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猫とカラスと雨の森  作者: 夏川サキ
episode 2 おれのご主人様
14/33

7

 橋の上でおれたちは座り込んだまま動けなかった。

 お互い何も話さない。川風に吹かれて、ただぼんやりとしている。

 もう帰りたい。だけど、…帰りたくなかった。

 隣にいるアンナは疲れた顔で橋にもたれかかって、夕焼けの空を見ている。

 一体おれは何をしてるんだろう。というか、こんなところでぼーっとしていていいのだろうか。

 もうすぐ夜がやって来る。おれはカラスだから、夜になると目が効かない。動けなくなる前に帰らなくてはいけないのに。

 でも、なんかもう、いいや。もう、どうでも。

 投げやりな自分がいた。

 だが、それと同時にこの状況をどこか心地よく思っている自分もいる。

 夕焼けはきれいだし、風は気持ちいいし。

 そしてアンナもいるし。

 この子と今ここにいることも不思議だった。

 おれは人見知りなわけじゃないが、これまでユイ以外の人間と深く係わることがなかった。

 それが最近はどうだろう。アルもホホも地味にぐいぐい来るからな。ふたりとも強引さは感じさせず、するりと内側に入ってしまうのがうまい。

 知り合ったばかりの女の子の前で泣いて、弱音を吐くなんて、あり得ない。

 その上、今ひとりじゃなくてよかったとさえ思っている。アンナがいてくれてよかったと。

 霧雨亭に行くようになって、おれも変わってしまったのかもしれない。

「空、きれいですね」

 ぼーっと、アンナが言った。

 思わずじっと、そのぼーっとした横顔を見つめてしまう。

 気づいたアンナが優しく問い掛けた。「どうかしましたか?」

「いや、…同じこと、思ってたから」

 正直に言うと、アンナは少し嬉しそうにはにかんだ。

 するとなんだか急激に申し訳なくなって、「なんか、ごめん」と思わず謝っていた。

 今度はアンナが目を丸くする。

「え?」

「あんたが大変な時なのに…」

 おれが泣いてどうする。

 するとアンナは「ああ」というような顔をした。

「ううん…。びっくりはしたけど、おかげで我に返ったというか、冷静になれたというか…」

 そう言いながらこぼした笑みは力ない。勝手な妄想かもしれないが、痛々しい。

 こんな時に、そんな風に笑わせたいわけじゃない。今更どの口が言う、というかんじだが、気を遣わせたくなんかなかった。

 じゃあ…どうしたいんだ?おれは。

「エメラダは…アンナと友達になりたいんだって」

 気づいたら口に出していた。

 アンナは何とも言えない表情を浮かべる。

「…大丈夫だよ」

 言って、わかった。これが言いたかったんだと。

「…どう…でしょうかね」

 アンナは伏し目がちに小さく微笑む。

 …やっぱり、頼りないおれの「大丈夫」じゃ、大丈夫に聞こえないか。

 その時、どこからか「おーい」という声が聞こえてきた。

 アンナが「あ、」とおれの背後を見て声を上げた。

 振り返ると、満面の笑みでホホが空になったリヤカーを引きながら手を振っている。

「ただいまー。何してんの?」

 がっつり力仕事をした後だというのに、ホホはまだまだ元気なようだ。

「…休憩」

 短く答えておれはのろのろと立ち上がる。体がものすごく重たかった。隣ではアンナも立ち上がって、スカートを払っている。

 到底そうは見えないこの状況だけど、ホホは「そっか」と行ったきり、それ以上追及してこなかった。

「遅くなってごめんね。荷降ろしに手間取っちゃって」

 ホホは約束通りアンナたちを送っていくつもりらしい。

 …ほんとよく働くな。

 でも…多分ホホにだってあるんだろう。もう動けないって思うときや、どうでもいいって投げやりになってしまうこと。泣き崩れてしまうことも。

 ホホだけじゃない。あの強心臓のアルにだって。おれが知らないだけで。

 多分、みんなあるんだろう。それが見えるか見えないか、あるいは見せるか見せないか、なのだ。



 車を捉まえる必要もなくなったので、おれたちは店に戻ることにした。

 ホホとアンナが並んで歩き出す。おれはそれにのろのろと付いて行く。

 ふと、何かが聞こえた気がした。

 足を止めて、川の方を見る。

 何だろう、…声?

