7
橋の上でおれたちは座り込んだまま動けなかった。
お互い何も話さない。川風に吹かれて、ただぼんやりとしている。
もう帰りたい。だけど、…帰りたくなかった。
隣にいるアンナは疲れた顔で橋にもたれかかって、夕焼けの空を見ている。
一体おれは何をしてるんだろう。というか、こんなところでぼーっとしていていいのだろうか。
もうすぐ夜がやって来る。おれはカラスだから、夜になると目が効かない。動けなくなる前に帰らなくてはいけないのに。
でも、なんかもう、いいや。もう、どうでも。
投げやりな自分がいた。
だが、それと同時にこの状況をどこか心地よく思っている自分もいる。
夕焼けはきれいだし、風は気持ちいいし。
そしてアンナもいるし。
この子と今ここにいることも不思議だった。
おれは人見知りなわけじゃないが、これまでユイ以外の人間と深く係わることがなかった。
それが最近はどうだろう。アルもホホも地味にぐいぐい来るからな。ふたりとも強引さは感じさせず、するりと内側に入ってしまうのがうまい。
知り合ったばかりの女の子の前で泣いて、弱音を吐くなんて、あり得ない。
その上、今ひとりじゃなくてよかったとさえ思っている。アンナがいてくれてよかったと。
霧雨亭に行くようになって、おれも変わってしまったのかもしれない。
「空、きれいですね」
ぼーっと、アンナが言った。
思わずじっと、そのぼーっとした横顔を見つめてしまう。
気づいたアンナが優しく問い掛けた。「どうかしましたか?」
「いや、…同じこと、思ってたから」
正直に言うと、アンナは少し嬉しそうにはにかんだ。
するとなんだか急激に申し訳なくなって、「なんか、ごめん」と思わず謝っていた。
今度はアンナが目を丸くする。
「え?」
「あんたが大変な時なのに…」
おれが泣いてどうする。
するとアンナは「ああ」というような顔をした。
「ううん…。びっくりはしたけど、おかげで我に返ったというか、冷静になれたというか…」
そう言いながらこぼした笑みは力ない。勝手な妄想かもしれないが、痛々しい。
こんな時に、そんな風に笑わせたいわけじゃない。今更どの口が言う、というかんじだが、気を遣わせたくなんかなかった。
じゃあ…どうしたいんだ?おれは。
「エメラダは…アンナと友達になりたいんだって」
気づいたら口に出していた。
アンナは何とも言えない表情を浮かべる。
「…大丈夫だよ」
言って、わかった。これが言いたかったんだと。
「…どう…でしょうかね」
アンナは伏し目がちに小さく微笑む。
…やっぱり、頼りないおれの「大丈夫」じゃ、大丈夫に聞こえないか。
その時、どこからか「おーい」という声が聞こえてきた。
アンナが「あ、」とおれの背後を見て声を上げた。
振り返ると、満面の笑みでホホが空になったリヤカーを引きながら手を振っている。
「ただいまー。何してんの?」
がっつり力仕事をした後だというのに、ホホはまだまだ元気なようだ。
「…休憩」
短く答えておれはのろのろと立ち上がる。体がものすごく重たかった。隣ではアンナも立ち上がって、スカートを払っている。
到底そうは見えないこの状況だけど、ホホは「そっか」と行ったきり、それ以上追及してこなかった。
「遅くなってごめんね。荷降ろしに手間取っちゃって」
ホホは約束通りアンナたちを送っていくつもりらしい。
…ほんとよく働くな。
でも…多分ホホにだってあるんだろう。もう動けないって思うときや、どうでもいいって投げやりになってしまうこと。泣き崩れてしまうことも。
ホホだけじゃない。あの強心臓のアルにだって。おれが知らないだけで。
多分、みんなあるんだろう。それが見えるか見えないか、あるいは見せるか見せないか、なのだ。
車を捉まえる必要もなくなったので、おれたちは店に戻ることにした。
ホホとアンナが並んで歩き出す。おれはそれにのろのろと付いて行く。
ふと、何かが聞こえた気がした。
足を止めて、川の方を見る。
何だろう、…声?
