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猫とカラスと雨の森  作者: 夏川サキ
episode 1 朝靄の君
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2

 たわしを持つ手を一心不乱に動かし、汚れた皿を次から次へと洗う。

 何も考えずにひたすら目の前の汚れものだけと格闘していくと、頭の中が段々すっきりしていくのは心地よかった。

 皿洗いは好きだ。店を手伝い始めて、そのことに気が付いた。芋の皮むきも、キャベツの千切りも好きだ。

 どうやら僕は黙々と集中してやる作業が合っているらしい。

 店で働くようになってまだ2か月だが、新しい発見がいろいろあって、それは結構おもしろい。



 慌ただしい昼を乗り越えて、店内にいる客はもうまばらだった。

 僕は洗い物をしながら、この後の閉店作業の段取りを考えていた。

 ここは霧雨亭。小さな大衆食堂だ。

 そして僕の実家でもある。

 祖父の代から続いていて、今の3代目店主である僕の兄は、2年前に父が亡くなったのを機に店を継いだ。

 祖父が港のすぐそばに店を構えたのは、船乗りや漁師、港で働く人たちにしっかり朝ごはんを食べてもらいたいと思ったからだそうだ。だからうちの店の営業は朝と昼だけ、夜はやっていない。

 庶民的なメニューで安さとボリュームが売りだ。まあ味もそんなに悪くないとは思うけど。

 朝食時や昼食時には小さな店が客で溢れかえっているので、まあそこそこ繁盛しているようだった。


「ごちそうさーん」

 客席から声が掛かる。

 人見知りの僕は極力人前には出ない。そのことは兄も了承済みだ。

 しかし今、兄は港に行っていて不在だった。すぐに帰ってくると思うが、とりあえず今はいない。

 僕が行くしかなかった。

 でも声で相手が誰かわかっている。

 濡れた手を拭いて厨房を出ると、昔からの常連のべジェットじいさんが待っていた。

「おや、ユイが出てくるとはめずらしい」

 じいさんは細い眼をいっぱいに開いた。

「今日もべっぴんさんだ」

 笑いながら言うじいさんは昼から酒を飲んでいて、顔は真っ赤だった。ちなみ僕はエプロンに三角巾に大きなマスクといった姿なので、ほとんど素顔は見えていないと思う。

 カウンターにお代を置くと「おいしかったよ。ごちそうさん」と言い、割としっかりとした足取りで店を出て行った。

 じいさんはいつもちょうどのお代を置いていってくれる。そして僕のことも他のお客さんよりは知っていた。


 僕はお代を持って、厨房の中に入ろうと身を翻した。

「おい、あれが森の魔女か?」

 本日の最後の客と思われるふたり組の若い男が、窓際の席からこちらをちらちらと伺っている。

 僕はため息を吐きたいのを我慢して厨房に戻った。お金は厨房にある白い缶の中に入れる。そして僕はお盆を持ってもう一度客席へ向かった。

 べジェットじいさんが座っていた席を片付けていると、ふたり組が話しているのが耳に入ってきた。

「え?若いじゃん」

「そりゃそうだろ。ここの主人の妹らしいから」

「顔、見えねえかな」

「いつもあのでかいマスクしてんだよ」

 明らかに話題は僕のことだ。だけど僕はあくまで聞こえていないふりをする。早く厨房に引っ込みたくて素早くテーブルを拭いた。

 さ、戻ろう!と、お盆を持ち上げると「あの、」と声をかけられた。

 一瞬無視しようかと思ったけれど、兄の大事な店の評判を落とすわけにはいかない。僕はお盆を持ったまま客のほうへ向き直った。

「……何か?」

 小さな声がマスクでさらにくぐもる。だがマスクは仏頂面も隠してくれるので、僕にとっては必需品だ。

 左側の赤毛の男が壁のメニューを指さしていた。「あれって、君のこと?」

 僕はメニューを見ることもなく言った。「はい」

 すると男ふたりは「ほら!」「やっぱり!」となぜか嬉しそうな声を上げる。

 話は済んだようなので僕がそのまま立ち去ろうとすると、「あ、待ってよ」と今度は右の茶色い巻き毛のほうが引き止める。

「ねえ、そのマスク、ちょっと外してみてくれない?」

「……風邪気味なので」

 僕はベッタベタの嘘を吐いた。

 すると巻き毛は立ち上がってこちらに近づいてくる。僕は両手を最大に前に伸ばし、お盆を盾にして巻き毛から距離を取ろうとした。

