった。

 今から思えばあの時、ユイとふたりで幻影に襲われた時に、やっぱり離れるべきだったんだろう。

 私はここに長居するべきじゃなかった。

 ユイはあの夜、体を張ってアンヴァンさんの幻から一生懸命私を守ってくれた。

 私よりも小さくて、細くって、力も弱いくせに。

 でも私はちょうどその時に彼が男の子だと気がついたのだ。

 例に漏れず、私も最初はユイのことを女の子だと思っていた。

 私をかばうように抱きしめられた時に、「あれ?」っと思ったし、私を説得し始めた彼は、自分のことを「僕」と呼んでいた。

 でも森の家に帰った時には何でもなかったように「私」に戻っていて…。

 事情はよくわからないけど、わざわざ確認するのも…なんだかなあってかんじで。だからこの問題は最近まで宙ぶらりんなままだった。

 生物上は男の子だとアルに教えてもらったけど、意識上男の子なのか女の子なのかは結局よくわからないままだ。まあ…どっちでもいっかというところに落ち着いている。

 だって、ユイと一緒にいるのは楽しい。

 旅に出てからは鳴りを潜めていた私の隠れ人見知りだが、不思議とユイには初めからそれを微塵も感じなかった。

 何と言うか、初めて「気の合う人」と出会った気がする。

 ユイも人見知りだから、波長が合ったのかもしれない。ユイと比べたら、私なんかが人見知りを名乗るなんておこがましいと振り切れちゃったのかもしれない。

 ま、そんなのはどうでもいいんだけど。

 私はユイのことが大好きだってことに変わりはないんだし。

 ちなみに男の子に守ってもらうとか、そんなの初めてだった。だからほんとはすごくドキドキしていた。



「アルの誕生日パーティーをしたいんだ」

 ユイがそう言ったのは、ロドリス社長が霧雨亭にやって来た前の日のことだった。

 ぐずついた天気が続いていて、少し肌寒い午後だったのを覚えている。

「アルさん、お誕生日なんですか?」

 お茶の入ったカップを両手で抱えて、アンナが訊ねた。

 彼女は少し前に友達になった女の子で、ちょくちょく霧雨亭に遊びに来てくれる。

 アンナはお菓子作りが得意で、今日もクッキーを焼いてきてくれた。私たちはアンナのお菓子を囲んでお茶をするのが恒例だった。

 今日はビゼは森の家だし、アルも閉店後出かけている。女の子ばかり(?)の独特なノリで、これも楽しい。

「うん。もうすぐなんだけどね、アル、いつもお祝いさせてくれないんだ」

 ユイは不満そうに口を尖らせた。

 その様子はなんとなく想像できる。

 多分アルは自分の誕生日が好きじゃない。

「本人は全然乗り気じゃないし、ビゼは霧雨亭が苦手だったし…。今までちゃんとお祝いできたことがないから」

 確かに。アルとユイとビゼ、このメンバーじゃパーティーしても盛り上がりに欠けるかも。メアリさんは私とは少し話すけど、男性陣のことはガン無視だし。

 心の中でそう思いながら、しょんぼりしているユイを見る。なんだかかわいそうだ。

 その時ふと、ある思いが湧き上がった。

 びっくりするアルを見てみたい。

「いいね!パーティーしようよ」

 私がサプライズを提案すると、ふたりも乗り気になる。

 こうして私たちはアルには内緒で、パーティーの計画を始めた。

 ビゼはもちろん強制参加で、アンナの友達のエメラダにも声を掛けることになった。

 ただし問題なのが、アルの勘の良さだった。

「霧雨亭で、ってのは無理だよね」

「絶対ばれますね」

「じゃあ、森の家?」

「うーん、なんかそれもばれそう。それに、アルはあんまり森の家は好きじゃないし」

 そうなんだ。

 その言葉は口には出さずに飲み込んだ。

 ここんちは家庭事情が結構複雑だ。実は私も詳しいことはよく知らない。

 アルもユイも隠してるわけではないようだが、事が事なだけに踏み込めずにいた。

「どうしたもんかねえ…」

 万が一、私たちがこっそり準備していることがアルにばれても、彼はきっと知らんぷりをしてくれるだろう。

 でもそれじゃ意味がない。

 私たちはアルに心の底から驚いてほしいのだ。「あっ!」と言わせたいのだ。

「うー…ん、………あ」

 ユイが小さく声を上げる。

「どうしたの?」

 ぱあっと顔を輝かせたユイが私たちを見てにっこりした。思わずくらっとするほどの美少女的な笑顔だった。

「ピクニックで偽装しよう」


 誕生日パーティーは延び延びになっていたピクニックを兼ねることになった。

 ちょうどその日が店の休みと重なっていたので、アルには「ピクニックに行こう」と誘っておく。

 私たちはピクニックの準備と共に、誕生日パーティーの準備も進めていた。

 お弁当はユイとビゼが用意する。アルの好物をフルラインナップさせるそうだ。

 ケーキはアンナとエメラダが作ってくれる。

「私の役目は?」

 アルと一緒に暮らしている私は下手に動くことはできない。

 でも、私も何かしたい。

「ホホの役目はアルを誘うこと。それから当日までばれないように見張って、連れてくることだよ」

「…難しそうね」

 相手はあのアルだ。

「でもホホにしかできないことだから。がんばって」

 ユイの言葉に私は「わかった。がんばる」と大きく頷いたのだった。


 その後、社長が霧雨亭に来るという想定外のハプニングと、アルがとっさに偽婚約者を演じてくれたことに、私は激しく動揺したりもしたが、何とかアルをピクニックに誘うことはできた。