「どうしたの?」立ち止まるおれに気づいて、ふたりが振り返った。

「何か聞こえないか?」

 そう言っておれが耳を澄ませると、ホホとアンナもそれに倣う。

「……ほら!今!」

 川からの風に乗って微かに人の声がした。

「え?そう?」人よりも五感は鋭いはずなのに、ホホは首を傾げている。「聞こえた?」

 尋ねられたアンナも小さく首を振った。「…いいえ」

「誰かの声がするんだって」

 おれは言いながら走り出していた。

 多分、河原だ。橋から土手の方へ回る。すると今度ははっきり「だれかー」という声が聞こえた。

 その声に愕然とする。「ユイ?!」

 おれがユイの声を聞き間違えるはずがない。

「…ビゼ?」

 やっぱりユイだ!

 急いで斜面を駆け下りる。

「ユイ!どこ?!」

「こっちだよー」

 くぐもった声だ。声の方に進んでいるとは思うけど、姿が見えない。

「ユイ!」

 おれは河原を走りながら叫んだ。

「ビゼ、ここだよ、下だよ、下」

 下?と思って地面に目をやる。

 そしてぎょっとした。

 穴が開いている。

「ユイ!!」

 近寄ってみると、ユイがすっぽりと穴に収まっていた。

「どうしたの?!何してんの?!」

「落とし穴に落ちた」

「…はい?」

 奇抜な状況に呆然としていると、ホホたちが追いついてきた。

「ビゼ速いよー…わっ!穴?!ユイ?」

「あ、ホホ」

「え?この方がユイさんですか?」

「うん、そう。え、で、何があったの??」

「落とし穴に落ちた」

 同じセリフに、ホホたちも同じようにフリーズする。

 ユイにはこういうところがある。どんくさいわけでもまぬけなわけでもないのに、いつの間にか「なんでそうなるの?」と言いたくなるような状況に陥っていることが。それは日常的な笑えるレベルから、非日常的にファンタジーなレベルまで幅が広い。

 そういえば、落とし穴に落ちた人間を実際に見るのは初めてだ…。おれの頭の中の妙に冷静な部分がそう言っていた。

「……ねえ、助けて?」

 下からの切ない声に、ようやくおれたちの頭が動き出した。

「そうだ、助けないと!」

「どうしよ。引っ張り上げる?」

「そのままいけるかなあ?」

「何かロープとかあれば…」

「あ、リヤカーにロープあったよ!」

 一同はにわかにあたふたとし始める。

 穴は径が狭く、深い。手を上げた状態のユイが丁度ぴったりのサイズだ。

 なんとか3人がかりでユイを穴から引っ張り上げたが、人ひとりを引きずり上げるのがどれほど大変か、おれたちは身を以て知ったのだった。おれとアンナはともかく、あの体力底なしのホホまでぐったりしている。そして3人とも砂まみれだ。

 当のユイはもっと砂まみれの泥まみれで、掘り出された芋のように河原に寝転がっていた。

「ユイ、大丈夫?」

 おれはユイの体に付いた砂や泥を払ってやる。

 すると、ユイは肩を震わせ始めた。

「…どうした?どっか痛い?」

 ホホが馬鹿力で無理矢理腕を引っ張るから、どこか痛めたのかもしれない。

 とか思っていると、ユイはごろんと仰向けになった。

 ユイは笑っていた。

「あー、びっくりした。落とし穴に落ちる人、いるんだねえ」

 何かに憑かれたように笑い転げている。落ちたショックで頭がおかしくなったのかもしれない。おれはますます心配になった。

「それはこっちのセリフよ」

 ホホがため息交じりに言うと、ユイは「驚かせてごめんね」と謝る。でもまだくすくす笑っていた。

 そして笑いながらこれまでの経緯を語った。

 ユイはちょうどいい時間に森の家を出て霧雨亭を目指したらしい。だが連日の薬作りで疲れていた。特に心が。気分転換に散歩でもして行こう。そう思って河原を歩いていたら急に地面が抜けた、とのことだった。

