プロローグのようなもの
灰色の空の下。生ぬるい風が、屋上にいる俺の髪を持ち上げる。
心は落ち着いているのに、怖い所にいるのだと本能は感じているようで、高いところは嫌いではないものの、どうしてか足がすくんでしまっていた。
俺がこれからする行為を断念したとしても、自分のことを臆病者だと罵る者はいないだろう。
むしろ、やめたほうが多少なりとも喜ばれるかもな。
そして、余分な想像をすることになるけれど、新聞やニュースなどのマスメディアは『遠野学園女子生徒、全身を強く打って死亡』とでも書き取り上げるのだろうか?
――でも、能力者のみが集う学園での自殺は、それほど珍しいことではないらしい。
いや、能力者だけが集っていようがいなかろうが関係なく、自殺そのものはどこにでも存在しうる。
それは確かに誰かの終わりであり、生きている人間にとってはほんのわずかの間日常が非日常に変わるもの。
なんでこうなるのかについての理由は様々だろう。俺はその中に埋もれることになる、いや、おおいに埋もれて結構だ。
全身を強く打ってという表現はからだがばらばらになることを暗喩していて……高い所から落ちただけで本当にばらばらになるのだろうか?
まぁ、なんにせよ、俺はこれから様々な人間にトラウマを植え付けて、片付けが大変な死に方をするんだな。
臨死体験は幼いころに一度経験をしたようなしていないような、そんなぼんやりとした記憶。
いいや、過去を振り返ることは今必要なことではない。こんなときだから少しくらいは振り返るべきことなのかもしれないが、思い出している時間が惜しい。つーかさ、走馬灯として振り返ることができるじゃないか。
あとはただ死ぬだけだ。痛いことや怖いことは、すぐに終わる。
ふと、自分自身が笑っていることに気が付いた、何故、どういう意味で笑っているかは、自分でもよくわからない。だから、笑ったまま死ぬことにした。
飛び降りる。風をうけて、心なしか体が軽くなるような気持ちになりながら落ちていく感覚――迫り来る地面、いや、迫っているのは自分自身……。実質16年ってのは、多分短い人生だったな。
イレギュラー。目を閉じた訳でもないのに、突然世界が暗くなって、次の瞬間には視界が切り替わり、体は正面からベッドの上に落ちていた。
ベッドが落下の衝撃をすべて受け止めてくれたわけではなく、からだのあちこちに痛みを感じながら、仰向けになる。
天国も地獄も選ばせてくれなかったし、選んでいる暇もなかった。
しかし、何故だ。
「なぁーゆぅーたぁー?」
その疑問は、ベッドまわりのカーテンを引きながら、やけにゆっくりと名字を呼んできた奴の声を聞いてすぐに解決した。
仰向けの状態から体勢を変えて、ベッドに腰かける。――そもそも、ベッドのある教室なんて一つくらいしかないから、早々に察しはついていてもおかしくなかったのだが……要するに、
「邪魔するなよ、納谷」
乱暴に出た結論を、この教室の担当である納谷怜衣にぶつけると、ちょっと長い溜息の後に口を開き、
「邪魔するな、じゃねぇよバカが!今俺の考えを読んでみろ、どれ程心配したのかが伝わるはずだ!」
ごつんと、頭に握られた拳と言葉をぶつけられた。つーか、教師としてその口の悪さはいかがなものか。
「うるせぇバカ!いってぇな、なにすんだこの野郎!」
できるわけがないだろうということは口には出さず、とにかく罵声には罵声で返したものの、お互いを睨みあい、沈黙が流れる。
精神感応能力と瞬間移動(空間転移ともいえる)の二つを持っているこいつは何気に厄介で、まぁそんなだからこんなことも起きたわけで。わざわざ声に出さなくても会話的なことはできなくもないが、それはおいといてもうただただうぜぇとしか言いようがない。うぜぇ。
「……そんなに俺を厄介者と思うのなら、先に俺を殺してから死ねば良いだろうが。そうすれば少なくとも飛び降りて死ぬことはできるぞ」
言い終えた後、保険医は顔を横にそらした。
「はっ、いいよ、殺せよ。お前の硝子を扱う能力で作った剣でも鈍器でもなんでも来いよ、心臓でも脳でもいいから刺せよ」
なに言ってんだこいつ。
「あんたは殺せない。そうだな、凶器は自分で作り出せたんだ……だから……いたっ」
気付いたことを言い終える前に、保険医にまたグーで頭を小突かれた。
「俺ではなくもっと厳しい奴なら、寮へ謹慎する判断を下す……心を読む能力をもった人間が俺だけで良かったな」
真剣な表情と声音、その言葉の真意が読み取れないほどに子供ではない俺は疑問が浮かんだ、
「見逃す理由は、それだけなのか?」
「ほかにもある。全部は言わないが……そうだな、俺が那由多みたいな生徒が好きだからさ」
おそらく、一般的な純真無垢か恋愛脳を持ち合わせている程度の少女なら卒倒するかもしれない程度のさわやかな微笑を納谷は浮かべる。
ここで胸が高なるとか、頬が紅潮するとかした場合、容赦なく安いラヴコメディになるのだろう。
「は?」
現実の反応としては、これが一番妥当なものだ。
きもい。単純にこれはなしだ。なぁ、マジで何言ってんの?
