8
引き留めてしまった。
引き留めたことはともかく、変なことを口走ったことに後悔する。
思い出せたことに浮かれた気分だったのは一時のことだった。
冷静になると、彼女と話さなければならないと改めて気づいた。
ふたりで並んでソファに座る。
それはほんの数日前まで毎日のようにしていたことなのに、ひどく懐かしく感じられた。
「手のこと、誰にも言わないでいてくれてありがとう」
まず初めにホホはそのことを話題にした。
「あんなの見てびっくりしたでしょ?」
「…まあね。でも、ホホも…驚いてたよな」
俺の指摘に、ホホはクスリと笑う。
「ばれてた?」
「ばればれだよ」俺も苦笑を漏らす。「…初めてだったの?」
そう訊ねたのは、以前ホホが自分は竜の体を持っていないと言っていたからだった。
彼女は「多分…違んだと思う」と硬い声で言った。
そして次の言葉を探すように宙を見る。
「最初は…、見た瞬間は手が変になってることにただ単純に驚いた。でも、その後すぐに…これは初めてじゃないって…思った」
落ち着いた様子で淡々と話すホホ。
「前にもこんな風に手が変わったことがあるって気づいたら動揺しちゃって。…でも、はっきりとは思い出せないの」
ホホがふいにこちらを向いた。視線がかち合う。
「いつのことだとか、どういう場面や経緯でそうなったとか、詳しいことが全然わからない。…こんなの、簡単に忘れられるようなことじゃないのにね」
普段は表情豊かな空色の瞳が、感情が伺えない。それが少し怖かった。
それにしても、ホホの言うとおりだ。到底忘れられるようなことではないはずなのに。それなのに記憶がないということは…。
「…記憶の改ざん」
俺の呟きに、彼女は柔らかい表情を浮かべた。
「昨日その話を聞いて、合点がいったわ」
夕べ、ひとしきり泣いた後、ホホは話をしてくれた。
話を聞くために彼女を起こしたわけだが、泣いている彼女を見ていると、とてもじゃないけど訊けない。みんなも同じように思ったらしく、今夜はもうやめようという空気になっていた。
だが、ホホ自身が事情を知りたいと言った。
今、一体何が起こっているのか。自分が何をして、眠っている間に何があったのか。
そこで、ホホとユイと俺の3人はユイの部屋に集まって話をすることになったのだ。
ユイはホホの様子を見ながら、まずは本当に記憶が操作されているかを確認するために、色々と質問をした。
結果は、予想通り。
やはりロドリスの元を離れた日の記憶がおかしい。
その後、ユイはこれまでに起こっていること、調べてわかったことを説明した。
「だから…、ホホに術をかけたのは、うちの身内の可能性が高いんだ」
アンヴァンは魔法を使えない。記憶が操作されていることがはっきりした今、十中八九ヴァネアの仕業だろう。
「本当にごめんなさい」
「すまない、ホホ」
ユイと俺が揃って頭を下げると、ホホは大きくかぶりを振った。
「いや、ふたりが謝るようなことじゃないから」
そして考え込むように視線を落とすと、「そっか」とぽつりと言い、「……はは」と笑った。
「ロドリスさんに悪いことしちゃった。結局あの人何もしてないんだよね。なのにあんなに怖がっちゃって」
昨日もアンヴァンの幻影を見たかとユイが訊ねると、ホホは少し考えこむような仕草を見せてから首を横に振った。
「そういえば見てないと思う。昨日は…これまでとはちょっと違ってたし」
それは突然のことだったそうだ。
急に行かなければならない気持ちが湧いてきて、いてもたってもいられなくなった。でもどこへ行けばいいのかよくわからない。わからないけれど体はむずむずする。行きたい行かなくちゃって気持ちを抑えきれなくて、気づけば体は動いていた。
「行かなくちゃって思った時のあの感じは、ロドリスさんから逃げてた時と似てた気がする」ホホは記憶を探るように遠い目をした。「…あの奥の方からから湧き上がってくるような、焦りみたいな気持ち。憶えがある」
