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猫とカラスと雨の森  作者: 夏川サキ
episode 1 朝靄の君
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「うん、今日もかわいいよ!ユイ」

 ビゼは僕の全身を隈なくチェックする。

 今日の格好は春らしい若草色のワンピース。髪はサイドでゆるく編み込んで後ろでまとめている。

「ありがと、ビゼ」上着を羽織りながら答えると、これは言っておかなければ、と思うことが次々頭の中に浮かんでくる。「あ、今2階にある分だけど、日が高くなったら外に干しておいてくれる?」

「わかった」

「何か依頼が来たときはすぐに…」

「すぐに知らせるって。いつもそうしてるだろ?」

「そうだね。あと…」

「ユイ」

 ぴしゃりと名前を呼ばれ、僕はビゼを見た。

 眉間にしわが寄っている。まずい。

「…はい」

 僕は短く答えた。

「毎朝このやり取りするの?少しはおれを信用して?」

「…はい。ごめんなさい」

 素直に謝ると、ビゼはため息交じりに苦笑した。

「早く行かないと。アルが待ってるよ?」

「うん。…じゃ、行ってくる」

 僕はそそくさと鞄を肩に掛けた。これ以上ここでまごついていたら、ビゼが本当にキレてしまう。

 だけど僕は知っていた。いくら激しいケンカをしても、ビゼはこれだけはいつも元気よく、満面の笑みで言ってくれることを。

「いってらっしゃい!」

 おおむねいつも通りのやり取りを経て、僕はまだ薄暗い森へと出て行くのだった。



 夜明け前のこの時間が、1日の中で1番好きだ。

 そのことに気が付いたのは、ほんの最近だった。

 無理もない。今まではこんなに早起きをする習慣なんてなかったのだから。

 僕が住むのは深い森の中。町の人たちは「暗がりの森」と呼んでいる。その名の通りこの森は暗い。まあ森なんて、大抵どこもそうだろうけど。

 僕は小さい頃からずっとここに住んでいて、森の中はいつも静かだと今までずっと思っていた。だけどそれが思い違いだったことに最近気が付いた。鳥の声、風の音、木々の葉擦れ、いろんな音があふれている。昼間はもちろん、夜だって。

 それが、夜の闇が少しずつ薄れてきて、でも太陽が顔を出すまでにはまだ時間が少しある、というこの時間だけはなぜか消える。本当の静寂だ。

 昨日1日中降っていた雨は、夜中には上がった。けれど木々からはぽたぽたと雫が落ちてきて、まだ雨が降っているみたいだ。湿気のせいか、森の中は少し靄がかかっている。

 何を見るともなしに頭上を仰ぐと、暗い森と靄の隙間から、ほんのり明るくなりつつある空が見えた。天気は回復していきそうだ。ここ数日ぐずついた天候だったせいで仕事がたまっているから、晴天が待ち遠しい。

 足元の径もぬかるんでいる。僕はいくつもできた水たまりを軽い足取りで次々に飛び越えていった。次に足を置く場所を瞬時に見極めて、テンポよく足を運ぶ。無心でそれを繰り返していると、なんだか楽しくなってくる。夢中になっていると、いつの間にか森の出口にまでたどり着いていた。

 振り返ると、水たまりの間の泥には自分の足跡がしっかりと残っている。足元に目をやると、気を付けたつもりだったのに靴が結構汚れていた。朝から調子に乗って、径も靴も荒らしてしまったことにちょっと恥ずかしくなる。でも、まあいい。この道は今はもうほとんど僕しか通らないし、靴は拭けばいいだけのことだ。

 こんなに楽観的になれるのも、朝のせいだと思う。ううん、まだ朝にもなり切っていない夜と朝の間のこの時間のせいだ。

 森を出て、海沿いの道を歩いて行くとすぐに町に入る。そうすると、目指す兄の食堂はすぐそこだ。

 町も今日は朝靄に包まれていて、なんだか少し神秘的な雰囲気だった。

 僕はいつもこの場所で上着のフードを被る。

 早朝という時間的にも、町外れという場所的にも、人通りはほとんどない。しかも今日は見通しが悪い。なのにここまでくると、僕は上着のフードを目深に被らずにはいられない。でないと落ち着かず、変な汗が噴き出してくるのだ。

