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「ビゼ、アンナを追いかけて」
「え?おれが?」
「だって、ビゼに驚いて逃げたんだから」
「…まあ…そうだけど」
「それに、」
「それに?」
「おまえは優しいから」
「優しくないし」
「優しいよ。俺なんかよりもずっとね」
「…アルと比べられても」
自分が優しいと思ったことはない。
だけど、おれのことを優しいと言ってくれる人がいるのなら、それはユイが優しかったからだと思う。
生まれて初めて自分に優しくしてくれた人、それがユイだった。
おれはユイに優しさを教えてもらった。
カラスとして生まれたおれは、残念ながらカラスの世界には全く馴染めなかった。どうしてもそこから逃げ出したくて、うっかり竜の手下になってしまったが、それからこそが本当に最悪の毎日だった。
ユイと出会ったのはそんな最悪真っ只中の時だった。
竜の無茶な任務に失敗して重傷を負ったおれは、暗がりの森の奥深くで倒れていたところをユイに発見され、介抱された。
そしてなんと、ユイは竜の手下までやめさせてくれたのだ。
ユイは大恩人で、おれは何としても恩を返さなくてはいけないと思った。
その頃、ユイの家にはばあさんとその使い魔がいた。魔女は生涯で1匹だけ、動物を使い魔にすることができる。ユイにはまだ使い魔がいなかったから、次第におれもユイの使い魔になりたいと思うようになっていった。ばあさんもユイにおれを使い魔にしろと勧めた。
でもユイは頑として首を縦に振らなかった。魔女と使い魔は契約を結ぶ。魔女は使い魔に人間の体と能力を与える。使い魔は魔女に忠誠と自分の命を差し出すのだ。その仕組みが嫌だから、自分は使い魔は持たないのだと。
だからおれが使い魔になれたのは不慮のトラブルからだった。使い魔になる以外、おれがこの世に留まる術がなかった。
人間の体を手に入れて目覚めた時、おれは本当に嬉しかった。これでユイの役に立てると思った。
だけどユイはずっと泣いていた。そして「ごめんね。ビゼ、ごめんね」と謝り続けた。
どうしてユイは泣くんだろう?おれはこんなに嬉しいのに。
「ユイ」初めてその名を口にした時の感動は忘れない。ずっとずっと、名前を呼びたいと思っていた。この世で一番きれいで大好きな名前を。
おれに抱きつくユイの体を、毛のないつるつるの2本の腕で抱きしめた。ユイはとても小さくて、温かかった。
「泣かないで、ユイ。ありがとう、使い魔にしてくれて」
おれがそう言うと、ユイはますます泣いてしまった。
だけど大丈夫。もうおれはユイの涙を拭うことができるのだから。こうして抱きしめることもできるのだから。
文字通り胸には穴が開いてしまったけれど、その代わりに満たされた何かを、おれはあの時確かに感じていた。
「おい」
アンナは止まらない。ずんずん歩いていく。
「おい、待て」
完璧に無視されて、少しイラっとする。
アンナはあっさり見つかった。車を拾いに行くと言ったので、きっと大通りへ向かっているだろうと踏んで追いかけたのだ。
だが、いくら声をかけても相手は止まってくれない。
埒が明かないので、おれは橋に差し掛かったところで一気にアンナの前へ回り込み、通せんぼをする。
そして、その顔を見てぎょっとした。
一瞬泣いているのかと思ったのだが、そうではない。アンナは汗だくだった。汗まみれで、血の気の引いた青白い顔をしている。
「おい、大丈夫か?!」
おれが両腕を掴むと、アンナの体はビクッと震えた。
「…あ、ビゼさん」
おれのことに気が付いていなかったらしい。
「しんどいのか?すっげー顔色悪いぞ?」
とりあえず橋の欄干にもたれ掛けさせようとする。だが急に脱力したようになって、膝から崩れ落ちた。
「ちょっと、…しっかりしろよ!」
何とか途中で支えたが、アンナはそのまま地面に座り込む。おれは傍らにひざまずいて、アンナの顔を覗いた。
「…どうしよう」
アンナは両手を地面に付いて、呆然と呟いた。多分、その目には何も映っていない。
「私のせいで、お嬢様に怪我を…」
「お、おい」
「旦那様になんて謝ればいいの…」喋れば喋るほど、アンナはパニックになっていく。「しっかりお仕えするようにって、お母さんにも言われていたのに…!」
「アンナ!」おれはアンナの体を強く揺すった。「怪我はあんたのせいじゃない。犬は偶然だって、アルも言ってただろ?」
本当にあれが偶然だったかは疑わしいとおれも思うけど、今はそういうことにしておく。
「でも、私の人形が変な騒ぎを起こしたせいで、出かけることになったんだし…」
