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猫とカラスと雨の森  作者: 夏川サキ
episode 4 彼女が旅に出た理由
25/33

1

 思い出せないなら、見ればいい。


 そのことに気がついたのは、ソファで眠るあなたを見た時だった。

 頭が痛いと言っていたそうだけど、本当に顔色が悪い。

 私のせいだ。そう思った。

 だからできるかどうかはともかく、決心は簡単についた。

 …潜る。深く、もっと、ずっと。

 息の続く限り。意識の底まで。

 その方が鮮明に見ることができる。


 お願い、間に合って。

 あなたは何も思い出さないで。

 私のことなんか、私たちのことなんか、忘れたままでいいから。

 あなたがこれ以上傷つく必要なんてないから。


 しっかりしろ、自分。

 怖がってる場合じゃない。

 大事なものを守らなくちゃ。

 そのために、絶対に見つける。

 私の記憶を。


 そう強く心に誓って、私は更に、深く潜った。




 この世に、私の居場所なんてあるの?


 ここでこれからも、ずっとずっと生きていくの?


 どうして…、私たちのような存在がこの世にいるんだろう。


 そんなことを考えるようになったのはいつの頃からだろう?

 どうしてそんな風に思うようになったのかもわからない。

 だって…、何も不満があったわけじゃないから。

 うちの実家は、山小屋の宿屋を営んでいる。

 峠越えの道の途中、山深いところだ。周りに他に民家などはない。

 従業員も雇っていないので、家族だけで切り盛りしている。

 山の暮らしは厳しいけど、私たちの体質には合っていた。

 それから私の性格にも。今思えばだけど。

 交通の要所にあり多くの旅人たちが訪れるので、宿は繁盛していた。人里離れた場所だけど、おかげで人恋しいと思うようなこともない。

 旅人から面白い話が聞けるし、宿の仕事自体も楽しかった。

 それなのに、だ。

 ふと我に返ったように違和感を感じることがある。

 しっくりこないというか、自分の居場所だと感じられない。

 家庭不和、というわけではない。むしろうちの家族は仲がいい方だと思う。

 それに、家に限ったことじゃなかったから。

 子どもの頃は麓の学校に通っていたが、そこでもおんなじだった。

 表面上はそれなりにみんなと仲良くやっているけど、いつも距離を感じている。

 誰ともうまく付き合えている気がしない。誰にも心を開けない。

 宙ぶらりん、というか、世界を外側から眺めているようなかんじ。

 そう小さい頃からずっと思っていた。

 そしてある時ふと気がついたのだ。

 これは私の心の問題なんだと。

 もしかしたら、私は何かが欠けているのかもしれない。

 人間として大事な何かが。

 そんな時、やっぱり私は人間じゃないからなのかな、と思ってしまったりする。

 かと言って、竜でもないのにね。全然違う。

 どこか中途半端なのだ。

 そんな風に考えていると、自分はすごく親不孝者だと思って落ち込んだ。

 でも…本当に私は一体、何者なんだろう?


