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猫とカラスと雨の森  作者: 夏川サキ
episode 3 雨があがれば
18/33

3

 店内は一気に変な緊張感に包まれた。

 全員の注目が俺に集まっている。

 すこぶる居心地が悪いが、もう引き返せない。言ったは言葉取り消せないし、取り消すつもりもない。

 ダメ押しのために、俺はホホの肩に回した手に力を入れて、彼女の体を更に引き寄せた。

「本当ですよ」意識してさらっと言ってみる。「彼女は俺の婚約者です」

 決定的なセリフに目の前の男は固まった。

 さあ、どう来る?

 ついでに隣のホホまで固まっているが、それはまあいいとしておこう。

 ただ、振り返るのは怖い。

 だって背中に感じるから。ユイの突き刺さるような視線を。

 それでもちらりと見てみると、彼はただでさえ大きな目を、更にこぼれんばかりに見開いていた。覚悟していたのにどきりとする。店で常時装備しているでかいマスクが、目だけを余計に際立たせていた。

 …弟よ、そんな顔しないでくれ。


 なぜこのような事態になっているかというと、話はほんの数十分前にさかのぼる。

 雨が変な風を呼んできたのかもしれない。

 あれよあれよという間にやって来た嵐に、誰も心の準備なんてしていなかった。



 あさってから始まる国際会議のせいで、うちの店も数日前からじわじわと忙しくなってきていた。

 隣町がメイン会場となって貿易関係の協議が行われるらしく、世界各国から国の要人やら有力商人やらなんやらかんやら、この周辺に集まってきている。

 ここザッカリーは当初、会議の会場には当たっていなかった。しかし隣町には宿泊施設が少ないので、この町で宿を取っている人も多い。

 そう、当初は当たっていなかったのだ。

 忙しく動き回りながらも、ついさっき囁かれた言葉が俺の頭の中をぐるぐるしている。

「ロドリスが来るぞ」

 べジェットじいさんはそう教えてくれた。

 じいさんは常連客であり、同じ機関の人間でもある。カッシュと同じ倉庫番だ。そして現役の諜報員だった。

 俺は少し前に、バズ・ロドリスという人物と、彼の会社であるロドリス商会の調査を彼に頼んでいた。武器関係などを扱うロドリス商会は、ホホがここに来る前に用心棒をしていた会社だ。

 目的はホホの証言の裏を取るためだった。そして彼女の話が本当であったことはすでに明らかとなっている。いくつか気になることはあったが。

 べジェットじいさんにはホホが竜だという部分を除いてほぼ全て話していた。付きまとわれていたことを知っているので、今でも定期的に報告を入れてくれているのだ。

 事態が急展開したのは昨日のことだという。

「大雨のせいで、北の方へ向かう道が土砂崩れを起こしてる。それで会場がいくつか変更になった」

 にぎわう町にも、お天道様は容赦ない。天気がよかったのはカッシュたちと飲んだ日だけで、その後は振ったりやんだりのぐずついた天気が続いている。

 ロドリスが会議に出席することは把握していた。しかし宿は他所の町に取るようだったので、気に留めていなかったのだが…。

 予想外の展開に、正直判断しかねていた。

 ホホをどうすべきか。会議の期間中は森の家に向かわせたほうがいいのか。そして何より本人に言うべきか。

 ザッカリーの町は広い。こんな場末の食堂にやってくる確率なんてものすごく低いだろうし、会議はたった3日間しかない。

 あまり気にする必要もないのかもしれないけど…。

「アル、ごはん食べるでしょ?用意するよ?」

 厨房からユイが顔を覗かせる。

 いつの間にか朝の営業の最後の客が帰っていた。

 こんなにぼんやりしていても、体は動くものらしい。

「うん、お願い」

 人が動くと、物も動く。当然金も動く。

 ザッカリーのにわか好景気はユイの本業にまで及んでいた。魔法薬の注文が次々入っていて、ユイは食堂を閉めるとすぐに帰って行く。ビゼは連日大鍋を焚いているそうだ。

 忙しいなら無理に来なくてもいいと言ったのだが、ユイは「大丈夫。若いから」と生意気な返しをしてきた。

 今、ホホがいないと店は結構きつい。ただでさえお客さんが増えているのに、ビゼの応援は期待できないし、ユイも今後どうなるかわからない。そしてここぞという時のカッシュでさえも今は呼ぶことができない。町にいないからだ。