それからばつが悪そうに俺に視線を向ける。
「アルともみ合ったことも憶えてる。…突き飛ばしてごめんなさい」
その時のことを、右手が変化していた時の事を、きっとホホはしっかりと憶えている。
なんとなくそう思ったら、何も言えなかった。ただ、首を横に振った。
ホホもそれ以上は言及せず、話を進めた。
「アルと外でいたはずなのに、急に目の前の様子が変わったの。アルもいなくなって、…部屋の中だった」
ホホが話していることは現実に起こったことではない。この時もやはり幻影を見ていたのだろう。
「それは…どんな部屋?知ってるところ?」
ホホは少し考えて、表情を曇らせる。
「よく、わからない。薄暗いし、視界がぼやけたようなかんじで…。何人か人がいて、話をしてた」
それが誰なのか、どこでどんな話をしていたかはわからないそうだ。
「ただ、すごく怖かった。雰囲気というか、…なんだか嫌なことが起こりそうで」
そう言うとホホは言葉を切り、視線を落とした。
気分を切り替えようと、ホホにヴァネアの似顔絵を見せてみる。彼女はピンと来ないといった表情を浮かべた。
「多分ホホと会った時は緑の服を着てるはずなんだけど」
「うーん、…憶えがないなあ」
期待はしていなかった。元々憶えられにくい人だし、憶えていたとしても記憶を消されているだろう。
「ごめんね」急にホホが謝る。「なんか、簡単に色々忘れちゃってる上に、変な術までかけられて」
それこそホホが謝ることじゃない。
そう言おうとしたら、ホホは更に口を開いた。
「でも大丈夫。思い出すから」
妙に、なぜか自信満々だった。
「…なんか策でもあるの?」
ユイが訊ねると、ホホはいつものカラッとした様子で笑った。
「策ってわけじゃないけど。でも自分でもなんか変なかんじで、このままじゃ気持ち悪いから。そう思ったら、思い出せそうな気がする」
「なにそれ」
ユイも苦笑を漏らす。そしてこう付け加えた。「でも…無理はしないでね」
優しい声に、ホホは目を細めて頷く。
そんなふたりのやり取りを、俺はなんとも言えない気持ちで眺めていた。妙に不安でもあった。
その後、霧雨亭に帰ろうとした俺に、ユイは小さく告げた。
「鍵はやっぱり書き換えられた記憶の中だ」
「もし…初めて手が変わった時のことも一緒に消されてるんだとしたら、辻褄が合うことがある」
「辻褄が、合う?」
「栄養失調の原因」
「……あ」
竜は星のエネルギーを喰らって生きている。しかも大量に。
「体が変化したからエネルギーの消費が激しくなった、っていうこと?」
自然と、俺の声は硬くなっていた。
「多分。そんなかんじなのかなあって」
ホホ自身も確信は持てないようだ。
「もしかしたら、竜の力が強くなってるから、手が変になったのかもしれない。まあ、どのみち詳しいことはよくわかんないんだけど」
今は何の変哲もない右手を、彼女は目の前にかざす。
「…お父さんからはそういうこと、何も聞いてないの?」
口にしてから、ホホの「お父さん」ってお兄さんなんだよな、と改めて思った。ものすごく変な感じがした。
「お父さんもわからないよ。きっと」
ホホはきっぱりとそう言った。
「お父さんだけじゃない。帰っても、誰もわからない」
言いながら、また表情がなくなっていく。
その様子に戸惑いを覚える。
「黒の国には、…砂時計全体にも、もう純粋な竜はいないから」
ホホの告白に、俺は目を見張った。
古今東西、竜の分布について公式なデータはない。近年少なくなってきているとは言われているが、そもそも元々どれほどいたのかがわかっていないというのが現状だ。数は少ないが世界各地にいることはいる、それが竜に対する一般的な認識だった。
黒の国はホホの出身国だ。そしてその黒の国がある大陸は砂時計と呼ばれている。
砂時計は古くから数々の文明が栄えた土地で、竜についての伝承も多く残っていた。そんな場所でさえもういないとなると、世界にはどれだけの竜が残っているんだろう。