「ほらな、こうなる!」
実際の反応と心の中の内容がほぼ同じってことがわかっている保険医に至っては、声を荒らげてもさわやかな笑みを浮かべたまま、でも、よくみたらその目はちょっと泣きそうになっていた。
「……十代の複雑な心が好きなのか?」
自分で複雑と言っていいものなのかはよくわからないところだが、保険医は弱々しく首を縦にふる。
「そういうことにしといてくれ……ああ、お前の胸はDなのか」
……は?
こいつ、俺はそんなことをここに来て考えたことなんて一度もないぞ!?
「揉ませろ」
混乱している俺にむかって、ゆっくりと手を伸ばす保険医。
「別に……いいけどさ……」
「えっ」
恥ずかしさに顔を赤らめながら、俺は保険医をみつめる。
そうだ、好意のある人間にさわられるくらいなら別に……。
「バカめ。そんなふうに考えるとでも思ったか! 触った途端にセクハラした事実を訴えに教務室に駆け込んでやる。それから女子のバストサイズを読んでいましたってチクってやる」
唖然とした保険医に、勝ち誇った笑みを浮かべると、
「お、大人をからかうんじゃあない!」
怒られた。
「それと、この時間はずっと保健室にいたことにしてやるから、もう出ていけ!」
言われなくてもそうしてやるよとベッドから立ち上がろうとしたら、また視界が一瞬暗くなって、ぺたんと廊下の床に尻もちをついていた。つまり座った姿勢のまま保健室の外に追い出されたなこれ。
「あの野郎」
スカートの埃を払いながら立ち上がり、保険医になんのダメージもないものの扉を睨み付けた。
この時間に入れる教室は……空き教室にいるわけにもいかないな。
窓の外を見る、晴れていれば植物を操る学生が管理を任される中庭にでも行っていたところだが、保健室にいる間に雨が降っていた。授業で使っている学年がいないことを祈りながら、図書館に向かって歩いていたとき、向かい側から歩いてくる人物がいた。
その人物は、闇を体現しているような漆黒のロングコートを羽織って、長い銀髪を後ろで一つに結い、表情は前髪で隠れていて見えないものの、口許にうっすらと笑みを浮かべながら立ち止まった。
「おい、授業はサボるんじゃねーぞ……って、俺も昔はよくやったから言えたもんじゃねぇな」
……俺は多分、この人をどこかで見たことがある。しかし、詳しくは思い出せない。
「……小娘。葬式のときよりもでっかくなったなー」
「あんた……誰だ?」
葬式……。いつかの小さい頃に、確かそんなことがあった……とは思ったものの、こんな人はいなかったような……?
とにかく記憶がおぼろげなことに変わりはなく、今はこの人の正体を知りたい。
「きひひひっ、今はまだ内緒にしとくぜ」
人を小馬鹿にするような笑い方、質問には答えてくれないようだ。
「そうだ小娘、帰り道には気を付けろよー」
次にまばたきをしたとき、銀髪の女はいなくなっていた。
――今のは、なんだったんだ?