6
ビゼとふたりきり、開店前の厨房はとても静かだった。
彼は無口というわけではないが、饒舌でもない。
俺はそれなりに喋るけど、根っからのお喋り好きというわけでもない。
それぞれが黙々と、でもお互いの呼吸を感じながら作業を進める。
ビゼはとても手際がいい。たまに手伝ってくれているから勝手がわかっているし、もともとセンスがいいのだとも思う。次を読んで準備をしてくれる様子は、普段彼がどのようにユイをサポートしているのかを容易に想像させた。
「ビゼは執事に向いてそう」
思いついたことそのまま口にすると、「…は?」といつもの調子で返された。
暫くの沈黙の後、ビゼが独り言のように言う。「自分だって、体当たりしてんじゃん」
一瞬なんのことかと思ったが、すぐに思い付いて、笑ってしまった。
「アルも十分人間くさいよ」
ビゼが手を止めることも、こちらを見ることもなく、でもちょっと笑いを含んだ声で言った。
それでもすぐに厨房は静けさを取り戻す。
「あれ、ホホは?」
最近、常連さんたちはホホがいないとそう訊く。
考えてみると、今ではユイよりもホホのほうが店にいる確率が高い。彼女は自分が休みの日でも、暇なら手伝おうとする。それでは休みにならないので、近頃は休みの日には森の家に行ってもらっていたりしていた。
いつの間にか、彼女はこの店にいるのが当たり前になっていたのだ。
本当のことを言うわけにはいかない。この状況がいつ解消されるのかもわからない。とりあえず「風邪で寝込んでるんだ」と、その場を凌ぐ。
そう告げた時のおじさんたちの残念そうな様子に、俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。
裏口が勢いよく開いたのは昼前のことだ。
「どもー!カッシュでーす!」
軽いノリ全開で、ビゼの目が点になる。
「…もう来たの?」
ここ数日、カッシュはプッチー人形の捜査で国境近辺の町へ行っていた。
「あ、ご心配には及びません。こっちに着いたのは朝方だったのでちゃんと仮眠は取ってきましたから」
彼はあまり眠らない性質な上、スタミナ無尽蔵だ。よく知っていることなので、そんな心配は元からしていない。
が、俺の薄い反応を気にすることなく、カッシュは喋り続ける。
「人手不足だろうから手伝って来いって、社長が」ニコニコとしながら彼は手に持っていたエプロンを広げた。「やっと俺の出番ですよー」
ビゼとカッシュは初対面だった。急に現れたハイテンション男を、ビゼは怪訝な目で見つめていたが、「ああ、夜にはユイちゃんに会えますしね」の一言で敵と見なした。
「展開が早すぎて、ついていけないんですけど」
厨房でふたりになった時に、カッシュが言った。ちょっと拗ねているような口調だった。
今朝戻ってからゼフィにざっと話を聞いたらしい。
俺は訊いてみた。「怒ってる?」
するとカッシュは一瞬キョトンとしてから、「怒ってはないです。置いてけぼりを食らったみたいで淋しいだけです」と答えた。
そして少し考えてから付け加える。
「社長の言うこともわかるし。物事なんて色んな方向から見てみないと、本当の形なんてわからないですから」
珍しく真面目な返答が返ってきたから、ちょっと驚いてしまった。
「何ですか?人の顔じっと見て」
カッシュは少し気味悪そうに俺を見返す。
「…いや、今日は替え玉が来てんのかと思って」
「こんな男前、ふたりといるわけないでしょう」
前言撤回。間違いなく本人だ。
今日も忙しかった。いいことだ。だからなんだかんだでカッシュが来てくれて助かったなあ、と考えていた閉店後、やって来たのはアンナだった。
アンナは占いの後も、何度か訊ねて来てくれている。今ではビゼだけでなく、みんなの友達だった。
意外にもユイとも仲がいい。高レベルの人見知り同士なのに、「そうも言ってられない状況で出会った」(ユイ談)おかげで、もじもじしている期間を省略できたらしい。
いつも物静かなアンナだが、今日はちょっと違っていた。