「かろうじて竜と呼べるのは、うちのお父さんくらいなんだと思う。そのお父さんも子どもの頃に力を封印してて、普通の人間として生きてきたから。だから竜の体のこととか、能力のこととか、自分でもよくわからないんだって」
「…そう、なんだ」
かつて、お兄さんと呼んでいた人を思い浮かべる。
お兄さんは気さくな面白い人だったが、とても不思議な雰囲気を纏った人でもあった。
竜だということは知らなかったが、すんなりと受け入れられたのは、あの人ならそういうこともある、と思えるからだろう。
「お父さんの力は…封印しなければならないくらい強いの?」
ホホは頷く。
「竜の姿も持ってるしね。そのままだとエネルギーの消費が激しいし、そうなると町とかで暮らすのは大変みたい」
「…ホホも力を封印してる?」
「してないよ」苦笑いのようなものをうっすら浮かべて、首を横に振る。「私はそんな必要全然ない。竜の姿も持ってないし。魔力も大したことないし、魔法も下手だし」
「え、そう?」
実際に見たことはないけれど、高度な魔法を使うとビゼから聞いていた。
「魔法はあんまり得意じゃないんだ」
ホホは肩をすくめる。
それでも…、きっとその辺の人間よりはずっと強い。魔力もその他も。それが更に急激に強くなっているんだとしたら、…ホホはどうなってしまうのだろう。
よく知らないと言ったって、ここにいる俺たちよりはお兄さんの方がわかっているはずだ。
「一度、家に帰ってみた方がいいんじゃないかな?」
俺は思い切って言ってみた。
するとホホは強い口調で「大丈夫」と返す。
「今は安定してるから。一過性のものだよ」
「でも一昨日だって、急に手が変化したわけだしさ。ご両親に相談してみた方がいいと思うけど…」
何も知らない俺が言っても説得力がないのはわかっているけれど、言わずにいられなかった。
もしかしたら命にかかわることかもしれないのだから。
真剣に訴える俺を、ホホはじっと見つめ、そして困ったように笑った。
「帰れないんだ」
「…なんで?」
「こんな状態だからこそ帰れなくなった、と言うべきかも」
俺は眉をひそめる。
「お父さんの力を封印してるのはお母さんなの。でね、お母さんは弟の力も封印しているの」
弟がいるんだけどさ、すっごく生意気なんだ。
そんな風に、ホホはよく弟の話をしていた。会ったこともないのに、俺までよく知っている気になるくらい。
「弟はね、元々私よりもずっと力が強い。しかも成長すると共にぐんぐん強くなってる。でも竜の体は持っていないから、人間の体でその大きすぎる力を受け止めきれないの。体に負担がかかりすぎて、そのせいで体が弱くて…。だからお母さんは弟の力を封印した」
彼女は穏やかに、一気に喋る。
「お母さんは術師で、魔力も強いし魔法も上手だけど、でもふたり分抑え込むのはやっぱり大変みたい。それに、弟はまだこれからも力が大きくなっていくだろうから…。私が弟の分を抑えられればいいんだけど、何分魔法が下手くそで…。全然役に立たないんだよねえ」
最後はおどけて、ははは、と笑う。乾いた笑いが痛々しい。
「だから帰ってもお母さんに封印してもらうことはできない。家族の心配の種を増やすだけだしね」
「だから、……竜を探して旅をしているの?」
「…え」
ホホが目を丸くする。
「弟くんの体の負担を減らしたい。そのために竜に会って話を聞きたい。それが旅に出た本当の理由?」
不自然な笑顔が少しゆがむ。
大きな瞳が潤むのがちらりと見えた。ホホはそれを隠すように頷き、そのまま俯いた。
「まあ、それくらいしかできないからさ」
小さな声はそれでも明るいトーンで、でも少しくぐもっていた。
旅の本当の理由は、家族を守るため。
その理由は心の中にすとんと落ちた。彼女らしいとも思った。
「…前に言った理由と違って、ごめんなさい」
律儀な謝罪に笑ってしまう。
そんなの全然嘘の範疇には入らない。
