第5話:沈黙の行方
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果たして、どこからボクは間違えたのか。
三好のことは、一番ボクが理解していると、勝手に思い込んでいた。昔からつるんでいた縁を考えれば当然である、と。
今から考えれば慢心だったかもしれない。
ボクは、日が沈む前には、三好の家へ辿り着いた。相変わらずこじんまりとした、洋風の青と白で彩られた、二階建ての家が、そこにあった。所々、度々やってくる台風の影響で傷づいてはいるが、三好と出会った頃より、あまり変わったところは無い。
三好の母の趣味で、玄関先にはパンジーやバラ、カーネーションなどの花が栽培されている。軒先の庭に行けば、ニンジンやキャベツなども栽培をしている。三好自身も植物が好きで、ボクが三好の家へ来る度、ボクに今育てている植物を案内してくれた。その頃は、朝顔なんかも育てていた、気がする。
日が陰る前に帰らなくては。日が陰ってしまうと、あの恐ろしい悪魔がボクを襲う。ボクは悪魔のお蔭で人並みなのだ。悪魔がボクを調教してくれるから人並みなのだ。でも、悪魔の規律を破ったら、ボクは死に等しい罰を科される。そんなのは嫌だ。でも、三好が気になる。もう家に帰らなくてはいけない時間だが、三好はあれから連絡が取れない。どこへ向かったさえ分からない。三好のことだ、もう家に帰っているだろう。どんな理由であれ、どんなことをしていたかであれ。三好は、ああ見えて家族思いなのだ。
昔から、三好は家族を大切に思っていた。家庭菜園の件もそうだが、家事のこともそうだ。家族旅行も頻繁に行っていたが、計画や予算なんやらを三好自身が考えて提案して、両親が何も心配しなくていいようにしていた。まあ、三好には弟が一人いたし、良い顔見せたかったのかもしれない。
そんな三好なのだから、家に帰っていて当然。そう思っていた。
このインターホンを鳴らすのは何年ぶりだろう。高校に入学して以来、三好の家を訪問することは無くなってしまったし。どうも、ボクらは見えない性の壁に遮られていることに、ようやくその時を以て知ったみたいだ。
「ピンポーン」
無為な電子音が、静かに響き渡る。
一つ間をおいて、スピーカーが作動した。
「はい」
三好の母が応答した。
「美菜は、帰ってきてますか」
その聞き覚えのある声に、三好の母は感嘆し、
「あら、ひさしぶりー!美菜ならまだ帰ってきてないわよ」
三好の母の上ずった声とはとは裏腹に、ボクは嘆息をつき、
「……そうですか。わざわざすみません」
と、沈んだ声で言い放ち、その場を後にした。
三好は、帰ってはいなかった。
三好は、どこへ行ったのだろうか?港の家か?それとも別の公園にでも、一人ポツンと居るのだろうか?……しかし、既に日は沈んでいた。
ボクは、家に帰らなくてはならない。ボクは、今から両親という悪魔に叱られなければならない。なぜ帰りが遅くなった?なぜお前は決まりを守れない?なぜお前は何をやってもダメなんだ?ありったけの言葉で罵倒され、仕舞には、鞭で叩かれる。でも、その通過儀礼をおこなわなければ、ボクは家族の一員として認められない。ボクには、三好とは違って、家族とはボクに苦痛を与える存在なのだ。けれども、ボクはその罰を受けて、やっとまともな人間として受け入れられる。
だんだん自宅の輪郭が見えてくる。帰りたくない。帰りたくない。その言葉がひたすら脳内で反芻される。でもそれは罪なんだ。ボクの家族にとっては、それが罪なんだ。三好や港みたいな家庭ではないのだ。逃れられないんだ。受け入れなくてはならないものなんだ。家族は、子供には選択できない。天から与えられし宿命なのだ。それから逃げるのは、ボクという人格の死を意味する。
家の前に辿り着く。三好との家の距離はそれ程遠くない。歩いて2~3分程だ。太陽はとっくに沈んでいる。玄関前の固く閉ざされた鉄の門が、ボクの中の恐怖を増幅させる。土に足が囚われているかのように重い。その門を開けることが、躊躇われる。その門を開けたら、とめどなくボクを罪が襲う。
門を開ける。金切音が耳をつんざく。
門と玄関の間の通路には、飛び石のように、四角くカットされた平べったい御影石が等間隔で配置されている。それ以外はむき出しの土と、放置された雑草と苔で埋められた、殺風景な庭だ。
石を踏み鳴らす音が、悲痛を叫ぶ。
もう玄関の扉だ。玄関からは、光が見えない。静かにドアノブに手をかける。