彼女は慌てた様子で、飛び込むように店に入ってきたのだ。
「どうしたんだよ?」
肩で荒い息をしているアンナにビゼが駆け寄ると、「ビゼさん!私、見ました!」と彼女は興奮気味に話す。
「落ち着け」ビゼはアンナを椅子に座らせる。「何を見たんだ?」
俺が水を差しだすと、アンナは「ありがとうございます」と言って一気飲みした。
そしてビゼをじっと見た。
「私にプッチー人形をくれた女の人です」
白い服の女。
その単語が文字のままで頭の中にポンッと浮かぶ。
ビゼは冷静に問うた。
「どこで?」
「お、お、大通り、です」
お、が多い。
大通りを霧雨亭に向かって歩いていると、道の反対側にその人はいたという。怖くなったアンナはそこからうちまで全力で駆けてきたそうだ。
「でもよく気づいたな」
俺もそう思った。以前に女の特徴を訊いた時、アンナの記憶は曖昧だった。それはアンナだけではなく、人形をもらった人たちに共通して言えることだったが。
「そうなんです!それが私も不思議なんです」アンナはまだ興奮気味だ。「でも一目見てわかったんです」
「じゃあ、ちょっとこれ見てもらえますか?」
突然カッシュが話に入ってきた。胸のポケットから何か紙を取り出す。
「森の家に行ってから見せようと思ってたんですけど」と言いながら開いた紙を俺たちは覗き込んだ。
とたんに、ぽかんとしてしまう。
これは…どういうことだ?
「そうです!この人です!」
アンナの興奮が更にヒートアップした。
俺がビゼを見ると、彼も顔を上げたところで、視線ががっちりぶつかった。ビゼは目を丸くしている。俺もきっと同じような顔をしているだろう。
「これ、白い服の女の似顔絵です」カッシュが得意げに言った。「すごいでしょ?俺、がんばったんすよー」
するとアンナは「今日は白い服じゃありませんでした」と、ぽつりとこぼす。
「何色?」
「え?」
急にビゼが厳しい視線を向けてきたので、アンナは戸惑ったように声を上げる。
「服の色、何色だった?」
「…緑、でした。深い緑色」
その言葉に俺たちは確信した。
「これ…ヴァネアだよな?」
ビゼがはっきりと口にした名前は、懐かしい響きを持っていた。耳にすることが本当に久しぶりだったことに気づく。
「…おそらく」
ヴァネアは、祖母の使い魔だ。
祖母が死んだ後森の家を出て行って、それっきり帰ってきていない。
彼女は着る服の色に強いこだわりを持っていた。緑色を好み、白い服は絶対に着ない。
「もしかしなくてもこれは…」なぜかカッシュは恐る恐るといった感じで俺を見上げた。「お知り合いですか?」
「…まあね」
俺は短く告げた。
「マジで?!」
「マジだ」と言いながら、俺はアンナの方を向く。「アンナ、その女はどっちに行ったの?」
「市場のほうへ歩いて行ってました」
探しに行ったところで見つかるとは思えなかったが、じっとしてはいられなかった。
「一応見てくる」そう言って机の上の似顔絵を手に取った。「ちょっと借りるわ」
するとふいにビゼと視線が絡む。彼は何か言おうとして、口を開きかけた。
だが俺はそれを遮って「大丈夫」と笑ってみせる。そして足早に扉に向かった。
しかし外に出てすぐの所で呼び止められた。
「アル!」
振り返るとビゼが駆け寄ってくる。
「おれも行く」
その目が心配でたまらないと、訴えていた。
やっぱり、この子は優しい。
ビゼはヴァネアが俺に何かするかもしれないと心配しているのだろう。
彼女が以前、俺たちの父親にしたようなことを。
使い魔はひとりにひとつ、特殊能力を持つ。どんな能力が身に付くのかはそれぞれで、使い魔になってみないとわからない。選ぶことはできない。
ビゼは魔法の匂いを嗅ぐことができる。メアリさんは彼女自身が魔を払う結界だ。
そしてヴァネアは記憶を操る。記憶を消したり、書き換えたりすることができた。
母が亡くなった直後のことだ。祖母はヴァネアの力を使って父の記憶を操作した。祖母がユイを引き取ることに父が反対し、抵抗したからだっだ。
