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「本当に、申し訳ありません」アルは深々と頭を下げた。「しつけが行き届いておりませんで…」
手紙を破った張本人はそのまま逃亡を図った。代わりに謝罪するのは飼い主の務めだ。
しかしおれまで並んで謝っていた。なぜだ?
「そんな、いいんです。頭を上げてください」
その瞬間はあっけにとられていたエメラダだったが、今は笑顔だった。というか、大笑いだった。
「実はこの手紙をどうしたらいいのか困っていたんです」確かに。ずっと持っているのも気持ち悪いし、捨てるのもなんだか怖い。「できればこのまま処分していただきたいんですが…、だめですか?」
アルはふたつ返事で了承した。「責任を持って処分いたします」と。
はあ、もう、変な汗かいた。
ぐったりと椅子に座り込むおれたちを見て、エメラダもアンナも再びくすくすと笑いだした。
「すごいわね、あの猫ちゃん」
「ほんと。びよーんて、伸びてた」
…のんきな依頼人でよかった。
おれはこっそり息を吐く。
メアリさんは一体どういうつもりなんだろう。
おれは実際のところ、メアリさんをよく知らない。その性格も、能力も。
17年もただの猫をやっていたら、本当にただの猫に戻ってしまうのだろうか。
ぞっとした。それだけは絶対に嫌だ。
おれは破られた手紙をにおってみたが、魔法の気配は感じられなかった。
メアリ・ショックで乱れた場の空気がようやく落ち着き、アルが占いを始める。
アルは普段からカードを使った占いをよくやるが、今日はいつも使っているのとは別のカードだった。古そうなもので、おれが見たことのない種類だ。
そしてカードの並べ方もいつもの運勢占いとは違う。
丁寧にカードを裏の状態で並べていく指先を見ていると、ユイの手と似ているな、と思った。
長くて細い指や、手の甲の筋張った様子がそっくりだ。顔も性格も全然似てないのに、やっぱりきょうだいなんだなあと思う。
エメラダもアンナも、真剣な表情でアルの手の動きを見つめていた。エメラダはこのカード占いをやったことがあるという。
「じゃあ捲っていくよ」
エメラダが頷く。
10枚のカードをアルはゆっくりと1枚1枚表にしていく。
色鮮やかな絵柄が現れるが、カードが何を意味するのかはさっぱりわからない。
アルは一定のペースでカードを開いていった。
だが4枚目、アルに一番近い場所に配置されたカードを捲った時、一瞬アルの手がカードの上で彷徨った気がした。
カードには月を背にした女が描かれている。
おれはアルの顔を見るが、表情に変化はない。
その後も順々に捲っていき、最後の10枚目のカードをアルが手にした。
現れたのは2頭のユニコーンが車を引いている図柄だった。
「なるほど…」
そう言ったアルの表情はなぜか満足げだ。
「…どうでしょうか?」
エメラダは控えめに問うた。横ではアンナが両手を握りしめている。
「うん、じゃあ結論から言うけどね」アルは最後の、ユニコーンのカードをエメラダの前へ置いた。「原因はヤモリさんだ」
「え?」
思わず皆が声を上げた。
「ヤモリさんの気まぐれだよ」
「でも…パンがなくなっているんですよ?」
「それも気まぐれなんじゃない?」しれっと言ってのける。「たまにはパンが食べたい時だってあるよ」
なんだこの…適当ぶりは。いい加減にもほどがある。おれは一気に心配になった。
エメラダも唖然としている。
だけどアルは構わず続けた。
「エメラダ」名を呼ぶ声は低かった。「学院祭の責任者である君にとって、今一番大事なことは何?」
今一番大事なこと。それは「…学院祭を無事に開催することです」
「だよね」エメラダの答えにアルは頷く。「そのためにはもう今更原因やら犯人やらを探したところでしょうがない」
依頼内容そのものを否定するという、とんでもないことを言い出した。
「むしろそれが明らかになることで学院祭が中止される恐れもある」
「でも…」
「これ以上大変なことが起こるかもしれない、それが心配?」
「…はい」
エメラダは伏し目がちに返事をする。
「大丈夫」アルは1枚のカードを手に取った。笛が描かれている。「これ以上の事は起こらないだろう」
おれにはカードの意味はわからない。だがアルの声には有無を言わさず「そうなんだ」と思わせるものがあった。
「何かあったとしても、もうあと3日だ。強行突破で行けないことはない。いや、むしろ行くしかない」