「どうしたの?」立ち止まるおれに気づいて、ふたりが振り返った。
「何か聞こえないか?」
そう言っておれが耳を澄ませると、ホホとアンナもそれに倣う。
「……ほら!今!」
川からの風に乗って微かに人の声がした。
「え?そう?」人よりも五感は鋭いはずなのに、ホホは首を傾げている。「聞こえた?」
尋ねられたアンナも小さく首を振った。「…いいえ」
「誰かの声がするんだって」
おれは言いながら走り出していた。
多分、河原だ。橋から土手の方へ回る。すると今度ははっきり「だれかー」という声が聞こえた。
その声に愕然とする。「ユイ?!」
おれがユイの声を聞き間違えるはずがない。
「…ビゼ?」
やっぱりユイだ!
急いで斜面を駆け下りる。
「ユイ!どこ?!」
「こっちだよー」
くぐもった声だ。声の方に進んでいるとは思うけど、姿が見えない。
「ユイ!」
おれは河原を走りながら叫んだ。
「ビゼ、ここだよ、下だよ、下」
下?と思って地面に目をやる。
そしてぎょっとした。
穴が開いている。
「ユイ!!」
近寄ってみると、ユイがすっぽりと穴に収まっていた。
「どうしたの?!何してんの?!」
「落とし穴に落ちた」
「…はい?」
奇抜な状況に呆然としていると、ホホたちが追いついてきた。
「ビゼ速いよー…わっ!穴?!ユイ?」
「あ、ホホ」
「え?この方がユイさんですか?」
「うん、そう。え、で、何があったの??」
「落とし穴に落ちた」
同じセリフに、ホホたちも同じようにフリーズする。
ユイにはこういうところがある。どんくさいわけでもまぬけなわけでもないのに、いつの間にか「なんでそうなるの?」と言いたくなるような状況に陥っていることが。それは日常的な笑えるレベルから、非日常的にファンタジーなレベルまで幅が広い。
そういえば、落とし穴に落ちた人間を実際に見るのは初めてだ…。おれの頭の中の妙に冷静な部分がそう言っていた。
「……ねえ、助けて?」
下からの切ない声に、ようやくおれたちの頭が動き出した。
「そうだ、助けないと!」
「どうしよ。引っ張り上げる?」
「そのままいけるかなあ?」
「何かロープとかあれば…」
「あ、リヤカーにロープあったよ!」
一同はにわかにあたふたとし始める。
穴は径が狭く、深い。手を上げた状態のユイが丁度ぴったりのサイズだ。
なんとか3人がかりでユイを穴から引っ張り上げたが、人ひとりを引きずり上げるのがどれほど大変か、おれたちは身を以て知ったのだった。おれとアンナはともかく、あの体力底なしのホホまでぐったりしている。そして3人とも砂まみれだ。
当のユイはもっと砂まみれの泥まみれで、掘り出された芋のように河原に寝転がっていた。
「ユイ、大丈夫?」
おれはユイの体に付いた砂や泥を払ってやる。
すると、ユイは肩を震わせ始めた。
「…どうした?どっか痛い?」
ホホが馬鹿力で無理矢理腕を引っ張るから、どこか痛めたのかもしれない。
とか思っていると、ユイはごろんと仰向けになった。
ユイは笑っていた。
「あー、びっくりした。落とし穴に落ちる人、いるんだねえ」
何かに憑かれたように笑い転げている。落ちたショックで頭がおかしくなったのかもしれない。おれはますます心配になった。
「それはこっちのセリフよ」
ホホがため息交じりに言うと、ユイは「驚かせてごめんね」と謝る。でもまだくすくす笑っていた。
そして笑いながらこれまでの経緯を語った。
ユイはちょうどいい時間に森の家を出て霧雨亭を目指したらしい。だが連日の薬作りで疲れていた。特に心が。気分転換に散歩でもして行こう。そう思って河原を歩いていたら急に地面が抜けた、とのことだった。
笑いが収まってきたユイは起き上がると、居ずまいを正した。
「みなさん、助けてくれてありがとうございました」
スイッチが切り替わったかのように、これまでと打って変わって真面目な顔つきで、深々とお辞儀をする。
「怪我がなくてよかったね、ユイ」
ホホが目を細めてそう言うと、ユイは「うん」と、はにかんだ。
無事でよかった。笑っているユイを見て、心からそう思うと同時にほっとした。
どこからかユイの声がすると気がついた時は驚いたし、焦ったし、穴の中にいるユイを見た時は何の冗談かと思ったが。
だからおれは油断してしまったんだろう。
「ビゼ?!」ユイが突然鋭い声を上げた。「どうしたの?!どこか痛いの?」