 だから竜に会ってみたかった。

 それは何年も前から考えていたことで、少しずつお金も貯めていた。

 弟の体のため、というのは本当だ。あの子には時間がない。そして、自由に動けるのも私しかいない。

 けどそれだけじゃない。私たち家族のため。私たちが今後どう生き延びればいいかそのヒントを掴むため。

 そして何より、私自身のため。

 もしかしたら、竜相手だったら、心を通わせることができるかもしれない。

 竜じゃなくても、広い世界のどこかにはそんな相手がいるかもしれない。

 だから、世界を見てみたかった。

 長年の、疑問の答えを求めて。

 この世のどこかに自分の居場所があることを願って。


 私が旅に出ることを、両親は反対したりはしなかった。

 弟のことがあるので、むしろありがたがられたくらいだ。

 だけど母は、私の気持ちになんとなく気づいてたんじゃないかと思うふしがある。

 そしてその気持ちが少なからずわかるから反対できなかったんじゃないか。ちゃんと話したことはないけど、私はそう感じていた。

 うちの両親はかなり奇想天外な人生を歩んできている。

 いろいろあってその結果、行きついた場所があの山小屋だ。

 でも自分たちが山奥で暮らすことを選んだのは、あくまで自分たちの都合であって、それを子どもたちに押し付けるつもりは全くない、というのが両親の考えだった。

 だからと言って娘が旅に出ることが、心配じゃないとか、寂しくないとかってわけじゃないようだけど。

 それは私にもちゃんと伝わっている。

 旅に出るに当たって、母はふたつ、私に注文した。

 ひとつは定期的に手紙を書くこと。

 そしてもうひとつはザッカリーという町に寄って、霧雨亭という食堂を訪ねること。

 母たちは若い頃、少しの間ザッカリーに住んでいたことがあった。その時に知り合い、友達になった一家が営んでいるのが霧雨亭で、様子を見てきてほしいとのことだった。

 ザッカリーを離れた両親は、諸事情から連絡を取ることができなかった。でもずっとその人たちのことが気になっているのだそうだ。

 私は快諾した。

 それでもまさか、あんな形で霧雨亭を訪れることになるとは思わなかった。



 旅を始めて、もうすぐ1年になるという時だった。

 1年。

 1年って、長くて短い。

「まだ1年」とも全然言えるんだけど、その時の私の気持ちとしては「もう1年」だった。

 各地をプラプラと放浪していた私は、未だ成果を上げられずにいた。

 竜に会うことができていなかった。

 まず、生息や目撃の情報自体をなかなか掴むことができない。

 そして情報を得てその場所に行ってみても、すでにいない。または会うことができない。

 竜たちは極力人間たちと接したがらないようなのだ。

 …気持ちはわからなくもないけど。

 旅の途中で、昔から竜が多く棲んでいると聞いてやってきたこの国でも…やっぱりいない。

 ……どうしたもんかね、これは。

 でも…、本当に減ってるんだなあ。

 身を持って知った事実は結構ショックだった。

 まあそれでも、旅自体は楽しかったんだけどね。知らない土地へ行くことも、いろんな人に出会うことも。

 個人的な問題についても、一向に答えが見えないままだった。もとよりすぐさまどうにかなるものでもないとは思っていたけど。

 意気込んで出てきたのに、何の手がかりも得られない1年は、俯瞰で見ると無駄に長く、体感ではあっという間だった。

 そんな時に、久々に竜の目撃情報が入ってきた。

 だがそれが、とても微妙な場所だった。

 治安が悪い。悪すぎる。

 いくら私の腕っぷしが強いと言っても、無敵じゃないから。多勢に無勢だから。

 …どうしよう。行ってみたい、けど…無茶はできないし…。

 悩む私の目に入ったのは一枚の張り紙だった。

「急募、警備員!!」

 それはちょうど私が行きたい場所へ向かう商隊の、臨時警備員の募集だった。

 ……これしかないでしょう。ちょうどお金もなくなってきてたし。

 こうして私はロドリス商会の臨時警備員となったのだ。



 天候もよく、特にトラブルも起こらず、旅は概ね順調らしかった。

 治安が悪いところだと言っても、なかなかこんな大きな隊を襲おうってのは難しいだろう。ものすごい厳重警備だし。

 警備員として雇われた私だったが、手の空いている時は雑用も引き受けていた。そしていつの間にそちらの比重の方が大きくなっていた。

 途中立ち寄った町の宿で言いつけられた用事は、子どもでもできるような簡単なおつかいだった。

「ホホ、この書類社長のところに持って行って」

「あ、はい」

 うわ、社長だって。

 チラッとしか見たことないし、話したこともない。

 でも大規模商隊の臨時雇いの用心棒なんてそんなもんだよね。

 小市民な私は若干緊張しつつ、社長の部屋に向かう。

 ノックをするとすぐに「はい、どうぞ」という声が返ってきた。

「失礼します」

 ドアを開けた私は、一瞬、そのまま固まった。

「…なっ」言葉に詰まる。「ど、どうしたんですか?!これ!泥棒?!」

 部屋の中はひどいありさまだった。

 書類やら衣服やら、社長の荷物と思われるモノたちが、部屋中にひっくり返され、散乱している。

 その真ん中で、小さな男性が座り込んでいた。

 その男こそ、社長のバズ・ロドリスだった。

「え?泥棒?」

 キョトンとした顔をして、私を見つめ、それから自分の周りを見渡した。

「ああ、違うよ。泥棒じゃない。いつものことだから」

 彼はのんきに「へへっ」と笑う。

「いつものこと…?」

「僕ね、仕事してたらいつもこんな風に散らかってしまうんだ。いつの間にか」

 いつの間にかって…、この宿に入ってまだ1時間も経っていないのに?!

