5
かつて俺は、毎日のようにこの道を通った。
森の家に連れて行かれたユイに会うためだ。
呪いを持つ俺は祖母には疎まれていた。まるで害虫の様に扱われたが、そんなことは構わなかった。ユイの傍にいるために、俺はそれこそどんな手段でも使った。
子どもの俺は、本当は薄暗い森が怖かったし、祖母も怖かった。ついでに彼女の使い魔は気味が悪かった。だけどユイが待っているからと気持ちを奮い立たせて、いつも全力で森を駆け抜けた。
今思えば、俺が淋しかったのだ。俺がユイを必要としていたのだろう。
霧雨亭から森の家まではほぼ一本道だ。途中、森の中で一ヶ所だけ分岐点がある。右へ行けばユイのところへ、そのまままっすぐ進めば森を通り越して岬へ出る。
今日も俺は森を走っている。
いつもと同じように分かれ道を右に、曲がる。
異変にはすぐに気づいた。
いつも静かな森の家から聞こえてくる声は、外にダダ漏れだったから。
玄関を開けたところで3人がもみ合っている。出掛けると言って聞かないホホをユイたちが必死に止めていた。
「どこに行くの?」と訊ねて「…わからない」と答え、それでも出て行こうとする彼女は明らかに普通の状態ではない。
ホホはあの外套を着込んでいた。
俺とゼフィも説得に加わり、なんとか彼女を思い止まらせる。
「ね、とりあえずちょっと落ち着こう。さ、座って」
近くにあった簡素な丸椅子に半ば無理やり座らせると、ホホはそわそわと視線をさまよわせた。
着たままの外套が気になった。やはりあれが良くない気がする。
俺がゼフィに、絶対に扉の前から動かないよう目配せをすると、旧知の友は小さく頷いた。
「そうだ。ユイ、お茶にしようか」
「え?」
「ほら、みんないっぱい喋って喉が渇いただろうしさ」
俺は戸惑うユイを強引に台所へ引っ張った。やかんに水を汲みながら俺は小声で囁く。「多分、操られている」
ユイが驚いた顔を向ける。
「詳しくは後で話すけど、こないだの黒曜石が使われてるかもしれない」
「は?」
「お前、なんとかできる?」
何が何だかさっぱりわからないであろうが、それでも真面目なユイは大きな目を一度しばたたいて答える。
「一時的に今の状態を解除するって意味なら、できると思う」ちょっと考えて付け加えた。「…ホホがじっとしておいてくれるなら」
「…だよな」
今はそれが一番難しそうだ。
「元から術を解くっていうことなら黒曜石を見つけなくちゃ」
「それなら…あの黒い外套の中じゃないかと思うんだが」
「……あ」ユイも思い当たったのだろう。「そっか…」
彼は悔しそうに唇を噛んだ。
「そしたら…とりあえず眠らせるか」
「…お茶に薬混ぜるの?」
あまり乗り気でない声を出すユイ。
「しゃーないだろ」
そう言った時、隣の部屋が再び騒がしくなった。
「ホホ!」
ビゼの叫びに俺たちが部屋に戻ると、ホホが思い切りゼフィを突き飛ばしたところだった。
「おわっ!」
ゼフィはでかいし、それなりに戦える。だけどまさかホホがあんなに怪力だとは思わなかったのだろう。バランスを崩してすっころんだ。
雨の中に飛び出した彼女をすぐに俺は追う。彼女の背中に手を掛けたのは玄関のポーチを下りたところだった。
「どこに行くんだよ!」
暴れるホホを後ろからがっしりと抱きしめる。
ホホの力が強いのは知っていたが、本気の彼女は予想以上だった。
「離して!」
身をよじったホホの右手が俺の肩を思い切り押す。
ビリッと何かが破れる音を聞きながら、俺は後ろに倒れた。
「アル!」
しりもちを着いた俺にビゼが駆け寄った。
「大丈夫」俺はホホを見つめたまま声を上げる。「転んだだけだ」
そんな俺をホホは呆然と見ていた。
そしてゆっくりと自分の右手に目をやった。つられて俺もそちらに目をやる。
だが、それを目にしたとたん、俺は立ち上がっていた。
