四 再来
「行きましょう」
木田葉子を促し、高原は階段を一階ロビーまで降りる。
演奏会会場から出てきた客たちが行き来する中、正面出口近くまで来たとき、高原は木田の少し前に位置を変えて、行く手が重なりそうな一団・・・・視界の右端から入ってきたオーケストラ団員たちの一群へ目をやった。 男女数人が楽器のケースを持ち、談笑しながらロビーを横切り知人のところへ行こうとしている様子だが、最後尾の男性・・・やはり他の団員同様に黒いシルクのシャツに黒いスラックス姿で肩からフルートケースを下げた・・・その男性が、大きく美しいユリの花束を、すれ違いざまに高原のほうへと、わずかに傾けるようにした。
白い大きな花弁の向こうで、金茶の波打つ髪を黒く染め、しかし高原の記憶から消えることのない不敵な茶色の両目をした刺客が、高原の顔を正面から見据え、残虐な微笑を浮かべた。
しかし今度は、繊細な刃物は高原の体も衣服も切り裂くことはなかった。ユリの、茎から切断された優美な花が三輪、ゆっくりと宙を舞い、赤い絨毯の床へと落ちる。
クライアントを背後にしたまま身をかわしたボディガードの、逆手の左手に銀色のナイフの柄が捉えられ、深山の右手からねじ切るように凶器が引きはがされた。
軌道を変えられ、花束を中央から貫いたナイフは、高原の襟元をかすめたところで止まり、そしてそのまま、目的を達成することも持ち主のところへ戻ることもなく役目を終えた。
高原は、刺客を一瞥しただけで、そのままホール正面出口へと歩き、車寄せまで来ていた木田葉子の父親の車まで到達した。
「木田さん、こんばんは。」
車の助手席を開け、木田葉子を乗せる。
「高原さん、いつもすみません。」
「いいえ。お気をつけて。」
木田葉子とその父親を乗せた車が、ホールを後にし走り去った。
刺客とボディガードとの短い二度目の逢瀬が行われた後の現場で、背の高い一人の観客が、床に落ちたものを拾い上げていた。
「・・・・二度目も、失敗か・・・。」
龍川は、深山が歩き去った方角を、口惜しそうに見た。
深山は、かなり長い間考えた後、意を決したように、ホール向かいの都市公園へと向かった。
演奏会が終了しひとしきり経った、深夜と言うに近い時刻を迎え、公園は静まりかえり、林の中の広い人口の池につくられた噴水の音だけが響いている。
噴水前で、立ち止まった深山は、池の淵に腰かけてこちらを見ている人間を見て少し距離を置いて立ち止まった。
「・・・どういうこと?僕に、ここに、来いなんて。」
深山の質問に、相手はすぐには答えなかった。
「もう一度聞くよ。それでも答えないなら、すぐに戻る。」
高原がゆっくりと立ち上がり、こちらを見た。ゴーグル越しにも、その知的な両目が微かに楽しげな微笑みをよぎらせているのがわかった。
「本当に来てくださるとは、正直思いませんでした。嬉しいです。」
「さっき花束に顔を隠して、僕にささやいた言葉が、あんまり魅力的だったから。」
「あははは。」
「・・・で、どんな秘密を打ち明けてくれるの?」
「ホントに、話しをしてもいいんですか?」
「だめだよ。通信機器を、渡してくれる?」
「・・・かまいませんよ。」
高原は、ヘッドフォン型携帯電話と、内ポケットの携帯電話の、両方を外して深山の足元へと投げた。
深山はしばらく黙っていたが、再び高原のほうを見た。
「わかった。・・・とりあえずは、信用するよ。」
「ありがとう。まず、確認なんですが、あなたはさっき、どうしてダミーの攻撃をしたんですか?」
「・・・・・」
「あんなに防ぎやすい攻撃をしたのはなぜですかと、お尋ねしているんです。襲撃のスピードは、前回とは比較にならなかった。ナイフの動き、スローモーションみたいでしたよ。」
「・・・・・」
「顧客への、ポーズ。」
「・・・・そうだよ。」
「なぜそんなことをする必要が?」
「・・・・・」
「質問を変えましょう。龍川歩武は、既に、あなたたちの顧客ではない。ある理由であなたたちは、今日で契約を打ち切ろうとしている。ただしまだ今後の方針は決まっておられない。そうですね?」
「そのとおりだよ。」
「その理由は、木田葉子に嘱託して龍川通男を殺害させたのが、龍川歩武である可能性が、限りなく百パーセントに近いからですね?」
「そう、そのとおり。」
「さらにこの先は私の単なる想像ですが・・・・龍川歩武と、木田葉子は、愛人関係にあった。いえ、いまも、ある。」
「・・・・ああ、そうだね。」
「つまり・・・」
高原はそれまで顔を少し傾けるようにして微笑していたが、すっとその笑顔を消した。
そしてその表情に、穏やかな怒りが走った。
「・・・つまり、龍川歩武は、自分の弟を、その許嫁の木田葉子に殺させた上、今度は木田葉子をも殺そうとしていた。そういうことですね?」
