9
皆が寝たのを確認して、俺はそっと部屋を抜け出した。
今、うちの中にいるのはユイとホホとメアリさんと俺。
結局ホホとメアリさんも森の家には戻らなかった。森の家で1日過ごしてみたメアリさんは、「慣れている霧雨亭の方が守りやすい」という結論に至ったのだそうだ。
それで用心のためにユイも残ることとなり、仕事のあるビゼは(カッシュも)帰っていった。
極力音を立てないように気をつけながら歩く。ま、うちはみんな基本的に早寝だし、一度寝たら朝まで起きないタイプだけど。
勝手口から裏庭へ出ると、表には回らずに裏の家との垣根のほうへ向かった。
すると背後で今閉じた扉が再び開く音がした。
「待って」
飛び出してきたのはホホだった。
確認した時には寝ているようだったんだが…、起こしてしまったんだろうか。
「……出かけるの?」
恐る恐るというように、そっと訊ねるホホ。
その表情がどこか張りつめている。
「ちょっと知り合いのところへ」
嘘ではない答を口にすると、少しだけ罪悪感が薄れる気がした。
それよりもホホの様子が気になって、俺は彼女の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?何かあった?」
するとホホは急に慌てたようになって、視線を彷徨わせた。
「えと、ええと……、あっ!」彼女はポンと手を叩く。「雨が降る!もうすぐ雨が降るよ!」
仰ぎ見ると、昼間は晴々としていた空には、いつの間にか分厚い雲が広がっていた。
「ああ、ほんとだ」
本音を言えば、降ってくれた方がありがたい。音や姿やにおいなど、色々と紛らわしてくれるから。
「じゃ、急いだ方がいいな」
「う、うん…。そう…だね」
全然「そうだね」とは思っていないであろう、「そうだね」だった。
様子がおかしいのは明らかだが、一体どうしたのだろう?
頭の中に疑問符を浮かべながら彼女を見やると、何かを抱えていることに気がついた。
「それ、」
数日前に、ホホに勧めたあの本だ。
「あ、」はっと気づいた顔をすると、ホホは勢いよく話し始めた。「あのね、全部読んだよ。すごく面白かった!」
ホホは本の感想を怒涛の勢いで語る。どの人物が好きだとか、どこで驚いたとか、こうなるとは思わなかったとか。
その勢いにはちょっと圧倒されたが、好きそうだと思って紹介したので、気に入ってもらえたのならなによりだった。
「楽しんでもらえたみたいだね。よかった」
ホホは「うん!楽しかった!」と力いっぱい何度も頷いた。
「だから、ね、次に…読む本を紹介してほしい」
ホホは両手で本を握りしめ、俺を見上げる。
その目は必死だ。
それにしても……、今?
「…わかった。考えとく」
とりあえずそう返事をしてみると、彼女は再び落胆の表情を見せた。
「う、うん…お願い」
それでもホホはなお会話の接ぎ穂を探して、何か言おうとして口を開きかけてやめるということを何度か繰り返す。
口をパクパクとさせる様が金魚みたいだった。
さすがにわかった。どうやら俺を行かせたくないらしい。
するとちょっとしたいたずら心が湧いてきて、俺は口を開く。
「…今日は歌わないんだ?」
眠り歌を使って引き留めないんだね、という意味だった。
それがちゃんと通じたようで、ホホは暗がりでもわかるくらい赤くなり、狼狽えた。
「あれは…もうしないって約束したから」
尻すぼみな言葉と素直さに、こみあげてくる笑いをこらえる。その代わりに訊ねた。
「…どうして行かせたくないの?」
彼女は黙ったまま視線を落とす。
「言いたくない?」
「そういうわけじゃないんだけど…」
ホホにしては珍しく歯切れが悪い物言いだった。