 そんなわけで、すぐさま避難しろと言えない事情がそこにはあった。

 …とにかく、ユイには言っておこう。というか、相談してみよう。

 そう思って厨房に向かおうとした時、入口の扉が開いた。

「また雨降ってきたよー」

 どうやら一歩遅かったらしい。買出しに出ていたホホが帰ってきた。

「おかえり。ありがとね」

 俺はそう言って荷物を受け取ろうとする。

 すると後ろ手に扉を閉めようとしていたホホが何かに気が付き振り返った。そして再び扉を開けた。

「いらっしゃいませ」

 にっこり微笑むホホ。

 俺はというと、入ってきたその人を見て顔をしかめた。

 しまった。札を準備中にするのを忘れていた。

 まあ準備中だろうがこの人は関係なく入って来るだろうけど。

「こんにちは」ゼフィは礼儀正しくホホに挨拶をする。

「よう!来たぞ」俺には普段通りの挨拶だ。

「来たぞ、じゃない。これから休憩なんだけど」

「そうか。じゃあちょうどいいな。ゆっくり話ができる」

 やっぱりね。

 俺は軽く息を吐いた。

「アルのお友達?」

 尋ねるホホに「ああ」と短く返事をした。そして今度こそ買い物かごを受け取る。

「髪が濡れてるよ。拭いておいで」

「あ、うん。ありがとう」

 ホホはゼフィに会釈をすると奥に入って行った。

 俺は厨房のユイに「ホホの分のご飯も用意して」と叫びながら表の札を替える。

 戻って来ると、ゼフィはにやにやしていた。

「顔が気持ち悪い」

「ひどいな。男前にむかって」

「……何が言いたいんだ?」

「うわさ通りの美人だな。俺の好みだ」

「手、出すなよ」

 顔をしかめると、ゼフィはますます気持ち悪い顔をする。

「アルは優しいな、と思ってさ」ほら、こういうところが好きじゃない。「で、俺にはタオル貸してくれないの?」

「あんたは濡れても風邪なんかひかないだろ」

「お前、俺の扱いだけ異様に悪いよな」

「忙しいんでしょ?こんなとこで油売ってていいの?」

 ゼフィは会議に主席する。それに他国から大勢の人が押し寄せる今は、機関の人間も大忙しだった。他部署から応援も呼んでいたし、べジェットじいさんも老体に鞭打って働いている。カッシュはどこかしらに行かされ、俺のところにもそっちのお客さんが朝から何人も訪れていた。