 アルも楽しみにしてくれたみたいだったから、嬉しかった。

「晴れたらいいねえ」

 私は心の底からそう思った。

 みんなでピクニックに行きたい。

 アルが驚く顔が見たかったし、ユイの念願を叶えてあげたかった。

 それに何より、みんなで出かける事にウキウキしていた。

 きっと素敵な1日になる。

 あの時私は、そう信じて疑わなかった。


 それが、今日だ。

 アルの誕生日で、ピクニックパーティー決行の日だ。

 私たちの念が天に届いたのか、雨はもうじきあがりそうだった。

 なのに、アルがいない。

 パーティーの打ち合わせをしていた時のユイの、そしてみんなの楽しそうな様子が頭に浮かぶ。

 …絶対に連れ戻す。

 アルをパーティーに連れて行くのは初めから私の役目なのだから。



 数時間前、私と別れた後にアルが通ったであろうところを順に追っていく。

 私が見た未来がどこまで進んでいるかはわからないし、私がすべてを見ているとも限らない。

 更に言えば私が見たとおりに事が進んでいるとも限らない。

 未来は不確かなものだから。ちょっとの選択の違いで無数の結末が生まれる。

 私が見たのは可能性のひとつでしかない。

 そう、私は母から習っていた。

 未来を見る力は、竜である父ではなく、母から受け継いだ能力だった。

 母が生まれた土地には、ごく稀に未来や過去を見ることができる人が生まれるのだという。

 実家にいた時は、私は全くそんなことできなかった。

 でも母は私に素質があると思っていて、「ある日急に目覚めることもあるから」と色々細々レクチャーしてくれていた。

 私はそれを、正直やる気なく聞いていた。

 自分にそんな才能があるとは到底思えなかった。

 小さい頃から私は、あの両親から生まれたとは思えないほど凡庸だったから。

 でも…、お母さん、ほんとだったよ。急にだった。

 教えておいてくれてありがとう。

 私はかび臭い地下通路を歩きながら母に感謝した。


 地下通路にはいなかった。

 ゲイルさんの宿屋に行くのはあまり気が進まなかったけど、仕方がない。

 雑貨屋の配達を手伝った時に宿屋の皆さんと仲良くなった私は、その後、新館の改装を手伝ったりしていた。なので中の様子はよく知っている。

 夜明け前なので、詰めている従業員も少ない。忍び込むのも簡単だった。

 アンヴァンさんの部屋の前で、私は足を止める。

 ここに来て急激な緊張に襲われていた。

 やっぱり、ちょっとは怖い。

 アンヴァンさんに会いたくない。

 こんなところでもたもたしてたら、誰かに見つかってしまうかもしれない。

 それがわかっているのに、体が動かない。

 何やってるの。

 わかったんでしょ?何が一番怖いか。


 私は、

 今がなくなることが、怖い。

 大事な人たちが傷つく事が怖い。

 自分が傷つくことよりも。

 自分が傷つけることよりも。

 私は、まだここにいたい。

 霧雨亭に、いたい。


 深く、息を吐いた。

 吐息が微かに震えていた。

 ゆっくりと手を持ち上げる。ドアノブに手をかける。

 ふと、手首のリボンが目に入った。

 ブルーのリボン。

 ユイのお気に入り。

 その大事なリボンを、ユイは私に貸してくれた。

 ………しっかりしろ。

 ユイはこれまでいっぱい助けてくれた。

 今度は私が助ける番。

 これ以上、彼の家族を奪ってはいけない。


 ベッドに眠るアンヴァンさんを見下ろす。

 この人のせいで、という思いがお腹の底から湧いてくるが、今はそんなことにかまっている暇はない。