父はユイルという息子がいたことを忘れてしまった。
自分の子どもは俺ひとりで、ユイは親戚の女の子だと思っていた。俺は何度も父に訴えたが、彼の記憶は死ぬまで戻らなかった。
小雨が降っていた。細かい水の粒が、見上げるビゼの顔を少しずつ濡らしていく。
「お前は残ってな。アンナもいるし」
「でも、」
「ヴァネアは何もしないよ。する理由がない」
「そんなことわからない」
ビゼはヴァネアと何年も暮らしていたから、俺よりもずっと彼女のことを知っている。彼女が独特の価値観で動くということを、骨身にしみてわかっていた。
俺は首の鎖を少しだけ上げて見せる。
「したとしてもお守りがあるから、俺には効かないと思うけど。多分」
すると、ビゼは少しだけ顔を歪めた。
「…アルに何かあったら、」
「その時はユイがどうにかしてくれるさ」自分の言葉が、他人のもののように耳に響く。「ユイはもう俺がいなくても大丈夫だし」
ビゼの鋭い目に困ったような色がにじんだ。そしてちょっと押し殺した声で言った。
「昨夜なんでメアリさんがあんなに怒ったのか、おれ今ちょっとわかる気がする」
「何?また殴られるの?」
茶化すと彼は、「…ほら、そうやって…」と俯いてしまった。
この頃たまにこういうことがある。いつもユイに対して燦々と注がれているビゼの優しさが、ふいに自分に向けられるのだ。
正直、どうしていいかわからなくなってしまう。
俺は小さく息を吐き、ビゼの頭に手を乗せた。その黒髪をかき混ぜる。
「俺は親父のようにはならないよ」
あてにならないセリフ。言った傍からそれが嘘だということにも気がついていた。
なのに、嘘を重ねる。
「親父のように、簡単に忘れたりしないから」
言いきる根拠なんて何もない。俺の脳みそは魔法なんてかけられなくても、ぽろぽろと記憶をこぼしてしまうのに。
いつもなら、こうして頭をなでることをビゼは嫌がる。なのに今日は全く無反応だ。それもちょっとつまらない。
「…殴らない」
小さな、小さな声がした。
「おれは殴ったりしない。だから…、ちゃんと、無事に帰ってきて」
そこがふたりの落としどころだった。
「…了解」
硬い表情のままのビゼに背を向けるのは、それでもやっぱり少し心苦しい。
俺は半ば駆け足で、町を抜ける。道行く人々の顔にすばやく目を向けていくが、お目当ての人物は見つからない。
今、俺の周りで起こっていることにヴァネアが絡んでいるのだとすれば、説明のつくことがいろいろとある。ぼやけていた事件の輪郭が少しだけはっきりしてくるように感じた。
そして、それに引きずられるようにヴァネア自身のことも思い出される。
ビゼには言わなかったが、ヴァネアが俺に手を出さないだろうというのには理由があった。
彼女に初めて会ったのは、父が術をかけられた時のことだ。
俺はその場に居合わせていた。
リビングのソファに横たわる父の傍らで、彼女が何をしているのかわからなかった。黙ったまま父を見つめて、額に手を触れているだけのように見えた。
でも、すごく怖かった。ヴァネアの無機質な瞳が。その異様な雰囲気が。
去り際に、ようやくこちらを見た彼女は言った。
「あんたには何もしないよ」
俺の頬に触れた、手の冷たい感触と、泣きそうなのか笑いそうなのかわからない表情が今でも忘れられない。
「だってアルは私と同じでしょ?」
市場も、その周辺も見て回ったが、やっぱりヴァネアは見つからなかった。町の人たちの似顔絵を見せても、欲しい反応は返ってこない。
期待はあまりしていなかった。というのも、多くの人はヴァネアのことを記憶の中に留めておくことができないのだ。彼女が意識的にやっているわけではなく、それも能力の一部だった。
だがみんなに効くというものでもない。仕組みがわかっているうちの家族はそれぞれ対策を取っている。そんなことしなくても全く効かない相手もいるし、アンナのようにかかりが弱い場合もある。
俺はポケットから、似顔絵を取り出した。