俺はすばやくホホの右手を取り、自分の胸に押し付ける。そして空いた腕で彼女を抱き寄せた。
これは、この右手は、誰にも見せてはいけない。
微動だにしないホホの耳元で俺は囁いた。
「大丈夫。爪が服を少し破いただけ」
胸で握るホホの右手は冷たい。
つめたくて、硬くて、ごつごつしていて、鋭い爪があった。
人の手の形をしていなかった。
「暗かったし、誰も見てない。大丈夫だよ」
ビゼは暗闇では目が利かない。気配からしてユイとゼフィはポーチの上だと思われる。
ホホの体が少しづつ震えだして、俺は腕に力を込めた。
「おい、アル…前見ろ」
硬いゼフィの声に俺は顔を上げた。
ホホの背後に何やら黒い靄のようなものが渦巻いている。
以前ホホとユイが幻影に襲われた時に言っていたことを思い出した。
「ユイ、これか…?」
振り返ると、ユイは前方の黒いものを見つめてこくこくと小さく頷いた。「た、多分」
「うちの中に入れ!」
霧雨亭ほどではないが、森の家にも結界が張ってある。
自分たちも逃げ出そうとホホを促す。
だけどホホは体が強張ってうまく歩けない。その間に急速に靄は濃さも大きさも増していく。
「ホホ、大丈夫?」
俺は顔を間近で覗き込む。
震える唇から漏れる音は、小さすぎて聞こえない。水色の瞳は一点を凝視したまま動かない。
ただ、彼女の右手は俺のシャツをぎゅっと握りしめている。
かたい皮膚に覆われた、ホホの右手。
彼女は、怖がっている。それも、ひどく。
でも、黒いものを怖がっているわけじゃない。黒いものが現れるよりも先に、ホホは何かを怖がってた。むしろ、ホホが怖がったから黒いものが現れた感じすらする。
恐怖に見開かれた、水色の瞳。
それを見ていると、震えるホホを今すぐ何とかしたいと思った。
ちょっとでも怖くないように。
「…ホホ」
ホホの右手を握る自分の左手に、自然と力がこもる。冷たいままの彼女の右手に、少しでも温度が伝わればいいと思った。
そしてできるだけ優しく、右腕でもう一度彼女を抱きしめた。
こんなことをしている場合ではないのはよくわかっている。
無理やり担いで逃げようかとも一瞬思った。けどホホが原因であるなら、逃げたところで意味はないだろう。
正直、お手上げだった。
開き直っている間にも闇は俺たちに迫って来る。ひやりとした何かがふわりと頬をかすめた。
「アル!逃げて!」
ユイのこんな、悲鳴に近い声は聞いたことがなかった。
俺は服の下にあるお守りに手を掛ける。最後の手段だが、今、思いつくのはこれを使うことだけだった。
だがお守りを投げつけようとした瞬間、耳障りな甲高い音が森中に響き渡った。
「!」
思わず顔をしかめると、小さい白いものが森の奥からものすごい勢いで近づいてくる。
それがメアリさんだとわかったのは、彼女が闇を蹴散らした瞬間だった。
メアリさんは俺の肩に飛び乗ると、ホホの額に前足を軽く乗せる。すると彼女の体からふっと力が抜け、そのまま意識を失った。
抱き留めたホホの右手は元に戻っていた。
森の家にホホを運び込み、脱がせた外套の内ポケットからは、真っ二つに割れた黒曜石が出てきた。
もう夏が来ようかという時季にもかかわらず、俺と俺の服を乾かすために、ユイは暖炉に火を入れてくれた。
服は干したが着替えはない。野郎ばかりなので問題ないだろうと、毛布にくるまっただけの俺を見て「蓑虫みたい」とビゼは言った。
脱いだシャツは肩の所が少し破れていたが、気づいてないのか気にしてないのか、誰もそのことには触れなかった。
ホホはユイの部屋に寝かせている。対策が定まっていない中、目が覚めてまた暴れられても困るので、ユイが眠りの術を施していた。傍にはビゼとメアリさんが付いている。
俺はテーブルの上に転がる黒曜石に目をやった。