「自分でも不思議なんだけどね」

「…はあ」としか言いようがない。

「さっきから書類を探してるんだけど、見つからないんだよねー。どこ行ったんだろう」

「…そりゃあ、これじゃあ見つかりませんよ」

 思わず本音が出てしまった。

「あ、……すいません。つい」

「や、そうだよね。君の言う通りだ」

 社長は苦笑を浮かべる。

「……片付け、手伝いましょうか?」

「え、いいの?」

「はい。一度整頓しないと、埒があきませんから」

 そして私は社長相手に整理整頓の仕方を一から指導した。

 社長はものすごく素直な人だった。ほぼ初対面で年下で従業員な私の話をふんふんと真面目に聞き、動いてくれる。

 しばらくの後、分類整理された部屋を見て、社長は感嘆の声を上げた。

「君、すごいね!」

 社長は本当に嬉しそうにそう言った。

「いえ、そんな」

 私は別段、すごくもなんともない。そこまで几帳面なわけでもないし。

「これならすぐに探し出せるよ」

「それはよかったです」

 キラキラした、と形容しても過言ではない笑顔を見て、私もほっとした。

 若干偉そうだったかな、と思っていたんだけど、そんなことは気にしていないみたいだ。

「本当に必要な時に、必要なものが見つからないと困りますもんね」

 ただのおつかいだったはずが、予想外の展開になってしまった。まあ、これで無事解決だ。

 それより早く戻らないと、怒られちゃう。

「それじゃあ…、」

 私はこれで、と言おうとして、社長が驚いたような表情でこっちを見ていることに気づいた。

「…どうかしました?」

 私が訊ねると、彼ははっと我に返ったように体を揺らせた。

「ううん、なんでもないよ」

 そう言った社長の顔が、少し赤くなっているようだった。


 その後も旅程は順調に進み、目的の町で納品を終えた一行は、折り返して本社のある町を目指した。

 私の個人的な目的は…またしても空振りだった。

 だんだん期待しなくなってきたせいか、そんなにがっかりもしない。

 っていうかほんとに竜っているの?

 もしかして…もううちの一家しかいないとかじゃ…。

 そんな怖い考えも頭をよぎった。

 こうなったらもう碧雨の竜に会いに行くしかないのかな。

 堅い情報なんだけど、でもすごい評判悪いからなー。

 そんなことを考えているうちに、旅の終わりはすぐそこまで来ていた。

 これまでもお金がなくなるたびに働いてきたけど、何日も一緒にいれば、それなりに親しくなる。

 そして最近気がついたのだが、旅に出てから、私は人とうまく付き合えないことがあまり気にならなくなっていた。

 そんなに長く付き合うわけじゃないし…とか思うと、別に心をオープンにする必要もないし、人からどう思われているかとかもはっきり言ってどうでもよかった。それで変な力みが取れたのかな、と思う。