深山は、息を大きくついて、そして、頷いた。
「そうだよ。高原さん、あなたの言うとおりだよ。・・・全部、そのとおり。」
「・・・・・」
「あなたは、すごいね。」
「・・・私は、探偵ではありません。私のクライアントの身の安全だけが関心事です。ただ、その裏付けがあるならば、それに越したことはありません。」
「そう。」
「教えてもらえますか?」
「うちは、プロの探偵社だから。調べものは、専門領域だから。全部、わかったよ。理性で考えていたらわからなかったけど、勘を信じるっていうのは、大事だね。愛人関係の物証はなにひとつなかった。勘と想像を頼りに、彼女の友人にあたった。そして最後に、十分なシナリオを練って、彼女を騙って、龍川歩武へ直接聞いたよ。」
「そうですか。」
「全部、しゃべってくれたよ。」
「そうですか・・・。」
高原は、うつむき、ため息をついた。
「もう、この案件で、会うことはないね。」
「そうですね。」
「でも、またきっと将来、会うことになると思うから、そのときはよろしく。僕の仕事の妨げになる人間は、誰であろうと殺す。注意してね。大森パトロールの、敏腕警護員さん。」
高原が歩き出そうとしたとき、深山の携帯電話が鳴り、その発信者を見た彼の表情がたちまち強張った。
「・・・・?」
応答し、深山が携帯電話に向かって話し始める。
高原はすれ違いざまにその言葉を耳にし、立ち止まる。
「もしもし、どうなさいました?・・・・。ああ、今日はまたしても・・・申し訳ありませんでした。そのことはまた後日・・・・え?」
深山が視線を足元の芝生に落とし、そして再び顔を上げたとき、その両目に、演技ではない凶暴な光がひらめいたのが高原にわかった。
電話を終えて、深山は、高原のほうを振り返った。
「高原さん、早くこの場を立ち去って。」
「・・・・・」
「龍川が、ここに来る。貴方を確実に殺す方法を思いついたっていうから、今ここに来て話せって言ってやったよ。」
「・・・・・・」
「早く、行ってくれる?悪いことはいわない。」
高原は頷き、その場から立ち去った。
その直後、深山が振り返ったすぐその先に、龍川歩武が来ていた。
深山は体を龍川のほうへ向け、池を背にしてきちんと立ち、一礼する。
「この度は、二度にわたり失敗して、申し訳ありません。」
龍川は数歩歩みよりながら、手にしたものを深山へ示した。
「あの警護員を、排除しないと、木田は永遠に殺せないかもしれませんね・・・・。これを使いましょう。そして事務所へ直接刺客を放つんです。」
「そうですね。」
深山は、口調を変えた。
「木田葉子は、あなたを愛するがゆえに、殺人を犯した。」
「え・・・・」
「そして今も、あなたを愛し、信じている」
「・・・・・」
「いえ、もしかしたら、あなたが自分を殺そうとしていることを知っていて、それを承知の上で。」
「深山さん、なにを・・・」
「スナックで、あなたが携帯電話で話した相手、あれは木田葉子ではなく、うちのエージェントです。」
「・・・・・・・!」
龍川が、その場を去ろうと足を動かしかけた。
しかし一歩目を後ろへ踏み出すより、深山の手刀の一撃目が龍川の喉へ食い込むほうが早かった。
声もなく体を折った龍川の背後へまわった深山が、留めの攻撃を龍川の延髄へと加えた。
ここまでの二度の攻撃で、龍川を絶命させるには十分だったが、深山はまだ手を止めなかった。
公園出口へ向かっていた高原は、背後から、何かがコンクリートへぶつかる鈍い音と、その後激しい水音とを聞いた。
高原は、踵を返してもとの場所へと戻った。
噴水が音をたてて吹き上がる広大な池の、ほとりに、深山がこちらに背を向け静かに立っていた。
そして深山の足元には、上半身を池の水に沈めて、うつ伏せに龍川が倒れていた。水につっこんだ顔の下から、大量の血液が水中へと流れ出していた。腰のあたりが乗っている池の縁のコンクリートに、大量の血痕が付着していた。
深山は高原のほうを振り返った。
「高原さん、行ってくれって、言ったはずだよね・・・」
深山の表情は怒りというよりも、驚愕が勝っていた。
その視線は、高原の表情へと注がれていた。高原は、龍川を見たあと、そのまま凍るような目で深山を見ていた。
「どうして・・・そんな顔を、するの?」
「・・・・・・」
「なにか、意外?」
そして深山は、微笑みには至らない、不思議な、柔和な表情を浮かべた。
そのとき、高原の表情に、まったく別のものがよぎった。それは、ボディガードとしての、職業的なものだった。
「後ろと、左・・・。ふたり。いや、もう一人、います。」
「・・・!」
高原の言う意味を理解し、深山はかすかに身構えた。
一人目と二人目は、同時に襲撃してきた。一人は短刀を構え高原へ向かって突進し、もう一人は深山の左背後から小型の日本刀のようなもので襲い掛かった。