「そうかな?世界を見て回って、竜に会いたい。そういうことだろ?」
俯く彼女の横顔は髪の毛が隠していてよく見えない。でもどんな表情をしているかは想像するに容易かった。
「えらいな、ホホ。よくがんばった」
伸ばした俺の手が、彼女の頭をポンポンと軽く叩く。
「…そんなことない。まだ会えてないもいないもの。旅に出て1年も経つのに」
そう言った後に「何にもできてない」と小さな声で付け加えるもんだから、俺は思わずホホの髪をくしゃりと混ぜた。
「すぐに結果が出ることばかりじゃないからさ」
ホホが焦る気持ちもわかる。確か彼女の弟は今年11歳だ。本格的に体が大人へと変わり始めるまで、時間があまりない。
「有能な弟を持つとつらいなー、お互い」
茶化して言うと、ホホも「…ほんとだね。一緒だね」と少しだけ笑ってくれた。
その言い方が、なんだかお兄さんによく似ていた気がした。
「アル」
ホホが神妙な顔つきで俺を見上げる。
「どうした?」
「私…ここにいてもいい?」
そこにいたのは頼りなげで心細そうな、ただの18歳の女の子だった。
「もちろん」
即答すると、ホホは少しだけはにかんだ。
「せんぱーい」
遠慮がちな低い声で目が覚める。
声のするほうに視線を彷徨わせると、扉の隙間からカッシュが首だけ突っ込んでいるのが見えた。
「具合どうですか?」
ホホと話をした後、色々と考え事をしていたら、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
ソファに寝転んだまま伸びをする。
「…ホホは?」
カッシュはあきれたような苦笑いを浮かべた。
「裏庭で洗濯してます」
頭だけを少し起こして、窓の外に目をやった。
とっくにお日様は昇っている。
とっくに…営業時間も過ぎている。
「すまん」
俺は慌てて体を起こした。
充分動けるまでに回復している。
「その様子じゃ、大丈夫そうですね」
俺は急いでエプロンを着ける。
「お店は大丈夫ですよ。先輩殆ど準備してたでしょ。それにふたりとも器用だから」
ふたりというのは…、「…ユイとビゼが調理してんの?」
「はい。メアリさんの指揮のもと」
俺は動きを止めて顔を上げた。
「…マジで?」
驚きの表情を隠すことなく訊ねる。
「マジっす」
カッシュはニヤニヤしていた。
ホホのボディーガードとして、メアリさんも一緒に戻って来てくれていたそうだ。
「メアリさんがいなかったらお店開けられませんでしたよ」
思えばメアリさんは最古参で、店のことも実はよく知っている。
「あの偏屈がよくその気になったな」
驚きのあまり本音が口を突いて出た。
しかしリビングの扉を開けると、そこにはその偏屈が立っていた。
「………おはよう、ございます」
「………」
無言で睨まれる。
メアリさんはそのまま2階へ上がろうとするので、俺はその背中に呼びかけた。
「メアリさん、ありがとね」
彼女はちらりとこちらを振り返り、「別に」とそっけなく言って去っていった。
なんと、返事が返ってきた。
もちろん、嬉しい。無視には慣れてるけど、こっちだって独り言のつもりで言ってるわけじゃないんで。
朝の営業を終えて、札を替えに外に出た。
今日は本当にいい天気だった。海風も気持ちがいい。
大きく伸びをして、なんとなく海へと視線を向けると、森の向こうの灯台が目に入った。
お姉さんたちの住んでいた灯台。俺はしょっちゅう遊びに行っていたことも思い出した。
あれだけ大好きだった人たちのことを、こんなに簡単に忘れてしまうなんて。
…自分の脳みそが、ほとほと信じられない。
「自分が信じられない」
引きずられるように頭に浮かんだ言葉は、今朝ふたりで話した時にホホが漏らした呟きだ。
彼女は書き換えられた記憶の中に、その鋭い爪で誰かを傷つけてしまった事実があると思っているようだった。
俺を突き飛ばした時に、何かを思い出しかけたらしい。