ユイの見立てでは、これが割れたのは以前ユイがお守りを投げつけた時だろうということだ。
どうやら石を割っただけでは術が破れないらしい。
「さて、」窓辺のソファに座るゼフィが俺を見た。「これからどうする?」
「術を解かないことにはどうにもならない」
そしてそれができるのは、このメンバーの中ではユイだけだろう。
奥の作業部屋に入っていたユイが出てきた。
ユイは難しい顔をして俺の前へ立つ。だが、俯き加減でだんまりのままだ。
…怒ってるのかもしれない。
俺がユイに秘密を持っていたことは明らかだ。しかもホホのことで。
「ユイ」声を掛けたのはゼフィだった。「俺がお前の兄さんを頼ったんだ」
ユイがゆっくりとゼフィの方へ顔を向ける。
「今度ロドリスのところの荷物を取り扱うかもしれないことになったんだが、悪いうわさがあってな」
ゼフィがしたのは冒頭の部分を除けば殆ど本当の話だった。アンヴァンが敵国に武器の横流しをして、あの黒曜石を手にいれているようだが、確証がない。魔法のことに詳しい俺に相談しようと思って霧雨亭を訪ねてみたら、たまたまその黒曜石を俺が持っていた。そしてたまたまロドリスとアンヴァンが現れた、と。
「偶然が重なってしまったんだ。でもアルやお前を巻き込んでしまったことは悪いと思っている」
そう言って立ち上がると、大きな体をふたつに折って頭を下げた。「ごめん」
「やめて。ゼフィが謝るようなことじゃないよ」小さな声でユイは言う。「謝らなくちゃいけないのは私の方だし…」
そして俺を見上げた。
「私、全然役に立たなかった。…ごめんなさい」
その言葉と眉を寄せる表情で、俺はようやく理解する。
ユイは怒っているのだ、自分自身に。
それは仕方のないことだったと思う。ユイが活躍できるような場面でなかったというだけだ。
でもそう言ったところで、ユイは納得しないだろう。
好きな女の一大事に何もできなかったのだから、それは自然な反応なのかもしれない。
「それに…実は私も黙っていたことがある」
俺とゼフィはじっとユイに集中した。
すると急に2階が騒がしくなった。
「ちょっと、メアリさん?!」
ビゼの声が響いたと思ったら、扉が開く音と遠慮のない足音が上から派手に降ってくる。俺たちはその音を追うように頭を向けた。
騒音をまき散らして階段を下りてくるのは、女の子。
10歳くらいに見えるその子はぶかぶかの服を着ている。長すぎるワンピースをたくし上げた彼女は、階段の途中で一度止まるとキッと階下を睨みつけた。
それは人間の姿を取ったメアリさんだった。
視線の鋭さに、俺たちは凍り付く。
彼女はものすごい勢いで残りの階段を下りたかと思うと、まっすぐに俺に近づいてきた。
そして勢いそのままで豪快に俺の頬を張る。
小気味いい音が室内に響き渡った。
「何であんたはそうなのよ!」
この小さな体のどこからそんな大きな声が出るのだろう。思わず感心していると、彼女はつま先立ちになり、俺の胸ぐらを力一杯掴んだ。
「これがないと、どうなるかわかってるの?」
彼女は俺のお守りをむんずと握りしめる。
あの時はどうにかしなければという思いしかなかった。ユイが前にしたことを憶えていたから、同じようにやってみようと思っただけだ。
でもそれを言ってしまうと、「後先考えてない」とまた怒られる。
メアリさんは更に手に力を込めて叫んだ。
「どうして、どうして自分を大事にできないのよ?!」
多分、俺が逃げようとしなかったことも指しているのだろう。
だけどあの時の感情を今さら言葉にするのは難しい。それにみんなの前では言いたくなかった。
だから一言、「ごめん、メアリさん」とだけ口にした。
するとメアリさんはひどく傷ついた表情になったので、自分がまた間違えてしまったことに気づく。