 笑いが収まってきたユイは起き上がると、居ずまいを正した。

「みなさん、助けてくれてありがとうございました」

 スイッチが切り替わったかのように、これまでと打って変わって真面目な顔つきで、深々とお辞儀をする。

「怪我がなくてよかったね、ユイ」

 ホホが目を細めてそう言うと、ユイは「うん」と、はにかんだ。

 無事でよかった。笑っているユイを見て、心からそう思うと同時にほっとした。

 どこからかユイの声がすると気がついた時は驚いたし、焦ったし、穴の中にいるユイを見た時は何の冗談かと思ったが。

 だからおれは油断してしまったんだろう。

「ビゼ?!」ユイが突然鋭い声を上げた。「どうしたの?!どこか痛いの?」

 ただならぬ様子に、おれは何事かと慌てる。「何が?」

「何がって、泣いてるじゃない!」

 頬を触るとまた涙が出ていた。

 いろんなことがありすぎて、どうやらおれの目は完全に壊れてしまったようだ。

「ああ…ううん。びっくりしただけ」

 そう言って、手の甲で涙を拭う。

 だけどユイは完全におろおろしている。ホホとアンナも心配そうにおれを見ていた。

 …そっか、泣くとこういう空気になるんだな。

 気まずさと気恥ずかしさのあまり、横にある穴に自ら入ってしまいたくなる。

「ごめんね、ビゼ、心配かけて。ほんと、ごめん」

 完全にしゅんとしてしまったユイの頭に、おれはポンと手を置いた。

「いや、ほんとに驚いただけだって。こっちこそごめん」

 おれは無理矢理笑ってみた。作り笑いなんて普段しないから、うまくいってるかはよくわからない。

 そんなおれを、ユイは眉間にしわを寄せて見つめていた。



 穴をこのままにしておくわけにはいかず、ユイは魔法を使って埋めた。あっという間だった。

「…ねえ?」その様子を見ていたホホがおもむろに問いかける。「魔法で穴からは出られなかったの?」

「やってみたんだけど、穴が狭すぎてどうにもならなかった」

 横穴をスロープ状に掘ろうとしたらしいが、掘った土が全部自分にかかってきて埋もれそうになったらしい。風を使って体を浮かせようとしても、体よりも先に砂が舞い上がって砂まみれになったそうだ。

 作業も終わり、やっと今度こそ帰ることができる。なかなか戻って来ないから、アルたちは心配しているかもしれない。

 堤防の斜面を登っていると、ユイは「ビゼ、見つけてくれてありがとね」と微笑んだ。

 改まった不意の言葉と笑顔にどきっとした。

 それを悟られないように、わざとぶっきらぼうに返事をする。

「いや、おれよりホホだろ」

 ホホがいなければユイを助けることはできなかったのは明らかだ。おれだけじゃ、ユイを引っ張り上げられなかった。

「でもビゼが見つけてくれないと、誰にも助けてもらえなかったよ」

 ユイの言葉にも素直に頷けない。たまたまだ。おれじゃなくても、誰かが見つけていただろう。

「私ね、1番に見つけてくれるんのはビゼなんじゃないかって思ってた。ビゼならきっと見つけてくれるって、そう思って呼んでたよ」

 突然、何を言い出すんだ。おれは訝しげな表情をユイに向けた。

「そしたらほんとにそうだったから、びっくりしたー」

 びっくりしたのはこっちだ。

 ユイがそんな風に思ってたなんて、知らない。想像もしない。

「ビゼは私の魔法使いだね」

 そう言って、ユイは嬉しそうに笑った。


 おれは何も言えなかった。

 …今までのユイなら、こんなことは言わない。自分の気持ちを言葉にするのは苦手だから。

 どうしよう。嬉しい。

 一番に心に浮かんだ感情に、おれは戸惑った。

 変わることが怖い。今だって、その気持ちは変わらない。だけど変わりつつあるユイの言葉が嬉しい。

 その嬉しさをどう受け止めていいのかわからなかった。

 なぜかまた涙が湧き上がりそうになり、ぐっとそれをこらえる。

 急に巻き起こった心の変化に狼狽えていると、後ろから「よかったですね」と小さく声を掛けられた。

 振り返るとアンナが微笑んでいる。

 恥ずかしくてすぐに前を向いたが、アンナは横に並んだ。

「私も怖がってばかりいられませんね」

 おれは今も十分怖い。

 だけどおれを信じて呼んでくれたユイの声を、おれはちゃんと拾うことができた。たまたまかもしれないけど、たったそれだけのことだけど、ぐらぐらだった気持ちが少ししっかりしたのも本当だ。

 自分でもあきれるくらい単純だと思う。けれど、気がついた。そんな単純なことを長い時間をかけて積み重ねてきたんだと。

 だからユイはおれのことを「私の魔法使い」と言ってくれたんだと。

「ビゼさん」アンナは前を向いたままで言う。「もう一度、大丈夫って、言ってもらえますか?」

 なんてことないような軽い口調だった。

 だけどその中に、アンナの覚悟と不安を感じ取る。

 おれも覚悟を決めなければならない。そうしないと、アンナの背中は押せない。

「大丈夫だよ。アンナなら」

 今度の「大丈夫」はさっきよりもちょっとはしゃんとしていた気がする。

 アンナもそう思ったのかもしれない。

「ふふふ、ありがとう」

 そう言った笑顔は、少し楽しそうだった。


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