アルの勢いに押されてか、エメラダは小さくコクコクと頷く。
「手紙はいたずらだから、気にしなくていいからね。ということで、紛失事件はヤモリさんに罪を被っていただこう」
なんということだろう。ばちが当たりそうだ。ヤモリさんごめんなさい。
アルは破れた手紙を手に取った。
「これのせいで君はとても気味が悪い思いをしただろうけど、こんなもののせいで君が迷ってはいけない。君が迷うとみんなが不安になってしまう」
厳しい言葉だった。その言葉にエメラダは視線を上げて、アルを見つめている。
「大丈夫だよ。心配することはない。ひとつもだよ」
力強い言葉だった。アルはエメラダをまっすぐに見つめ返している。
「君は間違っていないから。信じたいものを信じればいい」
優しい声に、エメラダの表情がわずかに歪んだ。
「…はい」
エメラダのかすれる声に、アルは微笑んでみせた。
常々、思っていたことがある。
ユイは魔女に向いていない。
それはユイとばあさん、ふたりの魔女をずっと見てきて感じたことだった。
ばあさんは天性の魔性を備えた、魔女が天職のような人だったから。
そして今、アルを見て思う。
ばあさんは後継者選びを誤ってしまったのではないか、と。
台所の窓から注ぐ光が、優しいオレンジ色を帯びてきた。
女の子たちはそろそろ学校に戻らないといけない。
おれはエメラダの足に湿布をするべく、ユイ特製の薬の準備を始めた。
「ほんとにユイはどうしたんだろう?」
アルが時計を見ながら呟いた。
ユイはまだ来ない。本当に何かあったのかもしれない。
この子たちが帰ったら、おれもすぐに帰ろうと心に決める。
「ねえ、アンナ」カードを片付けていたアルが突然呼びかける。「湿布薬作ってる間に占ってあげようか?」
「え?」
急に話を振られたアンナはきょとんとしていた。
「ちょっと時間かかるしさ。俺、実は今、手相に凝ってるんだよね」
どうやら自分が占いたいだけのようだ。
「恋愛運とかどう?っていうか、手相見せてほしいな」
「あら、いいじゃない」
乗り気なのはエメラダだ。
「え?…あの、」
「よし、やろう!あ、みんながいると恥ずかしいよな。店のほうへ行こう!」
顔を真っ赤にしてあたふたするアンナを、アルは半ば無理矢理連れて行ってしまった。
そんなやり取りを、おれは台所で作業をしながら聞いていた。
薬を持って再びリビングに戻ってくると、エメラダは「アルさんって、面白い方ね」と笑った。
「ただの変人だ」おれは薬を練りながら言う。「それにしてもあんなのでよかったの?」
「あんなの?」
「占いだよ。エセ占い師のインチキ占いだぞ」
結局、エメラダの知りたかった事件の真相はわからないままだ。
「なんだかうまく丸め込まれた気もしますね」
やっぱりな。
「でも、いいんです。いいことにします」
本人がいいんなら、外野がとやかく言うことじゃない。だけどなんだか自分に言い聞かせるような言い方なのが気になった。
「私はたぶん…」エメラダはテーブルな視線を落とした。「自分の中にある不安を否定してほしかったんだと思います」
おれは手を止めた。
エメラダがこっちを見ている。
その目は迷っているように見えた。このまま話すべきかどうか。
話したいんじゃないかな。なんとなくだけど、そう思った。
その時、アルが言っていたことがぼんやりとだがわかった気がした。
何の関係もない他人。まさしくおれのことだ。
…しゃーねえな。魔女じゃないけど、このまま聞かないわけにはいかない。
「話したいなら話せば?」
エメラダは申し訳なさそうに「…ありがとう」と微笑む。
そして、告げた。
「紛失事件が起きた教室を現場検証に行った時、…アンナの人形が落ちていたんです」
「人形って…プッチー人形?」
エメラダは頷いた。
そこは普段アンナが立ち寄ることのない教室だったらしい。
「その時私は思ってしまった」エメラダは無表情に言った。「アンナだったら、納得できるって」
「え?」
「あの手紙、アンナが書いたものだったら納得できるな、って思ったんです」
至って落ち着いているエメラダに対して、なぜかおれのほうがそわそわしていた。
「何よりも私のことを一番に考える子だから」
脳裏に手紙の文面がよぎった。
言われてみると、確かにあの手紙の送り主はエメラダのことを大事に思っている、とも取れる。
「…疑ってんのか?」
言葉が悪い。だけど、そういうことなんだろう。