ホホは自分がとんでもないことをしてしまったのではないかと恐れている。
でも、それをはっきりさせたいとも思っている。
自分が何をしたのかわからないままでは、自分のことを信じられないのだと。
俺は心配だった。この数日間に見聞きしたことから推測するに、失くした記憶がとてもじゃないが愉快なものだとは思えない。
すべてを思い出してしまった時、彼女はどうなるのか。
もしかしたら、…思い出さないままの方がいいのかもしれない。
俺は少なからずそう思うようになっていた。
「アル」
背後から掛けられた声に振り返る。
ユイがこちらを見上げていた。
「ん?どした?」
「ヴァネアのことだけど、何か考えてる?」
ユイが口にしたのは俺たちの目下の問題だ。
何とかヴァネアを見つけ、事情を聴き、できることなら術を解かせなければならない。
「今のところノープランだ」
ヴァネアがどうしたいのか、いまいち読めなかった。
多分、森の家には近づきたくないのだろう。でもちょっかい出してきているところを見ると、ホホに興味はあるらしい。ユイとメアリさんがホホのガードをしていてヴァネアに干渉ができない今、どう出てくるか…。様子見といったところだろうか。
そんな自分の考えをユイに話した。
「なるほどね」ユイは頷いて、少し考えてから口を開いた。「あのさ、考えが…あるんだけど」
「どんな?」
「…餌をまくってのは、どうかな?」
そう言ってユイがポケットから取り出したのは真鍮製の鍵だった。
「それって森の家の地下室の…」
「そう。地下室の扉の鍵だよ」
祖母が亡くなった後、その扉には魔法がかけられており、鍵だけでは開かないことが判明した。
今でも封印は解けておらず、開かずの間となっていたはずだった。
「開いたの?」
「開かないよ」
即答が返される。
「もしかして……開いたとデマを流しておびき寄せる、ってとこか?」
その部屋には、ヴァネアが欲しがっているものがあることは俺も知っていた。
「うん。……どう?」
ユイが上目遣いで見上げてくる。
どうって言われても。…結構大胆な策に出るんだな。見かけによらず。
「…来るかな?」
思ったことを率直に口にしてみる。
何というか…、罠ってまるわかりだし。
「多分。ヴァネアは我慢なんてできないもの」
「…嘘だってばれないか?」
「他の人なら速攻ばれるね。でもヴァネアなら大丈夫だと思う」
純粋だから、とユイは付け加えた。
「純粋、ね」
苦笑が漏れてしまう。確かにね。というか、モノは言いようだな。
「…いいんじゃない?ヴァネアのことはお前の方がよくわかってるからな」
他に手もないわけだし、とりあえずやってみるのもいいように思われた。
「でね、信憑性を高めるために…丘の魔女に協力してもらおうと思って」
「…え?」
それは現在このザッカリーの町で名実ともにナンバーワンの魔女の通り名だった。
亡くなった祖母の、生涯のライバルのだった人でもある。祖母だけでなく、代々森の魔女と丘の魔女は仲が悪い。
「面識あるのか?」
「ないよ。でも前に手紙が来た」
「手紙?」
「うん。組合の勧誘」
この町には魔女の組合がある。丘の魔女の一派が中心となっていて、森の魔女は今まで組合に入ったことはなかった。うちの魔女たちは代々自由奔放で、一匹狼を好む性格らしい。
ユイだってそれは例外ではない。がっつりと、濃すぎるくらいにその気質を受け継いでいる。
「お前…、いいの?そんなお願いなんかしたら…」
むこうだってこれ幸いとばかりにユイを組合へ引きずり込もうとするんじゃないだろうか。
するとユイはあっさり「私は入らないよ」と言った。
「でも丘の魔女の力を借りるってことは、組合のネットワークも利用しようって算段だろ?」
「大丈夫。ちゃんと対策は立ててあるから」
自信満々なユイに、ふと違和感を感じる。
この子は筋金入りの人見知りだ。初対面の相手に会いに行くってのに、…なんでこんなに落ち着いてるんだ?