 フードを被って、気持ちが落ち着いた僕は防波堤の上を歩きだす。お気に入りの通勤路だ。毎朝ここで海を見ながら歩いて行く。


 しかし今日は予想外のことが起こった。

 先客がいたのだ。


 海に向かってたたずむ人影は恰好からしてたぶん旅人だろう。旅行用のしっかりした外套に、大きな旅行鞄を肩から斜め掛けしている。僕と同じように外套のフードを目深にかぶっているから、顔はよく見えない。男か女かもよくわからない。背は高い。僕よりも多少高い。

 少し先にいるその人物を確認し、僕は動けなくなった。


 僕は極度の人見知り。

 人と目を合わせられないどころか、顔を見られることにすら抵抗を感じてしまう。


 まさか人に会うとは思っていなかったので、不意を突かれたその衝撃と、この後自分はどうすればいいのかというあせりで、額にじんわりと汗がにじんできた。

 防波堤の上は狭いが、人がふたり行き違えるくらいのスペースはあった。だけど近い。お互いの存在を意識せずに通りすがることは不可能だ。

 仕方ない。今日はここを通ることは諦めよう。

 そう思って、防波堤から下の道へ飛び降りようとした時だった。


 目の前のその人が、両手を大きく広げて深呼吸をしているのが目に入った。

 その名の通りの、深呼吸、だった。

 深く、深く、体の奥底まで隅々まで朝の空気を送り込むかんじ。

 その仕草がなぜか、まるで朝靄の中に溶けていきそうだった。

 そしてその人は腕を下すとそのまま、海を、遠く、遠くを見つめた。

 表情までは見えないのに、なぜかその横顔から目が離せなかった。


「おはよう」


 完全に不意打ちだった。

 相手が自分に気が付いているなんて、思ってもみなかった。


 あ、女の人だったんだ。


 一番初めに思ったことはそれだ。

 軽やかな、張りのある声。


「…おはよう、ございます」


 なんとなく返事をしていた。

 相手に比べ、自分の声は小さく、ひどく弱々しい。

 彼女はゆっくりとこちらに近づいて、笑いながら言った。

「おそろいみたいだね」

「え?」

 間の抜けた声を上げる。頭がうまく働いていない。

 彼女は右手で自分と僕を交互に示す。

「私たち、似たような格好だね」

 言われてみると、ふたりとも同じような黒っぽい上着を羽織り、そのフードを被っていた。

「ほんとだ」

 思わず、つぶやくように漏らす。他人と服がかぶるのは、なんだかはずかしい。

 すると彼女はくすくす笑いながら被っていたフードを取った。

 フードから流れ出るのは、ゆるいウェーブのかかった暗い色みの髪。

 露わになった顔にちらりと視線を走らせる。切れ長の目元が涼しげだ。まだ薄暗い中では、大きな瞳が明るい色をしていることだけがわかった。年の頃は僕よりも少し年上のように見える。20歳すぎくらい。

 なぜか、氷のような、抜き身の剣のような印象を受けた。硬質な、冷気すら孕んだ鋭さ。美しい人だ、とも思った。そのことに気づいたら、もう顔を見ることはできなかった。

「あなたも散歩?」

 彼女は少し首を傾けて訊ねた。肩まである豊かな髪が揺れる。

 僕は小さく頭を振った。「これから、仕事」

「すごく早いのね」

「…食堂なんです」そう言って、これではわからないと思い、付け足す。「朝から営業してるから」

「へえ!食堂!」

 声色が高くなる。どうやら興味を持ったらしい。すると鋭利的な印象だった雰囲気が柔らかくなった気がした。

「どこにあるの?」

「えっと…、この道をずっとまっすぐ行けば…青い屋根の店があるから…」

 馴れない説明にもごもごしていると、彼女は質問を重ねた。

「店の名前は?」

「き、霧雨亭」

「……霧雨亭?」

 その声にそれまでとは違った色を感じ、僕は彼女の顔を盗み見た。

 彼女は眉をひそめて何か考え込んでいる。

 急に僕に向き直った。

「もしかして…ここってザッカリー?」

 口にしたのはこの町の名前だった。僕はこくりと頷く。

「そっか…、ここだったんだ」

 彼女は小さく呟いた。

 どうやら彼女はこの町の人間じゃないらしい。

 そしてここがどこなのかもわからずにいたらしい。

 だけど、ザッカリーという地名とうちの店の名前は知っていた。

 ………どういうこと?