胸元の毛布を握りしめる手が震えていた。
「…あんたなんかを守ってる私がばかみたいじゃない」
泣きそうな声でそう呟くと、彼女は手を離した。
すると「メアリさんって、あの化け猫か?」と、ゼフィがぼそっと漏らす。
その声に、メアリさんは全てのものを凍てつかせる眼光でゼフィを睨みつけた。どしどしと荒れた足取りでゼフィの前に行くと、体格差を気にすることなくぐいっと見上げ、「大っ嫌い!!」と吐き捨てた。
そしてくるっと方向を変える。
「ユイ」
ロックオンされたユイはビクッと体を跳ねさせた。
「は、はい…」
返事をしながら、隣に来ていたビゼにくっつく。ビゼはユイの手をしっかりと握った。
「服、勝手に借りたから」
「…どうぞ」
小さく口元だけを動かして答えるユイから視線を隣に滑らせたメアリさんは、「あんたは過保護すぎるのよ…!」と、ビゼを一瞥して再び2階へ上がって行った。
嵐のようだ…。
思わず大きく息を吐くと、堪え切れない様子でゼフィが笑い出すした。
「すげえわ。あんな強烈なの、久しぶり」
…俺だって。
今になって、ぶたれた頬がじんじんしてきた。
少年たちはまだ固まっていた。初めて交わした言葉があれでは今後が思いやられる。
「お、修羅場は初めてか?」
そう言ってゼフィはユイの肩に軽く手を置いたのだった。
皆が「メアリさんを追いかけろ」と言う。
「出て行かなかったんだから、待ってるに決まってるだろ」
俺だってそれはわかってるが、行きたくない。もう怒られたくない。
そう言うとユイが控えめに「行かなかったら、尚更怒るんじゃないの?」と述べた。
正論である。
仕方なく俺は階段を上がった。蓑虫のような恰好で女性の眠る部屋に行くのはどうかとも思ったが、いたしかたない。
ノックをしたけれど、返事はなかった。
「入るよ?」と、一声かけて扉を開ける。
弱い魔法の光で照らされた薄暗い室内は、ユイが術の効果を高めるために焚いた香の匂いで充満している。嫌な匂いじゃないけど、甘ったるい。
ベッドの脇に椅子を置いて、メアリさんは座っていた。人間の姿のままだった。
眠るホホは穏やかな顔つきだ。先程の怯えた表情が頭の中に焼き付いていたので、少し安堵する。
「この子は私が見てるから」
さすがのメアリさんもここでは声をひそめた。だが、まだ声色は硬い。
伝えるべきことは、なんとなくわかっていた。昨夜ホホが俺に伝えてくれたように、俺も自分の気持ちを素直に言えばいい。
「メアリさん」
俺は膝をついて、彼女と視線の高さを合わせる。こちらを向いてくれなくても構わない。
「さっきは助けてくれてありがとう」
久しぶりに見た人間の姿のメアリさんは昔と全く変わっていなかった。彼女は俺が生まれるちょっと前からうちにいる。俺の方がずいぶん大きくなってしまった今でも、メアリさんはお姉さんのような存在だ。
「いつも心配してくれて、ありがとう」
今までこんなの言ったことがなかった。でもずっと感謝していた。
メアリさんはホホの方を向いたままだった。それでもいい。何か反応が返ってくることなど期待していない。
きっとこれ以上俺と話をする気はないのだろうと判断し、立ち上がる。
ドアノブに手を掛けた時だった。
「アル」
驚いた。名前を呼ばれたのは7年ぶりだ。
メアリさんは体ごとこちらを向いていた。
「私ずっと、あんたは気づいてないふりをしてるんだと思ってた」
「…何の話?」
俺の問いかけには答えずに、続ける。
「憶えていないのね、何も」
責めている風ではない。ただ確認するような口調だった。
メアリさんは再びホホの方に向き直る。
「…何かあったらすぐに知らせるわ」
それで最後だった。
俺は仕方なく部屋を出る。だが、気になって仕方がない。
メアリさんは何のことを言っているのだろう…?
