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一 自己都合

深山祐耶が再び登場します。高原警護員との一騎打ちです。

 夜のカフェ・バーで奥の窓際のテーブル席に若い男女が座っていた。

 女性はスーツ姿で仕事帰りらしく、少し疲れた顔をしている。痩せて色が白く、たっぷりした黒髪を後ろできちんとまとめている。美人というわけではないが育ちの良さそうな気品ある物腰、そして小さな細面の顔は感情を自制し穏やかな視線を相手に向けている。

 男性はすらりとした長身に、カジュアルなシャツとスラックス姿で、長い足をテーブルの前でやや持て余しながらも組まずに座っている。眼鏡が似合う知性的な顔立ちもさっぱりした短髪も、明朗で人気ある科学教諭という感じだが、全体に漂う不思議な隙のなさが、彼の職業の推測を難しくしている。

 二人が挟むテーブルの上の飲み物も食べ物も、ほとんど手がつけられていない。

 女性がうつむき、そして顔を上げ少し傾け、微笑んで、男性を見た。

「やっぱり、だめなんだよね。」

 男性が黙って、うなずく。

「そうだよね。最初からそういう約束だもんね。結婚は、できないって。」

「・・・ごめん。」

「晶生が謝ることないよ。それをわかってて、つきあってほしいって言ったのは、私だもの。でもやっぱり私、結婚したい。」

「・・・・」

「悲しいよ。ほんとに、大好きになっちゃったんだもの・・・」

 女性の声が途切れる。

 男性は黙ってうつむいた。

 女性もうつむき、そしてうつむいたまま、言った。

「私・・・、晶生の、子供が、できたかも。」

「えっ!」

 沈黙が流れた。女性がゆっくりと顔をあげ、目を丸くしてこちらを見ている男性の顔を見て、泣きそうな顔で微笑んだ。

「うそ。ごめん。・・・晶生はホントに素直で、騙されやすいよね。悪い女のひとに、この先、騙されないようにしてね。」

「・・・・」

 女性は椅子の背に置いたバッグを取り、膝の上に置いて、椅子をひいた。

「お見合い、するね。私、母親になりたい。」

 男性がうなずく。

「また、私の友達がだれか、ストーカーにあったら、ボディガードしてくれる?」

「喜んで、するよ。」

「いつか私の子供が、誰かに脅迫されたら、やっぱりボディガード頼んでいい?」

「ああ。もちろんだ。」

「ありがとう。」

 女性は立ち上がる前に、ふっとうつむき、そしてしばらくして言った。

「最後に・・・・キス、してくれる?」

 男性はしばらく女性の顔を見て、そしてうなずいた。

 女性は席を立ち、そしてテーブルの四つの椅子のうち、男性の隣の椅子へと移動した。

 女性の両目から涙がこぼれおちた。

「晶生・・・・大好き、だったよ。」

 男性の両手が女性の頭をそっと引き寄せ、そして唇に、長いキスをした。

「ありがとうね。さようなら。」

 女性が涙を素手でぬぐって立ち去った後、男性はそのまま椅子に座り、女性が最後に座っていた椅子を長い間ぼんやりと見つめていた。

 女性が店を出てビルの敷地の広い芝生の庭に出ると、小柄な茶髪の女性が待っていた。

 黒髪の女性が泣いているのを見て、茶髪の女性は近づきぎゅっと抱きしめた。

「よくがんばったね。最後まで、好きって言えたんだね?」

「うん・・・ありがとうって・・・言えた・・・」

 泣きじゃくる黒髪の女性を、抱きしめたまま親友は声をかけ続ける。

「えらいよ、えらいよ。ほんとにほんとに、彼と、結婚したかったんだよね。そうだよね。」

「うん。ほんとに、晶生のお嫁さんになりたかったよ・・・。でも、晶生は、絶対結婚しない人。わかってるのに、わかってたのに・・・・」

「いつ死んでも・・・おかしくない仕事をしているから、・・・なんだよね。」

「ボディガードをしている間は、絶対に家族は持たないって。そしてあの人、一生、ボディガード以外の仕事なんか、しそうにない。」

 黒髪の女性はようやく泣きやみ、涙を拭きながら哀しそうにさびしそうに、笑った。



 街の中心のビル街に、夕闇が迫り、太陽と月の時刻が間もなく入れ替わろうとしている。古い高層ビルの事務室で、金茶色の波打つ髪を肩近くまで伸ばした異国的な顔立ちの青年が、目の前の旧友かつ同僚に、協力を求めていた。