「じゃあ…、なんで?」
言いながら、前にもこんなことがあったことを思い出す。
眠り歌を仕掛けられた時だ。
「もしかして…またメアリさんが何か教えてくれた?」
メアリさんの鋭さは、彼女自身が魔を払う結界だからということに因るものだ。近づいてくる悪しきものを敏感に察知する。そして時には近い未来、というか現在進行形の未来を予知するようなことがあった。
ホホは少し視線を彷徨わせた後、小さく頷いた。
ふと嫌な考えが頭をよぎる。「…誰か来る、とか?」
術が防がれていることは向こうも気づいているだろう。だとしたらあっちから訪ねてくることも考えられる。そうなると出かけるわけにはいかないし、その必要もない。
だがホホはぶんぶんと頭を横に振った。
「誰も、来ない」
「じゃあ…君に何かある、とか?」
「違う。私じゃない」
「だったら…」
するとホホが急に勢いよく顔を上げた。
まっすぐに俺を見る。
「アル、あなただよ」
強い口調で。
半ば睨みつけるような目で。
でも、泣きだしそう。
……なんだ、俺か。
正直、ホッとした。
「そんな、自分でよかったみたいな顔しないで」
ホホはますます顔を歪める。
でも、それが本音だった。
「君やユイに何かあったらたまらないから」
「私だって!」ホホは叫んで俺の腕にすがった。「アルを傷つけたくない」
「……どこ?」
「え?」
「怪我でもするような言い方だな、と思って。聞いていれば気をつけられるでしょ?」
彼女は少しためらい、「…右腕」と小さく答えた。
やっぱりね。それなら問題ない。というか予定通りだ。
「そっか。わかった。気をつける」俺はホホに笑いかける。「教えてくれて、ありがとね」
そのまま踵を返そうとした俺の左手を、ホホの右手ががっしりと掴んだ。
その手は少し冷たくて、柔らかい。まぎれもない女の子の手だった。
「ごめん。やっぱ無理」
ホホは手に力を込める。
「このままアルをひとり行かせるなんてできない」
硬い声は真剣で、震えていた。
「どうしても行くって言うんなら、私も行く」
その時、ふと思った。
ホホはきっと、誰も傷つけたくない。
他人が傷つくことを恐れている。過剰なほどに。
そして多分、そんな心が彼女に幻を見せている。
彼女が一番怖がっているのは、ある意味自分自身なのかもしれない。
単なる勘だが、その考えはやけに確信めいていた。
同時にやるせない気持ちがじわりと滲む。
ホホの気持ちは尊重したい。
でも今回は折れるわけにはいかないし、ましてや連れて行くなんてできない。
「ホホ」
俺は低くその名を呼ぶと、右手で彼女の左手を引き寄せる。
驚いた表情の彼女を腕の中に閉じ込めた。
「ごめんね」
俺は彼女の耳元で歌う。
懐かしいその歌を。
眠り歌を。
崩れる体を抱き留める。
実際に歌うのは20年ぶりくらいだろうか。
歌えることすらも忘れていた。
魔法を使えない俺に、この歌を教えてくれたのはお姉さんだった。
「これは魔力とか関係ないから。歌い方と発声がポイントよ」
こともあろうか、お姉さんは子守に利用していたので、ホホにも効くことは実証済みだ。
「にしても、…効きすぎだろ」
一瞬にして眠ってしまった彼女に、苦笑が漏れる。
彼女の手から滑り落ちた本を拾った。
でも、まあ、これでおあいこだな。
俺がちゃんと憶えていればよかった。
そうしたら、今が全く違ったものになっていたと、そう信じたかった。
もし憶えていたら、俺は最善を尽くせていたのだろうか?
彼女をちゃんと帰せていたのだろうか?n
そうすれば、彼女は怖い思いもせず、泣き崩れることもなかったのだろうか?
何が一番正しくて、何が一番良かったのだろう…?