「……ユイ」
「ん?何?」
俺はじっと弟を見つめる。ユイは不思議そうに目を丸くする。
………ふむ。
ビゼ…、には無理だ。ってことは…。
俺は声を張った。
「メアリさん!その辺にいるんでしょ」
辺りを見回していると、裏庭の方からふらりと人影が現れた。
「……ユイ、あんた下手すぎ」
その声はメアリさんのものだ。だけど姿はユイである。
魔法で姿を変えている。
「普段通りにやれって言ったでしょ?なんでできないの?」
ユイの顔をしたメアリさんは、苛立ちを微塵も隠そうとしない不機嫌さマックスの表情で本物を睨みつけた。こんな鬼の形相のユイ、めったに見られない。
本物はじりじりと俺の方に逃げ寄って来る。
「い、いつも通りだよ?…」
「はぁ?んなわけないじゃない。知らない奴と会おうって時に、あんたがそんなに堂々としてるわけないでしょ」
ひどい言われようだ。だがビビりながらも今日のユイは言い返す。
「で、でも私だけで大丈夫ってところ見せないと。アル、付いて来ちゃうから…」
「そこをうまいことやるために、あんた本人がアルを言いくるめに行ったんでしょうが。使えないわね」
完膚なきまでに打ちのめす。ユイは肩を落とした。「…ご、ごめんなさい」
そこまで言わなくても…、と口を開こうとした時、店の窓が勢いよく開いた。
顔を出したのはビゼとカッシュだ。
「メアリさん!言いすぎだ!」
「うるさい。子ガラスは黙っといで」
「子ガラスじゃねーし!」
「はいはい、ふたりとも落ち着いて。どのみちこの人にはばれてたと思うけど」
「…アンタ、今更それ言う?」
「そうだよ。じゃあ、どうすればよかったんだ?」
「どうもこうもなかったんじゃないですかね?この人の嗅覚すごいもん。秘密裏に動いたって、ばれます」
「じゃあ…」
「そ、これでよかったんですよ。それにやっぱ仲間外れにしたらかわいそうでしょ?先輩ってああ見えて寂しがり屋だから」
「ちょっと待った!」
口々に喋る4人を俺は遮る。そしてぐるりと見まわした。
「……全員グルか」
低く呟くと、ユイとビゼは気まずそうに目をそらした。メアリさんはふてくされたようにそっぽを向く。そしてカッシュはアハハと、笑った。
「否定はしません」
「…何なの?これ」
「ユイちゃんとメアリさん考案、ヴァネアさんおびき寄せ作戦です。その一環でメアリさんがユイちゃんになりすまして、丘の魔女と話をつけようってわけです」
カッシュはユイに「ね?」と同意を求める。
ユイはばつの悪そうな表情を浮かべて俯いていた。
「…なんで俺には内緒なわけ?」
俺はユイに訊ねている。だけどユイは答えない。
「先輩はこのところお疲れみたいだったから。無理させたくなかったんですよ」
代わりに答えてくれたのはカッシュだった。
…なるほどね。俺の体調不良が原因か。
「アル、自分ばっかり平気で無理するじゃん」ビゼがボソッとこぼす。その顔は不満気だ。「心配なんだよ。また無茶するんじゃないかって」
「ああ!それわかるなー」
カッシュが大げさに呻いた。
「先輩はいつでもいつの間にかひとりでなんとかしてしまうから。…まあ、それができちゃうのがこの人のすごいところなんですけど」
ビゼが大きく頷いて、メアリさんもそっぽを向いたままため息を吐いた。
「私が自分で丘の魔女にお願いしないといけないことはわかってる」
地面を見つめたままユイが口を開いた。
「でも…今の私でうまくいくと思えない。今回は絶対に成功させなくちゃいけない。失敗してもいいから挑戦してみるような場面じゃない。…だから、メアリさんにお願いすることにしたんだ」
そろそろとユイが顔を上げた。見慣れた大きな瞳がこちらを窺う。
「情けなくって、ごめん」
泣きだしそうなその表情を見て、俺は心臓をぎゅっと掴まれたような気がした。
こう見えて負けず嫌いだからね、この子は。
「……だったらふたりで行ってくれば?」
俺の言葉に、全員の視線が集まる。
「丘の魔女を見くびるんじゃないよ。だませるわけないだろ。ふたりで行って、説得すればいい」
本人の言う通り、ユイだけでは心もとないのは事実だ。
「な?」
俺はユイに笑いかけた。
ユイは頬を赤くして大きく頷く。
「と言うわけなんで、メアリさん、よろしくお願いします」
メアリさんは横顔で頷いてくれた。
こうしていつもの人間の姿に戻ったメアリさんとユイは出かけて行った。
「先輩もユイちゃんも過保護ですね」
ふたりを見送りながら、カッシュが笑う。
「…そうみたいだな」
「似た者兄弟だから」
ビゼの一言に、俺も苦笑を浮かべるのだった。
数時間後、ユイとメアリさんは無事に丘の魔女と話をつけて帰ってきた。
協力と引き換えにしたのは、祖母が残したとっておきの若返りの薬と、むこう半年間の寄合への出席だった。加入はとりあえず保留ということで落ち着いたそうだ。
「ま、こんなもんでしょう」
メアリさんは自分の仕事ぶりに満足がいったようだ。顔は仏頂面のままだったけど、足取りは軽い。
ユイも嬉しそうに頬を上気させていて、それを見ていたら自然と心が決まった。
結局は、できることしかできない。
時間もあまりない。
だから俺は、アンヴァンの始末をつける。