「吉田さんにもう一度お願いしようと思ってるんだ。凌介、加勢してくれるよね?」

「なんでやねんな」

 阪元探偵社のエージェントである酒井凌介は、煙草を口の端に咥えたまま、最近同じチームに入ったばかりの深山祐耶を見上げ、めんどくさそうに関西弁で答える。

「それ、理由を訊いてるんじゃないよね?」

「ああ。質問やない。拒絶や、拒絶。」

「冷たいよ、凌介。」

 深山は立って腕組みをしたまま、応接コーナーのソファーにふんぞり返っている酒井を見下ろし睨む。

 深山は線の細い、一見青年と少年の間くらいの感じを与える華奢な体型だが、ソファーに座り足を長々と伸ばしている長身の酒井と同じ、有能なエージェントである。

 酒井は深山と対照的に、その耳の下まで伸ばした髪は漆黒で、精悍な顔立ち、そして見るからに鍛えられしっかり筋肉のついた、運動能力の高そうな体型をしている。

 ただし、酒井は今日はいつもの無精ひげをきれいに剃り、服装もいつものジーパンとレザージャケットではなくきちんとしたテーラードジャケットとスラックス姿で、この点は深山と今日は対照的ではなかった。

「明日、吉田さんはまたこちらへ来られるんでしょ?」

「ああ、恭子さんは今日今回の仕事が終わったから、和泉が自宅へお送りしたとこや。次の案件の準備が始まるのは来週やから、明日から数日は事務所で今回の案件のレビューとかそういう作業をしはるやろな。でもお前のくだらん話を聞く時間なんか一分もないんとちゃうかね。」

 チームリーダーの吉田を、酒井はいつも名前で呼ぶ。

「ひどいなあ。凌介、お前も今回の仕事、参加したんだよね?すごくうまくいったんでしょ?吉田さん、きっと機嫌が良いよね。」

「あのなあ、そういう問題ちゃうって言ってるやろ。それに今回は恭子さん、ほんまにお疲れやから、やっと終わったばっかりやのに明日いきなり変な話するなよ、ほんまに。」

「・・・・もういい、お前には頼まないから。」

「それはおおきに。」

 くるりと酒井に背を向けたが、再び何かを思い出したように深山は酒井のほうを見た。

「せっかく僕は、君を誉めようと思っていたのにな。」

「はあ?」

 深山は、その茶色のいたずらっ子のような目を、細めて笑顔になった。

「・・・そんなふうな清潔な格好をすると、なかなか色男だよね、凌介。」

「・・・・・これは、今回の仕事で必要やったからや。和泉なんかカクテルドレス着たんやからな。」

「見たかったなあ。」

 後ろの事務机から、板見が遠慮がちに声をかけてきた。

「あの、酒井さん、深山さん」

「なんや?」

「作業に集中できないんで、あまり無駄話しないでもらえませんか?」

「うるさいなー!」

 酒井は板見に言い返したものの、板見の発言に一部もっともなところがあると考えた様子で、咳払いをして深山のほうを改めて見た。

「祐耶。お前がもう一度高原とやりたいというのは、分からんでもない。だがな、お前は、自分の趣味のために仕事してるんか、それとも、うちの探偵社のために仕事してるんか、分からんようになってないか?」

「そんなことないよ。」

「・・・恭子さんにも、おんなじこと言われたな?」

「まあね。でもとにかく明日僕は頼んでみる。気が向いたら応援してよ。」

 言うだけ言うと、深山祐耶は再び酒井に背を向け、今度は本当に足元の自分の鞄を肩にかけ、歩き出した。

 深山が出て行ってしまうと、酒井は大きなため息をついてソファーの背にもたれた。

 板見が、その宝石のような強い輝きを持つ、大きな目を酒井へ向けた。

「・・・深山さんは、大森パトロールの高原と、もう一度勝負したいんですね。俺も、その気持ちは、わかる気がします。新人の俺でも、あの警護員のすごさは一度対峙しただけで身に染みました。深山さんのような上級のエージェントにとって、すごく気になるのは、当然ですよね。」

「まあそうなんやけどな。でも高原たちみたいな頭のおかしい連中に、意味もなく深入りするのは百害あって一利なしや。ほんま、あの警備会社のボディガードたちは、変人ばっかりやからな。」