「ちょっとだけでいいから、ね?」

「無理です」

「お願い」

「だめです」

「頼むよ」

 しつこさに僕が顔をしかめると、ふいに巻き毛の後ろに大きな影がかかった。

「お客さん困りますねー。弟は気管支が弱いんですよー」

 僕に負けず劣らずのベッタベタの嘘が降ってくる。その声に巻き毛は顔を引きつらせて振り返った。

 そこにはやたらと体格のいい男が立っている。

 この店の主人、アルフレド。通称アル。僕の兄だ。

 長身のアルに見下ろされて小さくなった巻き毛の代わりに、赤毛が口を開く。

「…え、今、弟って?」

「ユイ、それ厨房に持っていってくれる?」

 赤毛の言葉を完全に無視して、アルは僕に微笑んだ。

 僕は小さく頷いて足早にその場を去る。

 厨房に入った途端、額から汗が吹き出した。そして大きなため息がやっと、胸から吐き出されたのだった。



 僕の本名はユイル。みんなはユイと呼ぶ。

 霧雨亭の前店主の息子で、現店主の弟だ。

 そう、男である。

 ただ、マスクを外した僕を見ても一発で僕を男と見抜ける人はそうそういないだろう。

 僕はいつも女の格好をしている。自分で言うのもなんだけど、それはそれは違和感のない完成度だ。

 なぜこんなことになっているか、一言で言うと家業を継いだからだ。

 母方が魔女の家系だったのだ。僕は幼い頃から魔女として育てられた。


 霧雨亭の2代目主人だった父は、魔女だった母と結婚した。

 このザッカリーの町は古より魔女文化が深く根付いた土地だ。母の家は代々魔女の家系で、魔女を生業としながら暗がりの森に住んでいた。

 父と結婚した母は森から町へ引っ越してきた。まもなく兄が生まれ、その8年後に僕が生まれる。その間母は食堂のおかみさんとして働きながら、魔女の仕事も続けていた。

 ところが僕が1歳になる少し前に、母は亡くなってしまう。事故だったそうだ。

 そしてふたりの幼い息子を抱えて悲嘆に暮れる父の前にやって来たのが、母の母親である祖母、森の魔女だった。

 祖母は元々母の結婚に反対だったので、それまで僕たち家族との交流はほとんどなかったそうだ。突然やってきた祖母は僕を魔女にすると言って連れて行ってしまった。


 祖母は家を重んじる人だった。

 一人娘の母には家柄的にも能力的にも優れた魔法使いと結婚して、家を守ってほしいと思っていた。

 しかし母が選んだのは魔力なんて微塵も持っていない料理人の父だった。

 しかも母は若くして死んでしまい、残された子供は男の子がふたり。

 そして魔力を持っていたのは弟だけ。

 だから祖母は弟を、つまり僕を魔女として育てることにしたのだ。これまで代々受け継がれてきた「森の魔女」を絶やさぬために。

 父は僕を手放すまいとしたそうだが、彼に拒否権などなかった。祖母はとても優秀な魔女だったので、赤ん坊ひとり奪うことなど簡単なことだったのだ。


 祖母にとっては、僕を完璧な魔女に育てることがすべてだった。

 だから僕は森で、あくまで女の子として、一人前の魔女になるべく大変厳しくしつけられた。

 しかし、世間から隔離されているわけではなかったから、いつの頃から自然に自分が男であることも知っていた。


 祖母は3年前に亡くなった。それ以後も僕は森で暮らし、魔女としての仕事を受けている。魔女の仕事は多岐にわたるが、僕は主に薬作りで生計を立てていた。

 祖母がいなくなって、僕が「魔女」でいる必要はなくなった。誰も僕に「魔女」でいることを強要しない。

 しかし長年にわたって形成されたスタイルを変えるというのは案外難しいことだった。今すぐやめても構わないのに、なんとなくやめられない。

 というか、魔女以外に僕ができることなんてなかった。

 格好だって、女物の方がしっくりきてしまう。

 魔女の仕事をする上で、「森の魔女」という老舗の名前の力は絶大だった。僕が17という年でも一人でやっていけているのは名前の力と、人間性はともかくその腕だけは一流であった「先代の森の魔女」の孫であるという事実によるところが大きい。

 それが僕の現実だ。

 ただ、最近身長がすごい勢いで伸びていることだけは気がかりだった。うちの家はガタイのいい家系なのだ。僕もそのうちアルみたいにごつくなってしまうかもしれない。そうなると今の格好はちょっとできない。アルが女装しているところを想像すると少し、いや、かなりつらいものがある。