 今回もまあいつも通り、まあそれなりにみんなと打ち解けていた。

 ………いや、前言撤回。

 かなり親交を深めてしまった相手がいた。

 社長だ。

 片づけを手伝って以来、顔を合わすことが多くなり、そして会えば言葉を交わすようになっていた。

 社長は初めの印象通り、気さくな人だった。いい人だった。誰に対してもそうだった。

「エッジには怒られるんだよね。そんなんじゃ取引相手に舐められるって」

 いつだったか、社長はそう言って、困ったような笑顔を見せた。

「商売柄、いかつい相手も多いしね」

 武器商人という肩書は、正直この人には似合っていないように思った。

 でも社長は自分の仕事に誇りを持っている。

「傷つけるものでもあるけど、守るものでもあるから。そして個人的には後者としての比重が高くなるような世の中にすべく、働きかけていくつもり」

 実際に、すでに社長はそのために動いている。

「…すごい」

 私は思わず漏らした。

「すごくはないよ。やりたいことをやっているだけだ」

「それがすごいと思います」

 私はやりたいことも、よくわからない。

「俺に言わせてみれば、ホホの方がすごいと思うよ。ひとりで旅してて」

「私のは…なんていうかそうするしかなかったというか…」

「それでいいんじゃない?俺も初めはそうだったし」

「え?」

「初めはね、親父みたいになりたくなかっただけなんだ。ほら、うちの親父って、すごいワンマンな利益第一主義だったから」

 その話は他の従業員からも聞いていた。

「だからああはなるまいと思っていろいろやってるうちに、こうなったってわけ」

 社長は肩をすくめて、それから優しい目で私を見た。

「やりたいこととか、生きる道とか、いつかホホにも見つかるよ」

「……はい」

 本当にそうなればいいな。

 私は素直にそう思い、笑みを浮かべた。



 思い出した。

 私の知っているロドリス社長はこういう人だった。

 無理やりなんてことをする人じゃなかった。

 だからあの日も…。



「僕と結婚してくれないか?」

 突然のことに、私はすぐに言葉が出なかった。

 頭が固まってしまい、ただただ、呆然と社長を見つめる。

 そんな私を見て、社長は困ったように頭を掻いた。

「驚かせてしまってごめん。急にこんなこと言って。でも…、でも僕は初めて話した時からずっと、君のことが好きだった」

 知らなかった。

 そっか、だからあれ以来よく会うようになったんだ。

「あの時、君は『本当に必要な時に、必要なものが見つかるように』って言ったよね」

 ……言ったかもしれない。

 でもあれは整理整頓のことなんだけどな、と思いながら一応頷いてみた。

「僕にとって、あの時がまさにその瞬間だったんだ」

 私は少し考えて、口を開いた。

「……それは、つまり私が必要ってことですか?」

 すると社長は照れたようにはにかんだ。

「まあ、つまりはそういうことだよ」

 ここまで来てようやく、「プロポーズされた」という事実が自分の中に浸透してきた。

 ……困った。どうしよう。

 それが私の正直な気持ちだった。全然ぴんとこなくて、戸惑いばかりがそこにある。

 そんな心の内が、顔に出てしまっていたらしい。社長は苦笑を見せる。

「そうだよね、突然だもんね。でも…考えてみてほしいんだ」

 その真剣な表情に、目を逸らすことができなかった。

「僕はホホが大好きだよ。できれば僕の隣で君の生きる道を見つけてほしい」

 こんなに必死で、きれいに澄んだ目を、私はこれまでに見たことがない。

「旅が終わるまでに、答えを聞かせて」


 社長はいい人だ。

 その誠実さで、まっすぐに私に告げてくれた。

 だから私もちゃんと答えなければいけないと思った。

 ごまかしたりせず、自分の正直な気持ちを。

 彼が猶予を与えてくれていたおかげで、私はしっかりと自分の気持ちと向き合うことができた。

 返事をしたのは、旅が終わる前日のことだった。


「うちの両親は子どもの頃からの友達同士なんです」

 私は社長を呼び出して、ふたりで川べりを歩いていた。

「子どもの時から好き同士だったみたいなんですけど、その後離ればなれになって。大人になってから再会したんだけど、初めはお互い、昔の友達だって気づかなかったんですって」

 でもふたりは、何も知らなくてもすぐに再び恋に落ちた。古い知り合いだったとわかったのはそのあとのことだったそうだ。

「だけど周りに反対されて、駆け落ちして、いろんなところを転々として、今は山奥で宿屋をしながら暮らしてるんですけどね。その…ふたりが、とても仲がいいんです、今でも」