「はい。」

「深山は、俺のことを心配して戻ってきたとか言ってたけど、あいつのほうがよっぽど心配やわ。仕事に、もろ自分の趣味を持ち込む。」

「はい。」

「それに比べたら・・・・」

 酒井は、ソファーにもたれて頭の後ろで両手を組んだまま、後輩エージェントのほうをしみじみと見た。

「・・・板見、お前は可愛いよな。自分の任務に、全身全霊でつくす。」

「酒井さん、やっと俺の良さを理解してくださったんですね。」

「ははは、調子に乗るな。」

 そのとき、板見の携帯電話が鳴った。

「はい、板見です。・・・和泉さん?どうされました?」

 ひとしきり携帯電話で話していた板見が、やがて通話を終え、電話を切り、酒井のほうを見た。

 顔から血の気が引いていた。

「・・・どうした?板見。」

「和泉さん、今、病院からだそうです。吉田さんが・・・・あれからすぐに運び込まれて・・・・数時間たった今も意識不明だそうです。」



 河合茂が、土日と夜間限定で警護員として勤めている大森パトロール社の事務所に顔を出すと、平日夜らしく何人かの警護員たちが自席で仕事をしていたが、特に茂をほっとさせたのは、その中に高原晶生もいたことだった。高原が自席にいるということは、しばしば応接室で彼と談笑している三村英一が、今日はいないということだ。

 高原が茂の姿を認め、笑顔で手を振る。茂が尊敬する先輩警護員の高原は、いつも明朗で少しおちゃめで、そしてとても優しい。

 すると、高原の同僚の山添崇が、席を立って茂のほうへ歩いてきた。

「こんばんは、河合さん」

 山添はスポーツ好きにふさわしい日焼けした肌に、茂よりもう少し濃い茶色に染めた髪が愛らしい童顔を縁取っている。高原同様に大森パトロール社ができたときからいる四人の有能な警護員のひとりである。

「あ、こんばんは、山添さん」

「ちょっとちょっとこっちへ」

 茂を、山添は給湯室へ連れこむ。

「今日は三村さんはこっちへ来られる予定はないんですか?」

 三村英一は茂が平日昼間に勤めている会社の入社同期で、茂とは特に仲は良くないが高原とは仲が良く、副業が休みのときなどは会社帰りにこの事務室にやってくる。

「今日は稽古があるみたいです。」

「そうですか・・・。今日はぜひ来ていただきたかったな・・・・。」

「なにかあったんですか?」

 山添はちらりと事務室のほうを振り返り、そしてもう一度茂を見て、小声で言った。

「今朝から晶生が、元気がないんですよ。」

「高原さんが?」

 茂には、高原の様子に変わったところは感じられない。

「はい。・・・で、その理由は、だいたいわかります。」

「・・・・?」

「あれは、仕事上の悩みじゃありません。警護業務であいつが悩むことがそもそもほとんどないことではありますが・・・もしもそういうときなら、もっと恐ろしい顔をしているはずですから。」

「はい。」

「でも、あいつはいつも通りにへらへらして、そしていつも以上に口数が多い。」

「はい。」

「この症状は、私生活上の、悩みです。」

「そうなんですね。」

「つまり、考えられることは、ひとつしかありません。」

「もしかして・・・・」

「はい。またふられたんじゃないですかね、女性に。」

 茂は目をまるくした。茂が驚いたポイントは三点だった。

 一点目は、これだけの兆候で山添が高原の悩みの存在と性質を見抜いたこと。二点目は、高原のような怜悧でそつのない人間が、冗談でなく女性にふられるようなことが実際にあるのだということ。そして三点目は、それが「また」という山添の言葉を信じるならば、一回や二回ではないのだということ。