 ふいに微かな香りが鼻を掠めた。

 独特な甘い匂い。覚えがある。眠り薬のにおいだ。とても珍しい種類のものだった。

 それはアンヴァンさんが眠らされた状態にあることを示していた。

 胃のあたりがずん、と重くなる。

 私が見た通りの未来が、…進行している。

 そして改めてアルが本気なんだと思い知らされた。

 彼は眠り歌ではなく薬を使った。確実に眠らせるために。

 私はアンヴァンさんの掛け布団をめくり、右腕の袖を二の腕までまくった。

 そこには、いつか見せてもらったあの印があった。

 アルの右腕の印とおんなじ。

 私はそれをじっと見つめたまま、動けなかった。

 彼は、呪いを分けた。

 アルは…私たちの事を思い出してしまった。

 私たち家族にこの先害が及ばないように、彼は自分を傷つけたのだ。


 私は地下通路を再び走った。

 全力で。

 ここまで来ているのなら、もうあそこしかない。

 私が見た未来の最後の場所。

 川のほとりの廃倉庫。

 お願い、間に合って。

 行かないで。


 地下通路から倉庫に出る扉は、鍵がかかっていなかった。

 嫌な予感がしながらも、私はその扉をゆっくりと開ける。

 中は埃っぽく、使われていないにもかかわらず物でいっぱいだ。

 そして、とても静かだった。

 天井近くにある窓を見ると、外が明るくなり始めていた。

 私はしゃがんで床の様子を見る。

 倉庫の中はまだまだ暗いが、私の目は暗いところでも割と平気なのだ。

 よく見ると、最近誰かが通ったような跡があった。

 ……アル?とは限らない、か。

 私は床の跡に注意しながら、静かに歩みを進めた。物を避けながら、周囲を見やる。

 私が見た未来はここまで。ここにいなければ、もう手がかりがない。

 家に帰っていればそれでいい。

 でももしヴァネアについて行ってしまっていたら。

 嫌な考えが頭をよぎって、私は顔をしかめた。

 その時、何かの気配を感じて、積んであった木箱の奥に目をやった。

「…アル」

 小さく空いた空間に彼は倒れていた。

 慌てて駆け寄り、その傍らに膝を着く。

 うつ伏せで倒れているアルを仰向けにひっくり返した。

 昨日の朝よりもずっと青白い顔をしている。

 ピクリともしない彼に不安になった私は、思わず息をしているか確かめた。

 …生きてる。

 よかった、眠ってるだけだ。

 ホッと息を吐く。力が抜けた。


「倒れるように眠りこけたの」


 急に声をかけられて、体がびくっと震える。

 顔を上げると、木箱の隣に佇む人影が目に入った。

 私はアルをかばうように身構える。

 数日前に似顔絵で見たのと同じ顔がそこにあった。

「…ヴァネア」

 気配に全く気づかなかった。

 それどころじゃなかった私の問題なのか、それともこの人の特性なのか。

 考えながらも目を離さずにいると、彼女はクスリと笑った。

「何度目の初めましてかしらね」

 カチンときた。

 どうやらこの人は私と何度も会ったことがあるらしい。

 でもそれを覚えていないのは私のせいじゃない。

 私は立ち上がって、真正面から対峙した。

「あなたに言いたいことは、たくさんある」

「…でしょうね」ヴァネアは微笑む。「聞くわよ?」

 言いたいことも、聞きたいこともたくさんある。

「でも今一番言いたいことは…」

 それ以外は、もはやどうでもいい。

 だって私はあなたたちの思い通りにはならないもの。

 関係ない。

「アルはわたさないから」


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