すると、その瞬間、後ろからドス黒い声が聞こえてきた。
「おい、今何時だと思っている?」
父だ。筋骨隆々とした、あの恐怖の化身である父が、家の陰で待ち構えていたのだ。
「……」
「黙ってちゃ、何も分からないだろ?え?」
全身が凍結されたように硬直する。声帯を震わすことすら出来ない。
「何とか言ってみろよ、あ?」
ドアに顔面が勢いよくぶつけられる。鼻から血が滲む。父の白いタンクトップに、それが飛び散る。赤い花が咲いた。
「と、友達が……」
「友達が?どうした?」
「そ、その、どこかに行っちゃって……」
その言葉に、父は舌を打つ。その言葉が気に入らなかったのだろうか。例え本当であっても、嘘であろうとも、ボクを殴りたいことに変わりはない。
「よくそんな口が利けるな。親の前で嘘を平気でつける人間だもんな!当然か!その口、俺が洗ってやるよ」
ボクは、何も抵抗が出来ないまま、父に首根っこを掴まれ、引きずられるように、玄関に入っていった。
少しでも抵抗しようと、腹這いの姿勢で、地にへばり付いた。しかし、それは父に見破られ、直ぐに脇腹を思い切り蹴られ、痛みのあまり、体を丸くした。
洗面所まで引きずられ、顔を持ち上げられ、洗面器に押し付けられる。洗面器には既に水が溜められており、蛇口からもとめどなく熱湯が溢れている。
「……」
熱さのあまり、言葉を失う。顔の皮膚という皮膚に、万遍なく針を刺されているような感覚。反射的に顔を上げようとするが、バネを押さえつけるかのように、父が上から押さえつける。
「お前が、二度と嘘が言えないように、熱湯消毒だ!ハハハハハハハハハハハハハハハ!」
父が歓喜の声を上げる。父にとっては、ボクを完膚なきまでに叩きのめすのが至上の喜びなのだろう。子供というオモチャを使って遊ぶのは、さぞかし快感なのだろう。歪んでいる。
ボクは、どう足掻こうが、父には勝てない。どう暴れようが、どう喚こうが、無駄な抵抗だ。何かしようとも無駄なのだ。圧倒的な力で、捻じ伏せられる。どんな理不尽なコトをされても、それは親という権力で正当化される。出ようとも出られない、檻のようなものだ。
『本当に、それで良いのか?』
ふと、ボクの頭の中に、言葉が流れた。ボクはこの状況を甘んじて受け入れたんだ。今さらどう言われようが覆らない、真理のようなものなんだ。
『なら、オレが代わりにやってやる』
その瞬間、目の前が純白に染まった。かろうじて、周囲の音が聞こえてくる。
「やめろ!やめてくれ」父の声だ。
「これが欲しいんだろ?」ボクの声に似ているが、声調が似ても似つかない。
「あああああああああああああああ」水の中に突っ込む音。それと同時に父の叫び声。
「……」
そのうち、父は言葉を発するのをやめた。
*
港を殺してしまった。既に息はしておらず、心音も聞こえない。
私は、港の部屋で、今何をすべきかを考える。
これから私に残された道は2つ。
1つは、正直に申告し、警察に自首する。2つ目は、証拠などを隠滅し港の自殺に見立て、逃走をする。1つ目の方が、社会正義的に正しい。しかし、現実的には2つ目の方だろう。既に学校の事情聴取中に逃走をし、警察からは目を付けられているだろう。ここで捕まれば、私は犯していない罪まで被せられる羽目になる。嫌疑を晴らすためには、アリバイなど状況証拠が必要だ。だが、そのアリバイも、一人で帰宅するタイミングを突かれたり、空白の時間を問い詰められたら、私はいよいよもって追いつめられるだろう。
そうとなれば、もはや選択肢は一つだ。
私は、カッターナイフに付いている指紋をベッドのシーツで拭き取り、港に改めてカッターを握らせた。幸い、死後間もないので、死体の硬直は始まっていなかった。これで私に辿り着く証拠が一つ消えた。
あとは、この制服か。制服だと、直ぐに身元がバレる。この服は早急に処分しなければならない。
しかし、処分と言っても、どのような方法を採ることがベストなのだろうか?川に流すのがベストか?これは捜索の段階で見つかる可能性が高い。なら、港の部屋に隠す?それはもっての外だ。警察にすぐ見つかってしまう。
ならば、焼却が一番いい方法なのか?確かに、燃えてしまえ証拠は消えてなくなる。証拠隠滅としては理想的かもしれない。しかし、この方策での問題点は、燃やす場所だ。燃やす場所が何処になるかによって、状況が変わってくる。一体どこで燃やすのがベストだろうか。
……蒲郡の家ってのはどうだ?