こんなことを一日中ぐるぐると考えていた。俺も大概アホだと思う。
答えなんて出ない。出るわけない。
過ぎたことはどうしようもないのだ。
確かに、出会った当初に思い出していれば、俺はホホを雇わなかったかもしれない。
ホホをを雇った決め手は、彼女が竜の血を引いているからだった。
竜はすべてにおいて人間よりも強く、頑丈だ。もちろん魔に対しての耐性も人間よりある。だからうちに置いても大丈なんじゃないかって、そんな安易な考えだった。
もっと早くに思い出していれば、無理やりにでも彼女を家に帰していただろう。いくら強くても、お姉さんたちの大事なホーティスを危険にさらすようなことはできないから。
そうすれば事態はここまで悪くはなっていなかったかもしれないと思うと、やりきれなかった。
これ以上間違えたくなかった。
そんな気持ちで心が覆われていた。
昼間のユイたちを見て、覚悟を決めた後でさえも。
だけどここにきて、そんなことはどうでもよくなった。
俺はこの子を助ける。
今、自分の腕の中にいるこの子を。
自分のことでいっぱいいっぱいなはずなのに、人の心配ばかりしているこの子を。
今だって怖いのだろうに、俺を心配して止めに来てくれた。
そんな彼女だから、放っておけないのだ。
ホーティスでも、そうじゃなくても関係ない。
横抱きに抱えなおしても、ホホは起きなかった。ぐっすり眠っている。
そんなところがすごく彼女らしく、愛らしいと思う。
ホホをベッドに寝かせ、その枕元に彼女が持っていた本と、もう一冊別の本を置く。
お勧めしたい本なんて、たくさんある。改めて考える必要もなかった。
「目が覚めた時に渡してあげればいいのに」
扉の前にメアリさんがいた。猫の姿に戻っていた。
「目が覚めて、枕元に何か置いてあったらわくわくしない?」
半分は本気でそう思って言ってみたけど、もう半分はごまかしだと自分でもわかっていた。
「…泣いてしまうと思う」
意外にも、落ち着いた声で返される。
「目が覚めて、あんたがいなくて、本だけが置いてあったら、ホホは悲しくなる」
不機嫌でもなく、怒ってもない、淡々とした口調。
こんな風にメアリさんに話されるのも久々だ。
微妙な空気が居心地悪くて、振り払うように俺は明るい声を出した。
「今回は止めないんだね」
するとメアリさんはあきれたようにこぼす。
「どうせ止めたって聞かないでしょ。…まあ、死ぬわけでもなさそうだし」
言いながらベッドに飛び乗った彼女は、ホホの足元で丸くなった。
どうやら…メアリさんは、俺が今からしようとしていることをすべてわかっているわけじゃないようだ。
知っていたら、多分行かせない。
心配性という点では、ホホよりも断然メアリさんの方が勝っている。
もしかすると、詳細を知っているのはホホの方…?
それは一体どういうことなんだろう?
ちらりと寝顔に目をやる。
……本当によく眠ってるな。まあ、俺が眠らせたんだけど。
話は帰ってから聞けばいいか。
「でも…早く帰ってきてよ」
ぶっきらぼうな声でそんなかわいいことを言われた。うずくまる白い背中に頬が緩む。
「善処します」
俺の返事に、少しだけ笑ったような、息を吐く音がした。
おそらく俺はもう、調査する側ではなく、される側の人間だ。
武器の密輸団の一味と思われるヴァネアとつながりがある上に、情報を持っているかもしれないホホはうちの従業員だ。森の家だけでなく霧雨亭にも、そして俺自身にも監視が付いていることだろう。ゼフィは身内であれ容赦ない。
だから表から行くことはできなかった。
だが幸運なことにアンヴァンが泊まっているのは近所にあるゲイルさんの宿だった。
このザッカリーという町の歴史は古い。中でも俺たちの住むエリアは旧市街地に当たり、遺跡級の建造物も数多く残る。
今、俺が通っている地下水路も、大昔の遺産だ。
町が大きくなり、再び水路の整備がなされて、旧市街のあちこちに使われなくなった地下水路が存在する。その水路を利用した抜け道は、先の戦争の時に作られたものだった。
霧雨亭の裏にある町内の共同納屋の中にもその出入り口があり、川むこうまで通じている。
川のむこう側には数か所出入り口があった。そのひとつは昔は集会所か何かの公共の建物だった。しかし数年前その建物を含めた一体の土地をゲイルさんが購入してしまったため、そこの出入り口だけは使えなくなってしまったのだ。