ただならぬ様子に、おれは何事かと慌てる。「何が?」
「何がって、泣いてるじゃない!」
頬を触るとまた涙が出ていた。
いろんなことがありすぎて、どうやらおれの目は完全に壊れてしまったようだ。
「ああ…ううん。びっくりしただけ」
そう言って、手の甲で涙を拭う。
だけどユイは完全におろおろしている。ホホとアンナも心配そうにおれを見ていた。
…そっか、泣くとこういう空気になるんだな。
気まずさと気恥ずかしさのあまり、横にある穴に自ら入ってしまいたくなる。
「ごめんね、ビゼ、心配かけて。ほんと、ごめん」
完全にしゅんとしてしまったユイの頭に、おれはポンと手を置いた。
「いや、ほんとに驚いただけだって。こっちこそごめん」
おれは無理矢理笑ってみた。作り笑いなんて普段しないから、うまくいってるかはよくわからない。
そんなおれを、ユイは眉間にしわを寄せて見つめていた。
穴をこのままにしておくわけにはいかず、ユイは魔法を使って埋めた。あっという間だった。
「…ねえ?」その様子を見ていたホホがおもむろに問いかける。「魔法で穴からは出られなかったの?」
「やってみたんだけど、穴が狭すぎてどうにもならなかった」
横穴をスロープ状に掘ろうとしたらしいが、掘った土が全部自分にかかってきて埋もれそうになったらしい。風を使って体を浮かせようとしても、体よりも先に砂が舞い上がって砂まみれになったそうだ。
作業も終わり、やっと今度こそ帰ることができる。なかなか戻って来ないから、アルたちは心配しているかもしれない。
堤防の斜面を登っていると、ユイは「ビゼ、見つけてくれてありがとね」と微笑んだ。
改まった不意の言葉と笑顔にどきっとした。
それを悟られないように、わざとぶっきらぼうに返事をする。
「いや、おれよりホホだろ」
ホホがいなければユイを助けることはできなかったのは明らかだ。おれだけじゃ、ユイを引っ張り上げられなかった。
「でもビゼが見つけてくれないと、誰にも助けてもらえなかったよ」
ユイの言葉にも素直に頷けない。たまたまだ。おれじゃなくても、誰かが見つけていただろう。
「私ね、1番に見つけてくれるんのはビゼなんじゃないかって思ってた。ビゼならきっと見つけてくれるって、そう思って呼んでたよ」
突然、何を言い出すんだ。おれは訝しげな表情をユイに向けた。
「そしたらほんとにそうだったから、びっくりしたー」
びっくりしたのはこっちだ。
ユイがそんな風に思ってたなんて、知らない。想像もしない。
「ビゼは私の魔法使いだね」
そう言って、ユイは嬉しそうに笑った。
おれは何も言えなかった。
…今までのユイなら、こんなことは言わない。自分の気持ちを言葉にするのは苦手だから。
どうしよう。嬉しい。
一番に心に浮かんだ感情に、おれは戸惑った。
変わることが怖い。今だって、その気持ちは変わらない。だけど変わりつつあるユイの言葉が嬉しい。
その嬉しさをどう受け止めていいのかわからなかった。
なぜかまた涙が湧き上がりそうになり、ぐっとそれをこらえる。
急に巻き起こった心の変化に狼狽えていると、後ろから「よかったですね」と小さく声を掛けられた。
振り返るとアンナが微笑んでいる。
恥ずかしくてすぐに前を向いたが、アンナは横に並んだ。
「私も怖がってばかりいられませんね」
おれは今も十分怖い。
だけどおれを信じて呼んでくれたユイの声を、おれはちゃんと拾うことができた。たまたまかもしれないけど、たったそれだけのことだけど、ぐらぐらだった気持ちが少ししっかりしたのも本当だ。
自分でもあきれるくらい単純だと思う。けれど、気がついた。そんな単純なことを長い時間をかけて積み重ねてきたんだと。
だからユイはおれのことを「私の魔法使い」と言ってくれたんだと。
「ビゼさん」アンナは前を向いたままで言う。「もう一度、大丈夫って、言ってもらえますか?」
なんてことないような軽い口調だった。
だけどその中に、アンナの覚悟と不安を感じ取る。
おれも覚悟を決めなければならない。そうしないと、アンナの背中は押せない。
「大丈夫だよ。アンナなら」
今度の「大丈夫」はさっきよりもちょっとはしゃんとしていた気がする。
アンナもそう思ったのかもしれない。
「ふふふ、ありがとう」
そう言った笑顔は、少し楽しそうだった。