あそこの家は、雑草駆除と称して、良く庭の草に火を付けて一日中燃やしている。この習慣を利用する他ない。服は、蒲郡のTシャツなり、ジャージなり、借りるしかないか。
港が自殺したという演出を整え、二階の窓を開け、外に飛び出す。下に吸い寄せられる重力と風の感触が心地いい。着地地点には、しっかり手入れの行き届いているツツジが私を今か今かと待ち構えている。
ドサッ、という効果音と共に、私はかすり傷を負ったものの、無事に着地に成功した。
待っていろ、蒲郡。
私は、垣根を乗り越え、港家を後にした。
久しぶりに来たな、と感慨にふける。
蒲郡家には、幼い頃に何度も遊びに行っていたが、男女の壁を感じ始めた頃になると、自然と離れていった。これは誰もが通る道なのか。
昔に比べて、庭が荒れているように見える。私が遊びに来ていた頃には、庭には二羽ニワトリが居り、ラベンダーやドクダミなどが、きれいに配置されていた気がする。過去の記憶なので、あまりはっきりとは覚えてはいないが。
早速インターホンを、と思ったが、もう日が沈んでいるのに、全く家からの光が無い。誰も帰ってきていないのか。確か、蒲郡の家は門限が厳しいから、もう家族がそろっても良い時間だ。むしろ居ないとおかしい時間だ。
何かあったのだろうか。様子がおかしいと思った私は、家の周りを調べてみる。一周回ったが、やはり人影は無い。
これはどうしたものか。もう仕方ない。手当たり次第に、鍵の空いているところを探すか。
まず玄関。もちろん開いていない。
次にトイレの出窓。ここも開いていない。
蒲郡の部屋。引っ掛かる感触が無い。ここだ。
窓を開け、体を乗り出し、中に入る。そこには、体育座りでじっと丸くなっている蒲郡が居た。
「ここでなにしてるの?」
「なにも」
「まあ、見れば分かるけど」
蒲郡は月明かりに照らされている私を見て、気づく。
「おい、三好……、それって」
「え、これ?血だよ、血」
「お前、何やらかしたんだよ!」
「い、いや……、私さ、今魚を捌く練習しててさ、その時に付いちゃったんだ、これ」
私は必至で誤魔化そうとする。
「ああ、そう、そうなんだ」
「ほら、親にバレたら恥ずかしいじゃん。ね!」
「へー」
「ホントだって!信じてよ!」
私は上目使いで、蒲郡を見つめる。蒲郡は上目使いに弱いんだよね。
「わ、分かったから。納得したから!……で、何して欲しい訳?」
「服、貸して」
我ながら、旧友に安っぽい嘘をついたことに、落胆を覚えた。
「服っていっても、Tシャツとか、男物しかないけど?」
「いいの、着られればなんでも」
蒲郡がタンスを漁りながら、私に尋ねてきた。この服とオサラバ出来れば何でもいい。
「じゃあ、これでどう?」
不意に蒲郡がタンスから取り出してきたのは、カワイイクマさんがデカデカと中心にプリントされている黄色いTシャツだった。クマさんの笑顔が眩しい。
「な、なにこれっ、ププッ……」
「わ、悪いかよ、趣味に文句言うな」
「ハハッ…あ、ありがと……フフフ」
私はそれを受け取り、足元に置くと同時に、制服のボタンをはずし始めた。
「おい!いきなり着替えだすなよ!ボクが性犯罪者になるだろ!」
「いいじゃん、幼馴染なんだし。それとも、私にそんなに魅力が無いってこと?」
「それとこれとは、話が違う!」
蒲郡は、紫色のジャージ上下を置き去りにし、その場を離れてしまった。
昔なら、普通だったのにな。
いつから距離が出来たんだろう。
お互いに『嘘』をついているから?
「結局、相手のことなんか、いくら一緒に居たって、いくら会話したからって、全ては分からないんだよね」
私は、夜の空を眺めながら、血に染まったスカートのホックを外した。