だが調べてみると、水路から出る扉は単に鍵が掛けられただけで、完全にふさがれているわけではないことがわかった。そして元集会所の建物は宿の新館へとリフォームされていたのである。
その新館に、ターゲットであるアンヴァンは滞在していた。
会議は明日で終わる。
ロドリス一行が帰ってしまう前に、奴とはきっちりと話をつけなければならない。
アンヴァンの腹の上に馬なりになって、俺は顔を覗き込んだ。
「…」
薬から目覚めたばかりのアンヴァンはうつろな目で俺を見る。そのポカンとした表情が可笑しくて、思わず笑ってしまった。
やがて焦点の合ってきた目が、微かに見開かれた。
「あなたは…」
俺が誰だか気が付いたらしい。
「個人的には、」何か言いかけるのを遮って、話しかける。「このまま殺してもいいんだ」
喉元にぴたりとナイフを当てると、男の頬は微かにこわばった。
「だけど今あんたが死ぬと、俺が真っ先に疑われるから。できればそれは避けたい。…とりあえず今はね」
ゼフィが気づかないわけがないから。
「ここは…」彼は視線だけをちらりと周囲に走らせる。「一体どこなんです?」
「さあ。どこだろうね」
アンヴァンの部屋を訪ねた俺は、彼を眠らせて地下通路まで運んでいた。彼を拉致るのは簡単だった。
「あんたに訊きたいことがある」
訝し気な視線を受けながら、俺は続きを口にした。「ホホがあんたたちのところから逃げた時、一体何があった?」
「……は?」
「密輸のことがばれたんだろ?なのにどうしてホホを殺さなかった?開発途中の石を使って術をかけるなんて、不確実で危険なマネをしたのはなぜ?」
俺の言葉に、アンヴァンは「…ああ、そういうことか」と小さく呟いた。
アンヴァンは俺をまっすぐ見て、告げた。
「竜だから、ですよ。その様子だと、あなたも知っているんでしょう?」
彼はシャツのボタンを3つ外して、左胸を開いて見せた。
左胸から左肩にかけて伸びる数本の傷跡。
「あの夜、彼女にやられました」
大分薄くはなっているが、それは確かに生き物の爪痕のようだった。
「概ね想像通りだと思います。彼女が竜だから、それがすべてです」
ホホが竜だから、すべてを知ってしまった彼女を殺さなかった。
その利用価値は恐ろしく高いから。
そして手始めに黒曜石の実験体に使ってみようと考えた。結果は完璧とはいかないまでも、まずまず上々。ある程度はコントロールできるのだから。
「一度、術が切れてしまった時は惜しいことをしたと思いましたけどね。まさかこの町に留まっていたとは思いませんでした」
何を考えているのかわからない真顔で、彼は自分の幸運を語る。
「もしかして、ヴァネアは最近ホホに接触したのか?」
「はい」
ユイが一度は干渉を断ち切ったのだが、術が完全に解けていたわけではなかった。それを、いつの間にか近づいていたヴァネアが再び操れる状態にした。
再びメアリさんが切ったから今はいいけど、抜け目のなさに感心してしまう。
「…ああ、そういえば彼女とあなたたちは知り合いだったようですね」
アンヴァンの言葉に、やはり彼女を雇ってはいけなかったのだと、この期に及んでちらりと頭を掠めたが、そんなことを考えている場合ではなかった。
俺が一番危惧しているのは、アンヴァンが捕まるのは時間の問題で、その時に余計なことまで喋ってしまうのではないかということだった。
竜という存在は、国相手でも十分渡り合える程の切り札になる。
そしてもし国に知られてしまったら、相手がでかすぎて俺では対処しきれないだろう。
ホホを国に取られてしまう。
だからどうしてもここで食い止めなければならない。
「取引をしよう」
気を取り直して、俺はにっこり笑ってみた。
「何を…」
「国外へ逃がしてやる」
「え…?」
「だから彼女のことは全部忘れてくれない?」
俺が心配なのは、ホホの秘密が他の人間に漏れてしまうことだけだ。
絶対にそれだけはあってはならない。相手が誰であっても、たとえ信頼できると思える相手であっても例外ではない。
竜の力は絶大で、皆がそれを欲しがっている。
そして石によって、その強大な力を自分の意のままに操れてしまう可能性までもあった。
「…いいんですか?」
「ああ」俺は頷いた。「この国に、そして彼女に二度と近づかないのなら」
「…約束します」