「私はアンナのことは信じています」
間髪入れずに返ってきた答えは、微妙におれの質問とずれている気がした。
「アンナは私の侍女の娘なんです」
突然話が飛んだ。が、とりあえず黙って話に耳を傾ける。
エメラダとアンナは同い年で、生まれた時からの付き合いだそうだ。エメラダの父親は、勉強のできたアンナをエメラダのお付きとしての役割も兼ねさせて、ジンカハニスに入学させたという。
「それこそ、姉妹同然で育ってきました。だからお互いのことはよくわかっているつもりです」
アンナはエメラダを大事に思っていてくれる。そのことを一番よく知っているのはエメラダ自身だった。
「アンナを信じているから、疑ってしまうんです」
ふいに、野犬に襲われそうになった時のふたりが頭の中によみがえる。あの時、アンナは必死にエメラダを抱きしめていた。
「それに、あの手紙のように私のことを思ってくれる人、この学校にはアンナのほかにいませんから」
…よくわからんけど、女の世界はいろいろあるんだろう。
「じゃあ、あんたはアンナが隠したり盗んだりしたって、思ってんの?」
おれの率直な発言に、エメラダの表情が翳った。
「そうは思っていません。アンナはそんなことするような子じゃありません」
「でも、現場にアンナの人形が落ちてたんだろ?」
「はい…。だから…わからないんです」
そもそも、手紙と紛失事件が繋がっているのかもわからないのだ。だけど人形を拾ってしまった瞬間から、エメラダの中ではどうしてもふたつが結びついてしまうらしい。
「人形を現場に残したのは、他の人かもしれません」
アンナに対する嫌がらせかもしれない、と言いたいのだろう。
エメラダは苦い表情を浮かべた。「世間知らずだったんです。私も、父も」
お嬢様学校に紛れ込んでしまった庶民のアンナは人間関係に苦労しているらしい。これまでも散々、嫌がらせや陰口などもあったようだ。
みんなと違うということは、いとも簡単に排除の対象になりうる。それは人間でも、動物でも同じだ。
そのことをおれはよく知っていた。
「アンナは私に何も言いませんけどね」
言えないだろう。おれなら言わない。心配かけたくないし、悲しませたくない。
「まあどれもこれも私の想像で、はっきりしたことは言えませんが…」
はっきりしているのは、①エメラダに変な手紙が届いたこと、②紛失事件が起きていること、③その現場でアンナの人形が見つかった、ということだけだ。
ちなみに拾った人形は、その直後こっそりアンナの鞄に突っ込んでしまったらしい。
「アンナに訊いてみようとは思わなかったのか?」
「そんな…訊けませんよ。……訊けますか?」
おれは少し考える。そして「無理かも」と答えた。
近すぎて訊けない。一番近くにいる人だから。
おれだって、他の人には訊けても、ユイには訊けない気がする。
エメラダが悶々としているうちに看板がなくなり、事は大きくなってしまった。そしていよいよ意を決してここへ来たというわけだった。
「なんでアンナを連れてきたの?」
アンナは自分がエメラダに疑われているとは夢にも思っていないだろうし、エメラダもそのことをアンナに悟らせるつもりはない。だったらひとりで訪れたほうが楽だったはずだ。
「初めはひとりで来るつもりでした。アンナを巻き切れなかった、ってのもありますけど…」
エメラダが言いよどむ。
「…何?」
「…もし、もしもそうだった時に、学校の外のほうがアンナと話をしやすいなって思ったんです」
それは、エメラダがアンナへの疑いを捨て切れていないことをはっきりと表してた。
わからなくはなかった。人の目なんてどこにあるのかわからない。説得するにしても、もみ消すにしても、そのほうがいい。
「…最低ですね」
自嘲するような呟きだ。
「…そんなことねーよ」
慰めではなくそう思った。つまりはエメラダはアンナが大好きなんだ。だから、こんなに悩んでる。
俯くエメラダから、雫が零れていることに気づいた。
こういう場面には慣れていないので若干焦ってしまう。ハンカチは持っていない。とりあえず、救急箱に入っていた手当用の白い布をエメラダに手渡した。
「…ありがとう」
目の周りを赤くさせたエメラダは布で涙を拭いた。
掛ける言葉が見つからず、どうしていいかわからないおれは必要以上に薬を混ぜ続けた。
「学校に入学した時に」落ち着いてきたエメラダが、再び喋り出した。「これでやっとアンナと本当の友達になれるって思ったんです」