 僕の胸の中に若干の不安が頭をもたげる。

 彼女は更に何かを考えるような顔つきになり、海のほうを向いた。

 僕が気になることを訊ねていいものかどうか思案していると、「ねえ…、このあたりに灯台があると思うんだけど…、どこにあるのか知らない?」

 訊ねる口調はおそるおそるといった感じだ。そのことは不思議に思ったが、質問に答えることは簡単だった。

「この森を超えた…向こうの岬」

 僕は背後にある暗がりの森を、つまり、自分の住む森を指した。

 森の向こうに灯台がある、と聞いたことはあった。ただ、僕は行ったことはない。

 彼女は森を見つめていた。いや、凝視していた。

 その目はもう決意しているようだ。

「…行くんですか?」と、思わず訊いてしまう。

「うん」と、即答だった。

「…ひと気のない所…なんです。…森も、岬も」

 彼女の決心に水を差すようなことを言いたくはなかったが、一応、伝えておくことにする。森の先に民家はない。うちの家が最後だ。

 僕の忠告に、彼女はふっと表情を和らげる。

「心配してくれてるの?」

「…本当に淋しい場所だから」

「ありがとう」彼女は僕の目をまっすぐ見ている。僕はその時初めて彼女の視線を正面からしっかりと受け取った。

「でも私、行かなくちゃ。ずっと行きたかった場所なんだ」

 彼女は迷いなく言い切った。

 その決断力に感服しながらも、僕は内心首を傾げる。なんの変哲もない普通の灯台だと思っていたが、有名な場所なのだろうか?

「あ、戻ってきたらあなたの食堂に行ってもいい?」

 それまでのどこか真剣みを帯びていた空気が緩んだ。彼女はとてもいい思い付きをした、というふうに声を弾ませている。僕は再び視線をさまよわせた。

「でも、昼過ぎには店閉めるから…」

 うちは朝ごはんと昼ごはんを提供している店だった。

「わかったわ。じゃ、いそがなくちゃね!」

 彼女は早速今から灯台へ行くつもりらしい。

「…気を付けて」

 それが僕が言える精一杯だ。

「うん。いろいろ教えてくれてありがとう」

 そう言って彼女は右手を差し出した。一瞬遅れて握手を求められていることに気が付いた。

 馴れない行動におずおずと手を出すと、彼女の手が力強く僕の手を取る。思ったよりも小さいその手は、ひんやりしていた。

「またあとでね」

 にっこり笑った彼女は、最初の印象よりもずっと幼く見えた。

 ゆっくりと手が離れ、彼女は堤防から飛び降りた。まるで猫のような身軽さだった。手を振りながら僕の横を通り過ぎて行く。僕の目は彼女を追っていた。

 …なんだか、不思議な人だなあ。

 後姿を見ながら、そう思った時だった。

 森を目指す彼女の後ろ姿が傾く。

「えっ?!」

 思わず声が出た。足も動いた。

 何かを考える前に堤防から飛び降りていた。そしてふらりと倒れる彼女の体を支えようと、僕の両手が伸びていく。

 だが、非力な僕の力では支えきれず、「あっ、えっ、うわあ!」と、声を上げながらふたりでそのまま倒れこんでしまった。

「ちょ、ちょっと、大丈夫ですか?!」

 何とか彼女を仰向けにする。

 その瞳は固く閉じられていた。今まで気が付かなかったが、近くで見るとなんだか顔色が悪いような気がする。

「え?なんで?今の今まで元気にしていたのに…」

 一人うろたえる僕に彼女は何も返してくれない。さっきまであんなに饒舌だった唇は動こうとしない。


 太陽が昇るまでもう少し。

 朝靄の漂う静かな町で、謎の女性を抱えて、僕は途方に暮れていた。


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