「約束、ね」
一番信用できない言葉だ。
「でも、さすがにそのまま放り出せないから…」
喉元に当てていたナイフを少し上げてみせると、男の顔色がみるみる変わった。
「安心して」俺は苦笑を浮かべる。「痛いのはあんたじゃなくて俺だ」
そう言って右腕の袖を捲り、印をアンヴァンに見せた。
「それは…」
「知ってるみたいだな」
それなら話は早い。
「あんたにもおすそわけ」
男は目を見開いた。
俺は魔力を持っていない。だから、魔法は使えない。
しかし呪いならある。そしてこれを利用することはできる。
呪いを、分け与える。
「そんなことが…」
アンヴァンの顔が強張った。
「それが出来るんだ」
俺もその方法を知ったのは海に出てからだった。
「心配しなくても、そんなに影響ないよ。俺だって元気に生きてるだろ?」
呪いを分け与えると言っても、俺のように魔を引き寄せてしまうようになるわけじゃない。
「ただ、あんたは俺から逃れられなくなる」
言うなれば、単なるマーキングだ。
彼は、俺から逃れられなくなる。
ただそれだけ。
なのに対象者は自分の腕に印が現れると、すべてが呪いのせいだと思ってしまう傾向にある。それで精神的に追い詰められて自滅してしまう奴もいた。
「どこにいてもわかるから」
対象者と俺の間にできたつながりは決して消えない。
「変なまねしたら、すぐに殺しにいく」
俺はナイフを迷いなく、思い切り自分の右腕へ、呪いの印へと突き立てた。
堤防の上を歩くのが、子どもの頃からのお気に入りだった。
学校から帰り道は決まってそこを通る。打ち寄せる波を見たり、歌を歌ったり、飛んでるカモメを観察したり。そんなことをしているもんだから、うっかり家の前を通り過ぎてしまっていたりする。
その日は、堤防のギリギリ端を沿って歩いてみることにした。
海に落ちないように気をつけながら、できるだけ端っこを慎重に歩く。
ずっと下を向いていたから、気づかなかった。堤防の上で人が寝ていることに。
だから視界にその人が急に現れた時ようになって、びっくりした。
その人は仰向けで、目をつぶっていた。
でも眠っていないことにはすぐ気が付いた。微かに鼻歌を歌っているのが聞こえたからだ。
そこでふと首を傾げた。
この人は、…男の人?それとも女の人?
パッと見は男の人だった。何より服は男物だったし。短い髪に、ひょろりと細長くて、若いお兄さんに見えた。
だけど…声は女の人みたいに高い。
遠慮や物おじといったことには無縁だった子どもの俺は、ためらうことなく口を開いた。
「あの、あなたはお兄さんですか?それともお姉さんですか?」
パチッと目を開いたその人は、ぽかんと俺を見つめる。
俺はその人の返事を待って、じっと見つめ返した。
その人がふっと笑った。
「お姉さんですよ」
それが、お姉さんと俺との出会い。
彼女はこの後、俺のはじめての友達となる。
昨日みたいなきっぱりとした青空の日のことだった。
これでとりあえず大丈夫。
ホホも、ホホの家族も。
俺の話をどこまで信じるかはわからないが、腕に現れた印は説得力がある。
それに全部本当のことだから、もしもの時は追っていけばいい。
アンヴァンを再び眠らせて宿に戻した。あとは地下通路を通って霧雨亭へ戻るだけだ。
そのはずだった。
力が、入らない。
体に。急に。
地下通路の中で俺は壁に寄り掛かったまま動けなくなる。
腕の出血は大したことなかった。だからそれが原因ではない。
実は前に呪いを分けた時も同じような症状が出たことがあった。しばらくすると回復してくるのはわかっているんだけど…。
早く地上に出たい。地下の澱んだ空気が重苦しい。
どうも我慢ができず、俺は無理やり体を動かす。
でもうちの近所の出口にはまだ距離があるので、俺はとりあえず一番近くにある出口を目指すことにした。
上がってみると、現在地がわかった。川べりにある、今は使われていない倉庫の中だった。
地上に出たから少しは気分がましになるかと思いきや、ほこりっぽさで全然すっきりしない。
仕方ない。何とか倉庫の中から出よう。
俺は決意すると壁に寄りかかりながらのろのろと立ち上がった。
その時だった。
「誰かと思ったら、アルじゃない」
覚えのある声に顔を上げると、無機質な瞳とかち合う。
「……ヴァネア」
どうしてこいつがここに。
っていうか…また、なんで今?