どちらかと言うと地味な顔立ちだ。歳の頃もよくわからない。魔法なんかなくても、あまり記憶に残らないような女だった。
それはヴァネアの特徴をよく表していた。
ヴァネアを見つけることはできなかったが、代わりに別の人物とばったり出会ってしまった。
ロドリスだ。
大通りで真正面から出くわした俺たちは、互いに「あっ」と小さく声をあげる。
なんか…気まずい。
無視するわけにもいかず、「こんにちは」と、挨拶をしてみた。
「こんにちは。…こんなところで会うもんですね」
「ほんとに…」
そう言いながらあることに気付く。
アンヴァンがいない。
「今日は従者さんはいらっしゃらないんですね」
直接訊いてみると、ロドリスはあっさり、「ええ、さっきまで一緒だったんですけど」と答えてくれた。
もしかしたら、今頃ヴァネアと会っているのかもしれない。
アンヴァンには、そしてロドリスにもそれぞれ見張りが付いていた。後でゼフィにアンヴァンの行動を確認することにする。
他にも聞いてみたいことはあった。けれど俺たちの関係ではあまり根掘り葉掘りもできないし、アンヴァンに勘づかれても困る。
「では」俺は軽く会釈をしてその場を去ろうとした。
「アルさん」
呼び止められて顔を向けると、ロドリスはまっすぐにこちらを見つめていた。
「なんでしょうか?」
「この間は…すみませんでした」
彼のお辞儀はとてもきれいだった。お辞儀だけでなく、彼の所作は美しい。
「急に押しかけて、皆さんの前であんなこと言って…。ご迷惑をおかけしました」
「いえ…、もういいですから」
確かに迷惑だったけど、こちらもニセ婚約者を演じた負い目がある。あまり真摯な姿を見せられるとつらい。
「私はどうしてもあなたにお会いしたかった」
再び、ロドリスと目が合う。
「ホホの、彼女の心が本当に求める人をこの目で確かめたかった」
…ホホの心が求める人?
「私が彼女にプロポーズした時に言ったんです。自分の心が本当に求める人を探したいって」そしてちょっとおどけるように笑った。「残念ながらそれは私ではありませんでした」
もちろん俺のことでもない。
「あなたに会って、踏ん切りがつきました。ホホが幸せそうだったから」
「…そう、ですか」
すっきりとした笑顔で言われて、さすがの俺も言葉が見つからなかった。これ以上嘘を重ねるのは気が引けた。
だが、どうしても確かめておきたいことを思い付く。
「それにしても、彼女のパンチは重いですよね」
「…へ?」
突然の俺の不可解な発言に、ロドリスは明らかに戸惑いを見せた。自分でも気味の悪い奴だと思うが、大事なことなので引くわけにはいかない。穏やかに微笑んでみる。
ロドリスは困惑の表情を浮かべながらも、「残念ながら、と言うか幸運にもと言うか、彼女が警備してくれている時にはそういった事態は起きなかったんですよ」と返した。
彼の反応を見ながら、やはりロドリスはホホに殴られていないのだろうと思った。というか、あのあたりのごたごたはなかったのではないか。ロドリスのプロポーズをホホが断った、で、終わり。
そう判断するのは、今ロドリスがきっぱりと否定したからだ。
前にロドリスがホホに会いに来た時に感じた空気の違い、違和感が、ずっと引っかかっていた。ホホを襲おうとして返り討ちに遭ったにしては、ロドリスの対応はさわやかすぎる。気まずさ、後ろめたさ、罪悪感、そういうものが見えない。至って普通の好青年っぷりに、実はあぶない奴かと疑ってしまったくらいだ。
だが、ヴァネアの関与の可能性が出てきたことでその説明がつくかもしれない。
それで俺は彼に回りくどい質問をしてみた。実はヴァネアが書き換えた記憶というのは割と簡単に見破ることができる。実体験を伴っていない記憶なので、なんというか、記憶が薄いのだ。直接的な質問には答えられるが、婉曲なアプローチには弱い。対応しきれずほころびを見せることが多々あった。
ロドリスが否定したということは、少なくとも殴ったかどうかという点に関しては、彼の記憶は触られていないと考えていいと思う。