高原は身をかわし短刀の男の腕に両手拳を組んで一撃し、さらに脇腹への右足蹴りで昏倒させ、すぐに深山のほうを見た。
深山はナイフの抜き身で日本刀の男を迎え撃ち、足払いをかけ背後からナイフの柄で首を一撃したが、三人目が木刀で逆側から彼の襲撃圏内へ駆け込んでくるのが見えた。
二人目が倒れるのと同時に、深山は、強い力で横向きに地面へ突き倒された。三人目の襲撃者が再び木刀を振り上げる前に、深山が態勢を立て直し、下から腹を蹴り上げた。
木刀が宙を舞い、音をたててはるか後方へと落ちると同時に、持ち主が地面へと倒れて動かなくなった。
深山は、そのまま足下の地面へと目をやった。
高原が、左後頭部から血を流して、うつ伏せに倒れていた。
「・・・どうして・・・・」
血は流れ落ちるまま地面に赤い染みをつくっていく。深山は、高原の脇に跪いた。
「なぜ、僕を、かばった・・・?」
高原はまったく動かない。横向きに片方の頬を地面につけたその顔は、ゴーグルの下で、目がぴったりと閉じられ、わずかに開いた口からは、切れた口内から滲む血が微かに流れ出ていた。
大森パトロール社の事務室は、夜更けにも関わらず明々と電気がつき、中の人間たちの苛立ちを体現するように蛍光灯がときおり瞬いていた。
応接室のソファーに座る波多野は、何倍目かの麦茶を飲み干し、両膝に両肘をのせ、テーブルの上の空間を見つめた。
向かいに座る茂と葛城が、憔悴した表情で上司を見る。
「どうして高原さん・・・・連絡してこられないんでしょうか・・・・」
「知るか!絶対ありえないことだ、通常。」
「クライアントはとっくに帰宅され、高原さんとは予定通りホールで別れたんですよね。あれからもう・・・」
「・・・警護が終わってから三時間。事務所へ戻らない。連絡もない。電話もつながらない。これはもう、可能性はひとつしかない」
警護員に、緊急事態が発生した、ということである。
波多野は立ち上がった。
「警察へ、捜索願を出すよ。」
「はい。」
波多野が部屋を出て行った後、ソファーの上でじっとテーブルのほうを見つめている葛城に、茂が声をかける。
「葛城さん、大丈夫ですか・・・?」
葛城が、ゆっくりと茂のほうを見る。
力なく微笑みを浮かべ、葛城がその美しい目を瞬く。
「あいつは、今まで数多くの警護を経験してきましたが、大きなトラブルの経験がきわめて少ないだけに、逆に・・・・心配です・・・。」
「・・・はい。」
茂は、小刻みに震えている葛城の手を取り、握った。華奢な手は、氷のように冷たくなっていた。
私鉄駅に近い住宅街の、外れにあるあまり大きくない病院の、一室で、高原は治療を受けた一時間ほど後に、意識を取り戻していた。
目を覚ました高原にとって、最大の疑問は、ここがどこであるかということではなく、目の前に立ってベッドの上の自分を見下ろしている深山が、なぜ自分を救護したのかということだった。
「意識が戻ってよかったよ。公園では、死んじゃったかと思ってびっくりしたけど、さすが上級の警護員さんだね。ちゃんと芯を外したんだね。脳も背骨も異常なかったし、あと、もう一時間ほど休んだら帰れそうだね。ここはうちの協力病院だから、気兼ねなくゆっくりしてっていいよ。」
「・・・なぜ、俺を助けたんです・・・?殺すべき相手のはずですが。」
深山は厳しい表情になった。
黒の染料を落とし本来の金茶色を取り戻した波打つ髪を、右手でかき上げ、苛立ちを露わにしながら高原を睨みつける。
「僕たちは、殺人鬼じゃないよ。勘違いしないで。」
「・・・・」
「決まったターゲットは殺す。邪魔する人間も、十分な警告の上で、必要なら殺す。でも、それ以外の関係のない人間には、極力迷惑をかけないのがうちの会社のポリシー。そして君は、今は、関係のない人間だ。極力迷惑はかけない。それだけ。」
「なるほど。」
深山は、異国的な目を瞬き、高原を見下ろす。
「質問は、僕にもある。」
「・・・・?」
「どうして、僕を、かばった?」
「・・・・・」
「答えて。」
高原は唇を前歯に挟むようにして噛み、そしてしばらくして、低い声で、言った。
「・・・・人が殺されるのを、見殺しにするのは、一回だけで十分だからです。」
深山はそのまま沈黙した。
真夜中の大森パトロール社の外線電話が鳴り、応接室の電話機から応答した波多野が伝えた内容は、茂と葛城の期待と正反対のものだった。
「どこからですか?波多野さん」
通話を終えた波多野が、茂と葛城の顔を順に見て、抑揚のない声でゆっくりと言った。
「警察からだ。」
「えっ・・・」
「市民ホール前の公園の噴水で、死体が発見された。ひどい状態だそうだ。」
「・・・・・」
「身元の確認に、来てほしいとのことだ。」
「波多野さん・・・・」
「死体が、高原の社員証を所持していたそうだ。」