「お久しぶり。何だか…すごくしんどそうだけど。大丈夫?」
「…ご心配なく。ちょっと立ちくらみがするだけだから」
できるだけ平静を装って答えたが、出た声は予想以上に弱っていた。
本当に、なんでここにいるんだろう。
もしかしてユイの撒いた餌にもう食いついたのだろうか。
いや、それには早すぎる。それに食いついたの、ならまっすぐ森の家に行くだろうし。
だとしたら、狙いはホホ…?
何にしてもこいつを霧雨亭には、ホホには近づけたくない。
…ああ、もう、考えがまとまらない。
立っているのがつらい。ほんとに。吐き気がする。
「辛そうね。送っていってあげましょうか?」
ヴァネアが一歩、近づく。
俺は小さく後ずさる。
「…ひとりで、大丈夫」
ヴァネアの傍にはいたくない。
この女は危険だ。
頭の中に警鐘が鳴り響く。
早く離れなければ。
そう思うのに体はまるで動かない。
焦燥に駆られる俺の耳に、ため息が届いた。
「言ったでしょ?アルには何もしないって」
ヴァネアが俺の腕を取った。傷の上から触られて、痛みが走る。
その言葉に、その痛みに、記憶が揺さぶられる。
………嫌だ。
思い出したくない。
「僕の記憶も消して」
ヴァネアが自ら何かをしようとしたわけじゃない。その点だけは、彼女は約束を守っていた。
俺が自分から申し出たんだ。
あの、楽しかった時間の記憶を消してほしいと。
みんないなくなってしまったから。
ひとりぼっちになったんだと思い知らされるから。
帰りたくて、たまらなくなるから。
現実が辛すぎて、思い出が重すぎて、俺は大事なものを自分で手放してしまった。
お姉さんのことも、お兄さんのことも、ホホのことも。
全部、なかったことにしてほしいと。
崩れ落ちる体を、どうすることもできない。
ただ、雨音が聞こえる。
「晴れたらいいねえ」
ホホの声が甦る。
そうだ、今日はピクニックに行くんだった。
約束した。
早く帰らなければ。みんなが起きる前に。
お弁当を作るって言ってたから、きっと早起きするだろう。
その時に俺がいなかったら、ユイは驚くだろうし、メアリさんは怒るだろう。
「ホホは泣いてしまうと思う」
ホホを泣き止ませるのは得意だけど、できることなら泣いてほしくない。
彼女は笑ってる方がいい。
その笑顔で、みんなも笑顔になるしね。
ね、そうでしょ?お姉さん。
大丈夫だよ。
ホホは俺が守るから。
もう絶対に忘れないから。
だから、またみんなでピクニックに行こう。
海に行こう。
ホホに泳ぎを教えるんだ。
約束だったでしょ?
雨音も弱くなってきたしね。もうすぐ止むよ。
雨があがれば、お弁当を持って、森を抜けて、ピクニックへ行こう。
アルの話はここまでです。
次は、最後はホホのお話「彼女が旅に出た理由」、です。