「それも別にあんたのせいじゃない」目を見て、ゆっくりと言い聞かせる。「アルの話にはまだ続きがあったんだ」
「アンナも操られていた?」
アルは黒曜石をかざしてまじまじと見つめている。「というか、アンナが操られていた」
「人形じゃなくて?」
「人形は一度動き出したら、あとは勝手にやってたんだろ」
おれの視線も黒曜石に注がれる。
そこでふとひらめいた。「そうか、黒曜石」
「お、さすが魔女の助手」
茶化す言葉はスルーした。
黒曜石は、贈った相手が贈られた相手を操ることができるようになる。
人形をくれたという女がアンナを操ったのだろう。
「石のカットが複雑だね」アルは魔法は使えないが、魔法のことにすごく詳しい。「人形の動力になってたのも、この石だろうな」
石は本当にくさかった。こんなに強くて悪い魔法をかぐのは久しぶりだ。
「おそらくだけど、アンナは人形に願望を言うように仕向けられていたんだと思う」
そういえば、もともとプッチー人形は願い事を叶えると言われている人形だ。なので願い事を言うという行為自体は不自然なことじゃないから、本人も周りも気が付きにくいだろう。
「言葉には力があるから。願望という強い気持ちを声に出して言うことで、心の中で思っているだけよりも大きな力を人形の中の石に注ぎ込むことができる、…って仕組みかな?」
アルはちらりとメアリさんを見た。メアリさんは前足で人形の顔をふみふみしていた。その様子に、アルは小さく苦笑いを浮かべる。
「ずっと、エメラダたちの周りに付いてたんだろうね。でもうちには入れなくて、うろうろしてるところをメアリさんに見つかったんだろう」
ここんちは強力な結界が張ってあるからな。
おれはふと気になったことを訊ねてみる。
「こんなアグレッシブな人形を普通に土産物で売ってんの?」
そりゃあ願い事も叶うだろう。品切れにもなるだろう。
「まさか」アルは苦笑する。「土産物で売ってるのはただの人形だよ。これは特別仕様。土産物だったやつを手に入れて、魔法を施した石を仕込んだんだろう」
おれは再び人形に視線を落とす。こいつも災難だったな。でも何だってそんな特別仕様な人形をアンナに…?
「注ぎ込まれた力が一定量を超えると、人形は動き出す。命を与えてくれた者の願いを叶えるため」
アルの声におれの思考は破られ、頭にはミミズ文字の手紙が浮かぶ。
そしてふと思った。
あれはアンナの本当の願いだったのだろうか。
「だから、今回のことは別におまえが悪いわけじゃない」
おれの話を、アンナは地面を見つめたまま聞いていた。
黙ったまま、身じろぎもせず。流れた汗が顎からぽたりぽたりと滴るだけだ。
「エメラダの怪我もただの捻挫だ。すぐ治る。ユイの薬はよく効くし。心配ない」
するとアンナは視線を上げ、おれを見た。
「…私のせいです」
予想以上に頑固な子らしい。
「心の中で何を思おうと、それは個人の自由だ」おれは根気強くアンナに言い聞かせる。「でも思うことと、実際に行動に移すことは全然違う」
「でも私、人形に言いました」
「だから言わされてたんだって」
「違います」強い口調で言い返してくる。「言ってしまったことは操られていたからかもしれないけれど、私は確かに思っていた。まぎれもなく、私の願いなんです」
きっぱりと言い放ったその言葉に胸がざわついた。
何だろう。これ以上言わせたくないし、聞きたくもない気がする。
でもアンナの中にあるものを全部吐き出させないと、どうにもならないようにも思えた。
「私は確かに、準備に疲れ切ったお嬢様を見て、学院祭なんてなければいいと思いました。私に嫌がらせをして、お嬢様の周りに群がっている人たちなんて、うっとうしいって、いなくなればいいって思いました」
…どうやらエメラダは正しかった。手紙はアンナの心を映したもので、紛失事件は人形の暴走だったんだ。
「事件が起きて、私、本当は嬉しかった」
嬉しいと言っているのに、全然そうは見えない。苦しい、って言葉の方がしっくりくるような表情だった。
「お嬢様とふたりだけの時間が増えたから。久しぶりだった。…ジンカハニスに来てからは」
エメラダは、ジンカハニスに来れば本当の友達になれると思っていた。そんな心とは裏腹に、実際にはふたりの距離は開いていったのだ。
「手紙のことはふたりだけの秘密だったし、事件のことも他の人じゃなくって、私に相談してくれて…。本当に困った時に私を頼ってくれたのが嬉しかった。何より自然とふたりで過ごすことが増えて…。お屋敷にいた頃に戻ったみたいだった」
アンナは自分の気持ちをエメラダに言った事はなかった。だけど、言わないからって、何も思っていないとは限らない。