去っていくロドリスの後姿を見ながらベジェットじいさんの報告を思い出す。
彼はロドリス商会の3代目だそうだ。先代、先々代はかなり強引であくどい商売をしていたらしいが、彼はクリーンな商売へと路線変更を掲げ、改革を推し進めているという。そして温厚誠実な人柄も申し分ないと。じいさんはお見合いの世話役のように言っていた。
どうやら、評判通りの人物のようだ。
でも彼女の心が求める人ではなかった。
その言葉はプロポーズを断るための単なる口実かもしれないが、ホホなら言いそうだとも思う。
「心が求める人、か」
口に出してみたけれど、自分には全然ピンとこなかった。
店に戻ると、3人が後片付けを全てやってくれていた。
「すまん!全部やらせて。おまけにアンナまで」
作業台の上に置かれたバスケットに目をやる。中身はお菓子作りが趣味のアンナが作ってきてくれた焼き菓子だ。
「楽しそうにしてたし。台所仕事は好きなんだって」
明日の仕込みをしながらビゼが答えた。
多分、好きなのは台所仕事だけではないだろうが。
アンナはカッシュが送ってくれていた。そして彼もそのまま一旦事務所に戻るとのことだった。
ビゼと俺は、仕込みを終えるとアンナのお菓子を持って家を出た。
雨は止んでいて、明るいのか暗いのか、よくわからない灰色の空が頭の上には広がっていた。
夕方の薄暗い森の径を、ふたりで並んで歩く。ふたりともなぜかとてもゆっくりな歩調だった。
「せっかく来てくれたのにな」
アンナにもホホは風邪、ユイは魔女の仕事だと伝えてあった。
アンナが来ると、ユイもホホも嬉しそうだ。お菓子を食べながらお喋りをするいつもの3人の姿が思い浮かぶ。
「どうせまた来るよ」とビゼは言った。
つれない言い方だったけど、ちらりとバスケットを見た顔は残念そうだった。
分かれ道の所で、ビゼが足を止めた。
「どうした?」
ビゼはまっすぐに伸びた道を遠く、見ている。
「…ピクニック、中止だな」
ぽつりとこぼした。
数日前、ホホが言っていたのを思い出す。次の休みは明後日だ。
ビゼがそんなに楽しみにしているなんて、意外だった。
「明後日は無理かもしれないけど、また今度行ったらいいじゃん」
休みなんてこの先いくらでもあるのだから。
そう思ってビゼを見ると、彼は何か言いたげに俺を見上げる。今日はこの表情をよく見る気がする。
「…そうなんだけど」
それっきり黙ってしまった。
分かれ道を曲がっても、ビゼはだんまりなままだった。
なんだか気づまりで、俺は無理やり明るい声を出す。「そういえば、ピクニックの行先聞いてなかったな」
「…灯台」
ビゼは視線を落としたまま言った。
「灯台?」
「うん」
それで分かれ道で立ち止まったのか。でも…、「…なんでそんなところ?」
灯台には灯台と海以外何もない。人もいない。
「…知らないのか?」ビゼが驚いて顔を上げる。「ホホ、昔あの灯台に住んでたらしいよ」
「そうなの?」
思わず声がでかくなる。
「赤ちゃんの時の話らしいけど。だからこの町に来たら、灯台に行ってみたかって」
「へえ…、そうなんだ」
そう言えばユイとホホがそんな話をしていたことがあるような気がしてくる。
そう思ったら、なんだか違和感が湧いてきた。そんなこと、一度聞いたら忘れなさそうなのに。
そして頭の中に、灯台を思い浮かべようとしたのだけれどそれすらうまくいかない。
霧雨亭からも小さく見えるそれは、子どもの頃からの馴染みの風景の一部だ。よく家の前の堤防に座って海を見ていた俺の視界に、見るともなしに入っていた。
今まであまり意識していなかったからだろうか。そういえばじっくり見たこともないし。行ったことももちろんない。
「…あれ?行ったこと、なかったっけ?」
思わず口に出してしまうと、ビゼが怪訝そうな顔をした。
「何言ってんの?」
「あ、ごめん。なんでもない」
慌てて頭を振ってみたけれど、言いようのない気持ち悪さが胸に残っていた。