 それをゼフィが全てまとめているのだ。

「ザッカリーに来てるのに霧雨亭に行かないなんてことがあるわけないだろう」

 そう言うとゼフィは俺を置いてさっさと厨房へ行ってしまう。

「やあ!ユイ!」

 ゼフィの声のでかさにビビったユイは、肩をびくっと震わせた。「あ…、ゼフィ」

「元気だったか?」

 ずかずかと近づいて、ガシガシと頭をなでる。

「う、うん…。元気だよ」

「相変わらずちっせえ声だな」

「そ、そうかな?」

「でも身長は伸びたんじゃないか?」

「そ、そ、そうかも…」

 ユイは完全にされるがままになっている。

 でもユイはゼフィのことは嫌いじゃない。小さい頃から何度も会っているから、これでも慣れている方だ。声が大きいのがちょっと怖いらしいけど、地声だから仕方がない。

 そんな二人のやり取りを横目に、俺はユイがしていたご飯の準備を手伝う。

 するとホホが戻ってきた。その手にはタオルが握られている。

「どうぞ」

 やっぱり、ゼフィに持ってきたか。

「ありがとう」

 よそ行き声のゼフィはそのまま自己紹介をはじめた。それくらいはかまわないが、目を離すことはできない。ろくなことにはならないからだ。

 ふと横を見ると、ユイはゼフィの分も食事を用意している。

「…」

 うちの弟は本当に優しくて気が利く。


 その時、店の扉が開く音がした。


「私行くわ」

 ホホが出ようとしたが、それを制す。「ううん、断るから俺行くよ」

 厨房を出ると、そこには身なりのいい、30代くらいの男がふたり立っていた。知った顔ではない。

「すいません、今準備中なんで、」

「こちらにホホ・カポーティという女性がいますね?」

 俺のセリフにかぶせ気味に口を開いたのは背の高い方だ。

「…どちら様ですか?」

 確信を持った高圧的な物言いに警戒する。

「エッジ」背の低い方がそれをたしなめた。そして俺に向かっては愛想のいい笑みを浮かべる。「すみません。急にお邪魔して」

「…いえ」

 そう言いつつ、俺は背の高い男から目が離せなかった。無表情な男も俺をじっと見ている。

「私はバズ・ロドリスと申します」

 その発言に、俺はすぐさま小さい方に顔を向けた。

 この人がホホに言い寄ってたていう…。ていうか、本当に来た。

 俺と2歳しか違わないはずだが、そうは見えなかった。雰囲気に貫禄がある。

 そのロドリスの視線が俺の背後に移る。

 俺は振り返った。

「ホホ、久しぶり」

 そこには凍り付いたように立ち尽くす彼女がいた。

 口をきゅっと結んで、水色の瞳がじっと目の前の男たちを捉えている。

「急にいなくなったから心配したんだ」

 一歩前に出ようとしたロドリスを遮るように、俺は体を少しだけ横にずらした。

 彼が再び俺に視線を向けた。そして一瞬探るような目つきをする。

「あなたが…アルさん?」

 どうやらむこうも色々調べてきているらしい。

「はい。そうですが」

 きっぱりと返事をすると、今度は遠慮なく値踏みするような視線を寄こした。

 そして、ロドリスはためらいがちに訊ねた。

「あなたと…ホホが婚約中というのは本当ですか?」

 …その噂まで知ってるのね。そして婚約中って話にまで膨らんでるのね。

 頭を抱えたくなるのをこらえてちらっとホホを見ると、戸惑った表情がそこにはあった。頼りなげな瞳が揺れている。

 だから、心はすぐに決まった。

 ユイ、許せ。

「ええ、そうですよ」

 きっぱりと宣言して、俺は目をぱちくりさせているホホの肩を抱いた。



 ホホの肩が、わずかに震えているのがわかった。

 俺は大丈夫だよ、という気持ちを込めて、その手に力を入れた。

「合わせて」

 ホホにしか聞こえないようにささやくと、彼女はためらいつつも俺を見上げ、目で頷いた。

「ホホ」ロドリスの呼びかけにホホの体はびくっと反応した。「本当かい…?」

 ホホは小さく頷き、「本当です」と、かすれる声で告げた。

「そ、そう…」ロドリスは目に見えて落胆した。「…あ、お、おめでとう」

「…ありがとうございます」

 ホホは視線を床に落としたままだった。

 一瞬気まずい沈黙が流れる。が、ロドリスはすぐにそれを破った。

「…彼のどこが好きなのか、聞いてもいい?」

 自ら傷口えぐるような質問だな。

 だけどホホは真剣な顔付きで少し考えた後、俺を見上げた。「全部、です」

 俺の顔をじっと見ながら、彼女は続けた。

「アルは…優しいし、面白いし、物知りだし、料理が上手だし…それに、」俺の手に視線をやる。「手が、好きで…」