「…わかってるんです。私のわがままだって。ずっとふたりでなんていられない。いつか私たちは離れ離れになる」
震える声が胸を締め付けた。
その時、わかってしまった。
アンナの本当の願いが。
「…戻りたいんだな」
「……え?」
「昔に。…淋しいから」
おれの言葉に、アンナは顔を赤くして俯く。
昔に戻りたい。お屋敷にいた、楽しかったあの頃へ。
人形は言葉の向こう側にある、どうしようもないアンナの望みを叶えようとした。
おれは風に揺れる、アンナのおさげ髪を見つめる。
胸の中にじわじわと広がっていくのは、もやもやしたあの気持ち。
どうしようもない、おれの望み。
もやもやが連れてくる息苦しさに耐えかねて、気がつけば口を開いていた。
「恥ずかしがること、ない。…おれもそうだから」
アンナがゆっくりと顔を上げる。そしておれの顔を見たとたん、泣き出しそうに顔を歪めた。
自分が今、どんな表情をしているのか、さっぱりわからない。わかりたくもない。
「おれだって、ユイをひとり占めしたい。昔みたいに、森でふたりで暮らしたい。…今更そんなの無理だけど」
誰にも言いたくなかったし、自分でも目を背けていたかった気持ちは、あっけなくさらされた。
出会ったばかりの頼りない女の子の前で。
不思議と心は凪いでいた。
ホホが初めてうちに来た時に取り乱してしまったことを、おれはずっと後悔していた。
ユイが夜になっても戻って来ないなんて、初めてだった。
うちに他人を連れてきたのも初めてだった。
ユイが森から出るようになって蓄積されていった言いようのない不安が、たったそれだけのことで平常心を失わせた。そして、爆発した。
竜からユイを守らなくちゃと思ったのも本当だけど、それよりも心を占めていたのは、もっと自分勝手な気持ちだった。
「ユイを取られそうで、いやだ」
思わず本人に言ってしまったことを、何よりも一番後悔している。
こんな醜い、ぐちゃぐちゃな気持ち、ユイに見られたくなかった。
あんなこと言うんじゃなかった。
使い魔のくせに。
うっとうしいって思われたらどうしよう。嫌われたらどうしよう。離れていったら、どうしよう。
ユイがホホを追いかけて行った後、おれの頭の中はそんなことばかりがぐるぐるしていた。
そして、言った言葉を上書きする方法ばかり考えた。
思いついたのが、霧雨亭に行くことだった。
ユイが今大事にしているもの、楽しいこと、好きなこと、それらを自分自身で確かめて納得しようと思ったのだ。
ユイが楽しいと、おれは嬉しい。ユイが嬉しいと、おれはもっと嬉しい。ユイの好きなものは、おれだって好きになりたいんだ。
実際に霧雨亭で働いてみると、食堂の仕事は悪くないし、アルは思った以上に裏があるし、ホホは…すごくいい奴だった。
だから、わかった。
そんなこととおれの気持ちは関係ないんだって。
外の世界がいいものだって、知れば知るほど、むしろおれの心の中はごちゃごちゃしていくんだって。
あの時、ユイはおれの気持ちを受け止めて、「ずっと一緒」と、抱きしめてくれた。
けれどこのままだと、おれはまた同じことを繰り返してしまうかもしれない。
その時、ユイは…どうするんだろう。
おれたちは、どうなるんだろう。
この頃、たまに思ってしまう。
おれはただのカラスのまま、ユイの傍にいた方がよかったんじゃないかって。
そしたら、約束なんかなくっても、ずっとずっと一緒にいられたのかもしれない。
使い魔になれてあんなに嬉しかったのに、今だってただのカラスになんて戻りたくないのに、そんなことを考えてしまう自分が、心底嫌だった。
アンナの手がおれの頬に伸びてきて、驚いた。
「あ、ごめんなさい…」小さな声で謝る。「その…濡れてたから、つい…」
自分でも触ってみて、またまた驚いた。知らないうちに、涙が出ていた。
実は、おれは今まで泣いたことがない。泣き方もよくわかってないが、その止め方もわからなかった。これは…どうしたらいいんだろう。
狼狽えていると、アンナの手がそのまま頭に移った。
「…大丈夫ですよ」
アンナはそっと、触れるか触れないかくらいのやさしさで、おれの頭をなでた。
「大丈夫ですから」
何がどう大丈夫なのかわからない。多分、アンナもわかっていない。
だけどアンナの手は心地よくて、…鼻の奥が痛くなる。
今度は自分でも湧き上がってくるのがちゃんとわかった。両目から溢れてくる温かいもの。これが涙。
「…そうですよね」アンナはおれの涙をハンカチで拭く。「自分の心、無視するなんてできないんですよね。押し込めても、こうやって溢れてしまう」
「…変な人形に願掛けしたりな」
鼻声のおれの軽口に、アンナは「ふふ、そうですね」と、少しだけ笑ってくれた。