 両親のあつあつぶりを、私たち姉弟は小さい頃から嫌というほど見せつけられてきた。

「母は…、父がいれば、それでいいやって思ったそうです。この世にふたりだけでも構わないって、そう思って、駆け落ちしたんだそうです」

 言いながら、私はなぜだか、泣きそうになっていた。

「母が18歳の時でした」私は涙が滲んでこないように、無理やり笑顔を作る。「私も、…もうすぐ18になります」

 社長は黙って話を聞いてくれていた。私は彼の方を見ることができないまま話を続ける。

「子どもの頃、私は父と母がふたりで楽しそうに笑い合っているのを見るのが好きでした。そして…いつか自分も、あんな風に笑い合える相手ができるんだって思っていました」

 自然にそんな相手と巡り合えると思っていた。何の疑いもなく。

 だけど現実は理想とはかけ離れていた。

 私は誰とも打ち解けられないのだから、恋人どころの話じゃないし、結婚なんて夢のまた夢だ。

「だから、私は旅に出たんです」

 私は思い切って社長を見た。

 彼を正面から見て、「切ない」とはこういうことなんだと初めて知った。

「私の心が本当に求める人を探すために、私は旅をしているんです」

 環境のせいじゃない。

 竜の血も関係ない。

 問題なのは自分の心の在り様だった。

 それをどうしていいのか、私にはまだわからない。

「でも、私はまだその人を見つけて…いない。だから、…まだ旅をやめられない」今、私が泣くのはずるい。だから我慢する。「ごめんなさい」

 それでも、社長は笑ってくれた。

「そっか…。わかったよ」

 優しい口調は、いつもと同じだった。

「話してくれて、ありがとう」

 それは、今まで聞いた中で、一番優しい「ありがとう」だった。



 これが、真実だ。

 彼はひどいことなんて、ひとつもしなかった。

 最後の最後まで優しかった。

 私の手が彼を殴ることなんて、ありえない。



 ぱちりと目が開く。

 見慣れた天井。

 涙が溢れていた。

 ………状況がわからない。

 手の甲でごしごし目元をぬぐいながら、ゆっくりと体を起こすと、足元にメアリさんが丸まっていた。

 私の(借りているユイの)部屋だ。

 窓の外に目をやると、夜明け前の気配がしていた。

 ふと、枕元に置かれているものに気づく。

 その瞬間、すべてを悟った。

 私はそれを、2冊の本を手に取る。

 1冊は昨日まで読んでいた本。そしてもう1冊は、おそらくアルが置いていった本。

 昨夜のことがよみがえる。

 次に読む本を紹介してほしいと、私が言った。

 だから彼はこれを残した。

 残して、行ってしまった。

 止められなかった。

 夢じゃない。現実だ。

 そう思ったとたん、また涙が湧いてくる。

「……ホホ?」

 メアリさんが眠そうな声を出した。私は慌てて涙を拭いて振り返る。

「メアリさん、まだ夜だよ。寝てていいよ」

「そうだけど…あんたこそ何してるのよ?」

「私は…」

 私は、何をすればいい?

 私に何ができる?

 自問すると、驚くほど簡単に答えが出た。

 泣いている場合じゃない。そんな時間、もったいない。

 決めた。アルを迎えに行く。

「散歩に行こうと思って」

「散歩?今から?」

「うん、今から。夜明け前って好きなの」

「嘘」

 メアリさんは鋭く言い放つ。彼女は私の手元を、2冊の本を見つめ、ため息をついた。

「アルなら大丈夫よ。無事戻ってくるわ」

 どうやら私の気持ちなんてお見通しのようだ。

「うん。わかってる。…でも私が迎えに行きたいだけなの」

 そう言って私は靴を履く。

「やめときなさい。今ひとりで出歩くのは危ないわ」

 メアリさんの目が暗闇で光っている。

「大丈夫」私は元気よく言い切る。「もう、誰にも好きにさせないから」

 一番怖いことが何かわかった今、それ以外のことはもう怖くなかった。

 怖くない。迷わない。

 そんな私を操ることなんてできないはず。

「このままやられっぱなしじゃ、竜の名がすたるもの」

 何とかごまかしてこの場を離れようと、私はおどけて言ってみる。

 だがメアリさんも鋭い。

「あんた、何か見たんでしょ?」

「メアリさんも一緒に見たじゃない」

「それじゃなくて」

「見たのはアルのことじゃない。先のことでもないし」

「…あんた、過去も見ることができるの?」

 メアリさんが驚いた声を出す。

「そうみたい」努めてなんでもないように、さらりと言う。「でも自分の過去だからかもしれない」

 今までそんなことやったことがなかった。

 今まではそんなことをしようと思ったこともなかった。

 でも今、自分の意志で自分の過去を見たいと思った。

 ロドリスさんのところを離れる時に何があったのか。

 どうしてこの町にやってきたのか。

「…わかったの?」

 メアリさんが遠慮がちに訊ねる。

 私は首を横に振った。

「狙ったところをピンポイントで、ってわけにはいかないようだね」

 ある程度コントロールはできるみたいだけど、さっきも結局は肝心なところまではいかなかった。

「でもメアリさん」

「……何よ?」

「社長はいい人だったよ」

「……そう」

「でもね、恋じゃなかった」

「アルには恋してるの?」

「わからない」直球の質問に、私は弾かれるように答える。「だから、確かめてくる」

 すると、なぜかメアリさんはくすくす笑い出した。

「…なんで笑ってるの?」

「別に。わかったわ」メアリさんはまだ笑う。「まあ、あんたが本気出したら殆どの人間は勝てないだろうしね」

 本気、出したことないからわからないけど。

「でも、気をつけるのよ」

 その言い方は実家の母のようで、私までちょっと笑ってしまった。



 部屋のドアを閉めたとたん、ピリリとした緊張感に包まれる。

 何とかメアリさんを捲くことができた。

 ホッと小さく息を吐く。

 本当のことは言えない。

 みんなが知れば大騒ぎになるのは目に見えてる。

 特にメアリさんは怒り狂うだろう。

 それにアルは、きっと誰にも知られたくないはず。

 だから…私の方がメアリさんよりも詳しい未来を見ることができてよかった。

 私が見た未来を、メアリさんは知らない。

 アルが、このうちからいなくなってしまうことを。

 思い出したとたん、いろんな怒りが湧いてきた。

 ほんと、好き勝手してくれるわ。

 人の大事な思い出をめちゃくちゃにしたり。

 変な術をかけてみたり。

 挙句アルを連れて行こうなんて、どういうことよ?

 ガツンと言ってやらなければ、気が済まない。

 誰も傷つけたくないなんて、きれいごとだ。

 傷つける覚悟も、傷つけられる覚悟もできた。

 私は戦う。アンヴァンさんと。そしてあの、ヴァネアとかいう女と。


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