 とりあえず、母親似の女顔であったことはせめてもの救いだと思う。



「すまん、ユイ」

 厨房に入って来るなりアルがその大きな体を半分に折った。

「大丈夫だよ。あれくらい」

 僕は鍋を洗う手を休ませることなく言った。

「いや、おまえに店を手伝ってもらう上での約束だから」

 約束。それは、「接客応対はしない」というものだった。

「さっきの人たち帰ったみたいだね」

 アルは両手に皿を持っている。時間的に最後の客だったので、今日はこれで店じまいだろう。

「ああ。多いな最近、ああいうの」

 皿を流しに置きながら、アルはため息交じりに言った。

 ご近所さんたちやべジェットじいさんのような古くからの常連さんはうちの事情をある程度知っている。だから僕が店に出ていても静かに見守っていてくれる。いや、事情を知っているだけにむやみに触れられないのかもしれない。

 だけど若い常連さんたちは僕の存在そのものを知らないので、興味津々のようなのだ。

「ほら、私、かわいいから」

 冗談めかすとアルはやれやれという風に口をへの字に曲げる。

 ちなみに僕は、声を出すときは自分のことを「私」と言う。祖母は僕が「僕」と呼ぶことを決して許さなかった。今もその名残で僕は「僕」と言えない。

 それすら変えられない。そんな自分はあんまり好きじゃない。

 アルは渋い顔で「笑いごとじゃないよ」と呟いた。

 僕としてもお客にちょっかい出されるのは迷惑だったが、普段はアルががっちりガードしてくれていた。

 数か月前、父の代から店を手伝っていたルキさんが高齢のために退職した。アルは15の頃から料理人として修業をしていて、店を継ぐ前は大きなレストランや商船の厨房で働いていた。アルは腕利きの料理人であるが、ひとりでは店を回せない。新しい店員を雇うのかと思っていると、兄は「ユイ、ちょっと手伝ってくれない?」と声を掛けてきた。

 人見知りの僕は「裏の仕事だったらいいよ。お客さんの前には出ないよ」と言った。

 僕は本業の方でもなるべく人前に出ない。出たくない。なので助手のビゼがお客さんと僕の窓口になっている。

 アルはそれでいいと言い、僕は実家の手伝いをすることになった。

 引き受けたのは単なる気まぐれだった。アルの助けになりたかったというのも、もちろんあるが。

 その時はこんな事態が起こることをふたりとも想像していなかった。僕もアルも、世間知らずでのん気だったとしか言いようがない。今回のことで、うわさ話というものは爆発的に広まっていくということを僕は学んだ。

 人々は霧雨亭の新しい店員が「森の魔女」で「店長の妹(?)」であることをいつの間にか知っていた。

 今日のように素顔を見たいと言ってくる人もいるし、僕のことを女の子と思って誘ってくる人もいた。実は男だという話を聞きつけて性別を確かめようとする人もいる。

 僕は自分が男であることを積極的に世間に知らしめようとは思っていないが、かといって隠しているわけでもなかった。この先、絶対に隠し切れない時が来ると思っているからだ。だから、言ってしまったほうがいいような状況なら言うつもりだし、そのことはアルにも伝えていた。

 だけど人前に顔をさらすことはどうしても抵抗がある。隠すことで余計に人の好奇心を刺激することはわかっていたが、それだけはどうしようもなかった。

「あ、表の札替えてなかった」

 アルが呟いた。

 一見おおらかでどこかおとぼけな雰囲気すら漂う兄だが、妙に鋭く、聡い人でもあった。今日もこれまでも、僕はいつもアルに助けられている。だが店の札を換えることはよく忘れるのだ。

「私が行くよ」

 店の外に出ると、海から吹く風が僕のエプロンを大きく煽った。それでも春のぽかぽかの陽気の中では寒くもないし、海風も日差しもちょうどよくて気持ちいい。

 僕は店の入り口に掛かっている「営業中」の札をひっくり返して、「準備中」にする。

 今日も1日よく働いた。食堂の仕事は見た目よりもかなりの重労働だった。これも実際に働いてみてわかったことだ。

 僕は大きく伸びをする。

 朝の靄が嘘のようだった。すっかり晴れて、目の前には澄み切った青空が広がっていた。

 僕の頭の中にふと彼女が思い浮かぶ。

 …まだ眠っているのかな。

 早く片付けを終わらせて、様子を見に行かなくちゃ。

 そう思うと気が急いてきて、僕は足早に店内に戻るのだった。


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