悶々としながら1階に下りると、3人はお茶を飲んでいた。
俺の姿を見てゼフィは「怒鳴り声が聞こえなかったな」と、口の端を上げる。
こんなにもやもやするのなら、怒鳴られたほうが幾分かましだったかもしれない。
俺が空いた椅子に掛けると、ビゼが俺の分を注いで渡してくれた。
「ありがと、ビゼ」
暖かいお茶がおいしい。ホッとする。俺は一気に半分ぐらい飲んだ。
一息ついた様子の俺を見て、ゼフィはユイに話しかけた。
「さあ、アルも戻ってきたぞ。さっきの続きを頼む」
そういや、メアリさんが乱入してくる前にユイは何か言おうとしていた。
ユイの方を見ると、なぜかその隣でユイよりもそわそわしているビゼが目に入る。
ユイは自分のポケットを探り、そこから何かを取り出した。そして机の上に置く。
「どうしても調べてみたくて、黙って持って来ちゃってたんだ」
そこには真っ二つに割れたホホのかけらの他に、もうひとつ黒いかけらが増えている。
「これ、…アンナの?」
ユイは頷いた。そして今度は小さく折りたたんだ数枚の紙を別のポケットから取り出す。
「これが石の分析結果だよ」
俺たちの前に開いて置かれた紙を見て、思わず舌を巻く。
「…すげえな」
ゼフィも感嘆を漏らした。
ユイはとても細かく調べていた。中央から送られてきた報告書よりもずっと詳細だ。
でも気になることは…、「どうして言わなかったんだ?」
調べるな、なんて言わないのに。
するとユイは俯いて「なんか…言いづらくて。恥ずかしかったし、うまく結果が出るかもわからなかったから」と小声で答えた。
思春期の若者らしい答えに、思わず苦笑が漏れた。
「黙って持ってきて、勝手なことしてごめん」
視線だけをわずかに上げたユイは、いたずらを咎められた子どもの様だ。
自信がないんだろうな。弟を見ながらそう思った。
「謝るな」俺は静かに言う。「謝るようなことじゃないだろ。堂々としてろ」
「そうだ。むしろありがたいくらいだ」
書類を手にしながらゼフィは笑う。
俺たちの言葉にユイは少し頬を緩める。
ビゼも安心したようにお茶を一口飲んだ。ビゼはこのことを黙っているように言われていたのだろう。
だがユイはすぐに表情を引き締めた。
「お願いがあるんだ」
彼は机の上に転がっていた、ホホの黒曜石を手に取り、はっきりとした口調で言った。
「これを僕に調べさせてほしい」
ユイはこれでもここぞという時に強い。子どもの頃からそうだった。
「一晩で結果をまとめる」
急にスイッチが入るのだ。先程の様子とは打って変わって、しっかりとこちらを見据えている。
「お願い。今度は必ず役に立つから」
よっぽどホホが好きなのか、さっき何もできなかったことが悔しかったのか。
…両方だな。
ユイはユイにしかできない方法で、ホホを守ろうとしている。
「ゼフィ」俺は上司のほうへ体を向けた。「ユイにやらせてやってくれないか?」
するとゼフィは二つ返事で了承した。「こっちからお願いしたいと思ってたくらいだ」
だが、「今晩はもう寝ろ」というのが条件だった。
一刻も早く取り掛かりたいユイは不満気だったが、「疲れている時はどうしてもミスが出るからな」と、ゼフィが諭す。その横顔が本気のビジネスモードになっていて、俺はこっそり驚いていた。
「…うん。そうだね」
今、ユイに求められているのは正確な分析結果だ。それがホホにかけられている魔法を解く手がかりになる。
ユイも頭では理解できているだろうが、どうしても顔にもどかしさがにじんでしまっていた。
それを吹き飛ばすように、ゼフィは「大丈夫」と言う。
「明日から会議だ。ロドリスも出席するから、アンヴァンだって忙しい。こっちに構ってる暇はないよ」
「ゼフィも会議だろ?」
俺の言葉に、ゼフィは渋面になる。彼はああいう場が苦手だ。めんどくさいらしい。
明日の昼間は俺も店があるので、結局、夜に再び集まることになった。明日の朝にはカッシュが戻ってくるし、ユイはそれまでに石を調べる。申し訳ないけど、ホホにはそれまで眠っていてもらう。
「お前らもさっさと寝ろよ」
ゼフィは俺とビゼにそう言い置くのを忘れなかった。
その夜、俺は初めて森の家に泊まった。
小さなソファに横になると、眠気はすぐに襲ってきた。
それでも、夢うつつの状態でメアリさんの言葉が脳裏に浮かぶ。
「憶えていないのね、何も」
人の記憶はもろい。不確かで、頼りない。
そのことをよく知っていたはずなのに、メアリさんに言われて俺は動揺した。
自分がそうはならないとでも思っていたのだろうか。
俺は…一体何を忘れてしまっているのだろう?
考えようとしてみたけれど、もう無理だった。今日はへとへとだ。
思考を放棄すると、眠りに落ちるのはあっという間だった。