「三村さんが来られないなら、しょうがないですね・・・・。俺が正面突破するしかないか。」

 麦茶のピッチャーとグラスを持って、山添が給湯室を出ていき、茂はそのまま高原の席へ向かった山添を遠目に見守った。

「・・・・・晶生。」

「ん?」

 高原は、目の前に来た同僚を、座ったまま顔を上げてその顔を見る。

「元気出せよ。」

「・・・・」

「不幸なのはお前だけじゃない。特に、怜を見ろ。」

 しばらく山添の顔を凝視していた高原は、やがて複雑な表情で微かに笑顔になる。

「崇、お前、・・・・そういう種類の勘の良さは、捨ててくれ。」

「ははは、すまない。」

 二人は顔を見合わせ、笑った。



 阪元探偵社の事務所は、朝を迎え、しかしまだ仕事をしている人間が一人もいないにも関わらず、事務室内には緊張感が漂っていた。

「すみません、酒井さん。」

 和泉が、その高い身長に似合う明るい茶色のショートカットの髪が額にかかるまで頭を下げ、謝る。

「・・・・・・」

「酒井。なにをむくれている。和泉も謝っているんだから。」

 和泉の隣で腕組みをしながら、セミロングの髪を頭を振って後ろに避け、吉田恭子は鼈甲色のメガネの奥の目を少しだけ楽しげに細め、部下をたしなめる。

「ええ。」

 酒井は応接セットで吉田や和泉に背中を向けて座り、咥えているらしい煙草から煙をくゆらせたままこちらを見ようともしない。

「私が、板見くんに電話したときにちゃんと正確に話していれば・・・・・・。」

「まあ、熟睡しているのも、意識不明といえば意識不明だわね。」

 吉田は酒井と向き合ってソファーに座り、そのきれいな足を組む。酒井はまだ吉田と目を合わせず、この世のものとも思えぬ不機嫌な表情で煙草を咥え、ソファーの背にもたれて両腕の肘を背もたれにかけている。

 両腕を天に向かって伸ばし、吉田は微笑んだ。

「十七時間も眠ったら、すごくすっきりした。和泉に自宅に送ってもらって車から降りようとしたら、あまりにも疲れていて、そのまま起き上がれなくなって、和泉が気を利かしてくれた。」

「よかったです、お家に入られる前で。病院で一泊していきなさいって先生もおっしゃいましたし。点滴で栄養もつけられましたしね。」

「あのですね」

 酒井がようやく発言した。

「そういうことを、昨日の電話でちゃんと全部説明してください。板見と俺が、どんだけびっくりしたと思います?」

「ごめんなさい。」

「まあ、もう済んだことですからいいですけど・・・・恭子さんにさっそくリベンジされたかと思いましたよ、ほんとに。」

 吉田は申し訳なさそうに笑った。

 そして一呼吸おいて、再度吉田は酒井に声をかけた。

「・・・・酒井。ちょっと、相談がある。カンファレンスルームへ来て。」

「はい。」

 吉田と酒井が奥の書庫兼カンファレンスルームへ入り扉が閉まると、パントリーへ行こうとした和泉に、自席から板見が声をかけた。

「和泉さん、内緒ですが。」

「なに?」

「和泉さんから電話が入って、俺が酒井さんに伝えたとき、酒井さん、立ち上がって一瞬めまい起こしておられました。」

「まあ・・・・・」

「俺も心臓が止まるかと思いましたが、それ以上に、あんなに動揺した酒井さんって見たことありません。和泉さん、後でもう一度よく謝っておいたほうがいいと思います。」

「そうね。ほんとに悪かった・・・。」

「・・・でも」

 板見は、大きな目に、少し悪戯じみた輝きをよぎらせた。

「でも、たまには良いか、とも思いました。同時に。」

「なにが?」

「吉田さんファンクラブで、俺の宿命のライバルの酒井さんが、その気持ちを素直に表しているのを見るのも。」

「あはははは。それはそうだわね。」

 大きな窓から下界を見下ろせる、書庫兼カンファレンスルームで、吉田は酒井と向き合って座り、懸案事項を言葉にした。

「深山は、高原警護員が関わる案件に、もう一度参加したいと言ってる。」

「そうみたいですな。」

「高原と不完全燃焼だった不満はわかるから、できればなんとかしてやりたい。」

「でもそれは・・・・」

「そう、チームのリーダーとして、私がこういうことを、大っぴらに言うわけにはいかない。」

「はい。」

「良い案件がないか、酒井、一度だけ、面倒みてやってくれないか?」

「え?」

「高原といえば三村英一だから・・・。」

 吉田は、右手の甲を唇の上にあて、小さくため息をついた。

 酒井は苦笑して頷いた。

「・・・・日本舞踊三村流宗家に関連する仕事を担当するチームをあたれば、高原に行きつくかもしれませんな。わかりました、ちょっと探してみます。」

「ありがとう。」

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