周りの大人たちがいる環境では、いくら仲がいいと言ってもエメラダとアンナの関係はお嬢様と使用人の娘だった。
「だけどいつまでたってもアンナにとって私はお嬢様だった。呼び方も『エメラダ』に変えてもらったんですけど、それもなかなかアンナは慣れなくて…」
エメラダが小さく笑う。
「でも、私がきっとそうさせてたんでしょうね。信じてるって言って疑ってるような人、上辺だけで信用できないって思われても仕方がない…」
再びエメラダの涙が溢れる。
おれは友達がいないから、友達というものがどういうものかよくわからない。だけど、さっき笑い合っていたふたりは本当に楽しそうで、十分友達に見えた。
でも何にも知らない、わかってないおれがそんなことを言ったところで、エメラダの涙を止められる気はしなかった。
そしておれはふいに、うらやましいな、と思ってしまった。こんな風に泣いてくれるエメラダのいるアンナが。
これがエメラダの抱える本当の「人に言えない困りごと」だった。
渡してしまった布が最後の一枚だと気が付いたのは、エメラダの涙が完全に止まった後だった。布がなくては湿布ができないので、アルにもらおうとおれはリビングを出た。
気分が重い。足取りも、当然重い。
安易に人の悩みに首を突っ込むもんじゃないな。
食堂の厨房に入ると、そこにはメアリさんがいた。厨房から客席のほうをじっと見つめている。
その姿にさっきのことが思い出され、おれの中で一言申し上げたいという気持ちがむくむくと湧いてきた。
あれは本当にどうかと思う。使い魔全体の信用に関わることだ。
意を決して、おれはメアリさんに近づいた。
後から思えば、乱れた心がおれの行動を大胆にしていたのかもしれない。
声を掛けようとしたその時だった。
「誰からもらったの?」
穏やかな、よく知った声が耳に入る。
「知らない女の人です。…町に買い物に出た時に、道案内をしてあげて…そのお礼に…」
か細い声が質問に答えた。
おれはメアリさんの視線の先を追った。
アルとアンナがいる。それは当たり前だった。ふたりは店で手相占いをやっているのだから。
だけどふたりは手相など見てはいない。客席の真ん中あたりで立ったまま何か話している。
アルの手にはプッチー人形が握られていた。
「どんな女の人?」
「…よく、憶えていません。白い服の、髪の長い…背の高い人…だったと思います」
自信がないのがよく伝わってくる答え方だった。
「もしかして」アンナの声が震えている。「さっきの犬も、その人形が何かして…」
「この人形にそこまでの能力はない。犬は偶然だと思うよ」
なんとなくだけど、今、アルは嘘を吐いた、と思った。
「私、本当に知らなくて…!」
アンナが泣きそうな声でアルを見上げる。
「だろうね」
その声はアンナとは対照的でどこまでも冷静だ。
「それでも知らないうちに君の願いがこいつに命を吹き込み、こいつは君の願いを叶えるために動き出してしまった。そういうこともあるんだよ」
…。聞いてはいけないことを聞いてしまった。
ここにいてはいけない。戻ろう。
ゆっくりと慎重に後ずさりをする。そうしているつもりだった。
しかし動揺していたのか、思いっきり作業台に足をぶつけてしまう。
「っん!!」
寸でのところで声を出すのはとどまったが、それでも厨房にはぶつけた音が響き渡る。
おれはそっと振り返った。
ふたりがこちらを見ている。
「…悪い。邪魔した」
とっさに出たのはそんな言葉だった。
すると顔を真っ赤にしたアンナは「私、表で車拾ってきます」と言って、店を飛び出して行った。
「…どういうこと?」
思わずアルに詰め寄る。
「今聞いた通りだよ」
アルはそう言って、客席のテーブルに人形を放った。
何か硬い音がしたと思ったら、人形の腹が裂かれていて、黒い小石が人形の横に転がっている。
「…黒曜石」
石の表面に幾何学的な模様が浮かび上がっている。
この石が、模様が何なのか、おれは知っていた。
昔、竜が人間や動物を操る時に使っていたのを見たことがあったからだ。
メアリさんがテーブルの上に飛び乗った。黒い小石を前足でつつく。
…そうだ。腐ってもメアリさんだ。
メアリさんが何でもない人形を拾って来るはずがない。気まぐれに依頼人の手紙を破ってしまうはずがなかった。
おれは小石をつまみ上げ、鼻に近づける。
ツンと刺激臭が鼻を衝く。
「…くさい」
それはまぎれもなく邪悪な魔法のにおいだった。