 とっさに答えているのだろうけど、なんだろう。結構恥ずかしい。

「そ、そうか。うん。よくわかったよ。ありがとう」

 放っておくと、延々と俺を褒めちぎりそうなホホをロドリスが止めてくれた。

「あ、そうだ」ロドリスは無理やり気を取り直して声を上げた。「君にまだ報酬を渡してなかったね」

「いえ、ご迷惑おかけしましたし、それはもう結構ですから」

「そうはいかない」

 ロドリスは語気を強めた。

「払うものはちゃんと払うのが俺の主義だから。今日はこの後用があるんで、明日エッジに持ってこさせるよ」

「…ありがとうございます」そして少しためらってから付け加えた。「それから…、あの時は本当にごめんなさい」

 ホホは深く頭を下げる。殴ってしまったことを謝っているのだろう。

 ロドリスは少しきょとんとした様子を見せたが、ふっと笑顔を浮かべた。「いや、気にしないで。君が幸せなら、それで満足だから」

 その様子に、それまでもそこはかとなく感じていた違和感が強まった。

 何か、おかしい。

「それじゃあ、失礼します」

 会釈を交わして、もう一度ホホを見たロドリスの表情は少し切なかった。

 エッジと呼ばれた背の高い男は従者だろう。彼は扉を開け、ロドリスを先に通した。

 ふいにエッジがホホに視線を投げる。

 その瞬間、ホホの体がまた硬直する。

「ホホ?」

 俺が顔を覗き込むと、ふっと強張りが溶けた。

「大丈夫?」

「うん…」

 そう言ったホホの顔は青ざめていた。

 ガシャン、と扉が閉まる。と、同時にカウンターの奥で様子を見ていたユイとゼフィが飛び出してきた。

 俺はホホの肩を抱いていた手をはずす。

「ホホ」

 そっとユイがホホの手を取った。

「ユイ」ホホは弱々しく微笑んで見せる。「大丈夫だから」

「うん…」

 ユイは軽く唇を噛む。悔しそうな表情だった。

「ユイ、ホホを奥に連れてってあげて」

 少し休ませた方がいいだろう。

 その時の、俺を見上げたユイの目は複雑だった。

 何か言いたいことがあるけれど、言えない。うまく言葉にできない。そんなかんじ。

「頼むね」そう言って俺は弟の頭にポンッと手を置く。

「…うん」

 すっきりしない表情で、ユイはホホを連れて母屋の方へ行く。

 思わず、小さな息が漏れた。

 ふと、視界の隅に黒いものがちらつく。

 …今日はオールスターだな。

 そう思いながら窓に近づき、俺はコツコツとガラスを突く。

 窓の下に隠れていたビゼがそろそろと顔を上げる。ばつの悪そうな表情を浮かべた。

 彼は扉に回って中に入ってくる。

「なんで隠れてんの?」

「いや、なんか入りづらくて…」

 ビゼは配達の帰りに寄ってみたそうだ。

 何やら口の中でもごもご言っていたけど、上目使いに俺を見上げてくる。「おれがちょっと来ないうちにそんなことになってたのか?」

 いつものことだけど、ビゼはストレートに質問をぶつけてくる。それが清々しい。

「なってないよ」苦笑とともに吐き出す。「あいつをかわすための嘘だ」

「あの男がホホのストーカー?」

「そうだよ」

「そっか…」

 ビゼは呟くように言うと、母屋へ通じる廊下の方に目をやる。

「ビゼ、ちょっと時間ある?」

「うん。大丈夫だけど」

「じゃあ、ユイたちのところに行ってやってくれる?」

 俺の言葉にビゼは「なんで?」というような顔をする。だから更に言葉を重ねた。

「お前がいると安心するからさ、ユイもホホも」

 するとビゼの目に力がこもった。

「わかった」

 奥へ向かう彼の小さな背中が心強い。ホホのことはふたりに任せよう。

 俺にはまだ一番厄介な人物が残っている。

 深く息を吐くと、俺はゼフィの方へ向いた。


 いつの間にかホールにメアリさんがいた。隅に座っているのが目の端に映る。

 メアリさんはじっと店の入り口を見つめていた。



 リビングにはやわらかい魔法の明かりがふんわりと浮いている。

 俺は魔法が使えない。特に不自由はしてないが、この明かりの魔法と火の魔法だけは使えたら便利だろうなと思う。

 ホホは出窓に座って、しとしとと降り続く夜の雨を見つめていた。膝には読みかけの本。

 彼女と俺を本格的に近づけたのは、本だと思う。読書という共通の趣味があったのだ。しかも本の好みも似ていた。

 この家には親が残した本が多数ある。このリビングの壁も本でぎっしりだし、1階の奥にある父の部屋なんかまるで書庫だった。

 好きに読んでいいと伝えた時、ホホはまるで子どものように目を輝かせた。

「ホホ」

 彼女は俺が手にしていたマグカップを見ると、柔らかく微笑んだ。「嬉しい。ありがとう」

 出窓から飛び降り、ソファへ移る。俺もその隣に座った。

 渡されたマグカップを両手で包み込むように持つと、ホホの顔に湯気がかかる。中身は温めたミルクだ。

 一口飲んだホホの表情がほぐれる。

「おいしい」

 ただのミルクだけど、ホホはとてもおいしそうに飲む。俺も自分のカップに口を付けると、ふと思い出したことがあった。

「ユイが小さい時にさ、ミルクを飲むといっつも口の周りを白くさせるんだ」

 そう言いながら、ふと感じたどうでもいいようなことを気軽に話せる相手が傍にいるのは、なんだかいいなあと思った。

 彼女は「なるよね、ミルクは。ユイ、かわいかったでしょ?」と笑った。

「そうなんだ、ものすごくかわいかった」

 昔を思ってしみじみと呟くと、「アルとユイは本当に仲良しね」と言われてしまう。

「まあ、うん。仲はいいね」

「ケンカなんてするの?」

 俺たちは喧嘩らしい喧嘩をしたことがない。

 それを伝えるとホホは目を丸くした。「すごい」

「年が離れているから」

 俺はずっとユイの母親がわりでもあったし。

「うちも弟と年が離れてるけど、しょっちゅケンカしてるよ」

「ビゼとやってるみたいに?」

「もっとひどい」

 笑い合いながら、少しうらやましいと思ってしまった。

 ついでに思い出してしまったのだ。ユイが生まれた時に、弟が大きくなったら一緒にしようと思っていたことが色々あったことを。それらもケンカも、結局しないまま今日まで来てしまった。

「アル」

 少し沈んでしまった思考が、ホホの声で浮き上がる。

「ん?」

 彼女は体を少しこちらに向けた。

「今日は本当にありがとう」

 俺は苦笑する。「ホホ、それもう散々聞いたから」

「うん。でも言いたくて」

 ホホはあの後すぐに「もう大丈夫」と笑った。しっかりお昼ご飯を食べて、午後からも元気に働いた。いつもの彼女を演じていた。そのことに俺もユイも気づいていた。

 ユイは帰りがけに俺だけに言った。「ホホ、幻影に襲われた時と同じ顔をしていた」

 今日の様子からしておそらく、エッジと呼ばれたあの従者の幻にホホは追われていたのだろう。

 そしてあいつは明日もう一度ここにやって来る。

「明日で全部終わるな」

 俺は明るい声で言ってみる。

「大丈夫。俺たちもいるしさ」そして悪そうな笑みを浮かべた。「それにお金も入ってくる」

 するとホホも同じように悪い顔をした。「そうだ。お金もらえるんだった」

 いつものように軽口を叩くホホに、ほっとしてしまうのは俺の方だ。

 だから、少し気が緩んでしまった。

「いや、でも俺なんかが恋人のふりなんかして、逆にごめん」

 何の気なしに口にした言葉が失敗だったことにはすぐに気が付く。

 ホホがぴくりと反応し、薄青の瞳が少しだけ見開かれたから。

 ホホは俺の体質を知っている。ここで働いてほしいと頼んだ時に伝えていた。彼女は「気にしない」と言ってくれた。

 敏感なホホは、俺の言葉の意味をきっと正確に捉えている。

「…私は嬉しかった」

 小さく言った言葉に、自分で納得したような表情を浮かべると、彼女は瞳を上げた。

「アルが言ってくれて、傍にいてくれて、嬉しかったよ」

 こうもはっきり言われるとちょっと照れくさい。だけど笑ったりごまかしたりするのも違うなと考えていたら、どんな顔をしていいかわからなくなる。でも…、

「うん、そう言ってもらえると俺も嬉しい」

 それは素直な気持ちだった。それを正直に伝える。

 すると急に我に返ったのか、ホホはほんのり赤くなった。

「あ、ユイたちと話してたんだけど、次のお休みにピクニックに行かない?」

 やや強引な話題転換が、なんだかかわいらしい。

「ピクニック?なんか前もそんなこと言ってたな…」

 あれはなんで中止になったんだっけ?

「前は雨で中止になったでしょ?だからリベンジ!今度こそ!」

 はしゃぐホホが楽しそうで、俺は思わず目を細めた。「よし、行こう」

「やった。あ、お弁当は私たちが作るから」

「うん、じゃあ任せるよ」

 ピクニックなんて、最後に行ったのはいつだろう。記憶にない。

 外で食べる弁当も、他の人が作ってくれる弁当も久しぶりで、ちょっと楽しみになってくる。

 ホホは窓の外に視線を向けて呟いた。

「晴れたらいいねえ」

 雨はしとしと、降り続いている。


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