Please Buy Me
‐一‐
「ねぇ」
見ず知らずの男の声に、藤原みそぎは顔を上げる。三十代に見えるサラリーマンらしき男が、みそぎの前に立っていた。
「こんな時間に一人? 待ち合わせ?」
真面目そうな男に見えた。左手の薬指には小さな金のリングが光っていて、彼には奥さんや子供がいるんだろうなと思った。家庭ではよき夫。なのに、駅前で女の子に声をかける。
「女の子が危ないよ? 家の人はどうしたの?」
自分の茶色い髪をみそぎは撫でた。何のアクセサリー無い髪。神事の時の髪飾りが、遠い記憶の片隅にある。
「ひょっとして、家出? もしそうなら、僕と……」
「あのっ」
綺麗な声だ、とみそぎは言われた事がある。神事で経文を読み上げた時に、信仰心の篤い近所のおばあさんからそう言われた。それがとても嬉しかった。
でもここには経文も神事も無いし、みそぎは巫女の正装をしていない。短いスカート、流行りの服、金のピアス、茶色い髪。
「私は高いですよ?」
綺麗な声でみそぎは言う。
世界は悲鳴を上げていた。
‐二‐
神社にケガレは禁忌だ。だからみそぎは巫女を辞めた。
地方の大神社の神主と巫女。その血筋は実にあっさりと絶えた。千年続く血筋を後世に伝える事が、みそぎの両親によって許されなくなった。両親が浮気して離婚したから。それだけだった。
みそぎの父親は外に女を、母親は外に男を作っていた。それぞれがそれぞれの浮気相手と指を絡め合ってホテル街を歩いていたら、ばったり出会ってしまった。それだけだった。
優等生だったみそぎは両親がいない夜の家で、微分積分と格闘していた。明日の予習はばっちりだとノートを閉じてベッドに潜って、明日も楽しい高校生活が待っているんだなと思いながら、いつものように眠りに落ちた。
翌朝は悪夢だった。
両親が互いに罵り合っていた。「信仰心の篤い神主さんと、それを支える巫女さん」が、汚い言葉で罵り合っていた。
罵倒の内容は散々だった。お前が悪い、あなたが悪い、甲斐性無し、浮気者。爽やかな朝の空気を引き裂くような夫婦喧嘩に、みそぎはパジャマのまま立ち尽くした。
地獄絵図だった。少なくとも神社という神聖な空間で行われてよいものでは無かった。
ただ、高校生で半人前で、ケガレを知らないみそぎは何も出来ない。トーストを焼かずにそのまま食べて、触らぬ神に祟りなしと、いつものように学校へ向かった。行ってきますというみそぎの言葉に何も帰って来なかったのは、きっと初めてのことだった。
学校から戻れば地獄絵図すらそこには無くて、誰もいない居間だけが残されていた。実に呆気なく、みそぎの両親は出て行った。みそぎが不安ながらに日常を消費している間に両親は離婚して、親族に神社の色々を任せる手続きをして、荷物はそのままに出て行った。
机の上に書置きと鍵が置いてあった。近所の安アパートの鍵。そこで暮らせと、もう神社には戻ってくるな。母の字でそう書いてあった。
みそぎは泣いた。誰もいない家の中、わんわんと声をあげて泣いた。慰めてくれる人はいなかった。
自分の荷物を持って出て行くように言われたのは、それからすぐの事だった。優しいはずの叔父さんに、冷たい声でそう言われた。
‐三‐
両親が離婚して、みそぎの日常は呆気なく終わった。
小さくて古くて、他に住人なんていそうにないアパートの裏庭、みそぎは巫女の衣装を燃やした。衣装が燃えていくのが楽しくて、家から持って来た勉強道具も、好きな小説も漫画もとにかく何もかも、炎の中に放り込んだ。煙が目に染みて涙が出た。近所の人に怒られた。悲しくなかった。
家からくすねた十五枚の一万円札を握って、翌日に服を買った。安いものからブランド物まで、かわいいと思ったものをひたすら買った。十万円使った。
スーパーでカップ麺と水を買って、家電量販店でポットを買って、晩ご飯にカップ麺を啜った。口の中を火傷した。学校をさぼったのは初めてだなぁと思った。
お金はすぐに無くなって、ギリギリの生活が続いた。
だからとある週末に、学校が終わる時間を見計らって友人に連絡した。みそぎの広い交友範囲の中でも、一番派手で一番遊んでいる子。電話に出るやいなやみそぎの事を心配したけれど、そんな事はどうでもよかった。
彼女は夜の街を知っている。危ない遊びも、お金の稼ぎ方も知っている。「やり方が知りたいの」と言うみそぎに、彼女は躊躇いつつもやり方を教えてくれた。簡単そうだった。
夜の九時に家を出た。一番綺麗な服を着て、晩ご飯にカップ麺を啜ってから家を出た。
駅前ではたくさんの人が歩いていた。みそぎは駅前の柱にもたれ掛かって、ぼんやりとつま先を見ていた。言われた通りにしていた。同じようにしている女の子を、途中で何人か見つけた。
間もなく声がかけられた。顔を上げると、みそぎのクラスの男子が立っていた。名前をすぐには思い出せなかった。
「藤原……?」
「……うん」
「お前どしたの? ガッコーにも来ないでこんな時間に、そんなカッコで」
「家出、しました」
真面目で優等生で明るい藤原みそぎが、家出して夜の街に立っているという現実は、彼を驚かせるには十分過ぎた。彼を誘惑させるにも、十分過ぎた。
そう言えば彼はみそぎの事を好いているらしい。学校に通っていたころ、風の噂で聞いた記憶がある。
「家出? お前が?」
「色々、あって……」
「いや、そりゃ、色々あったろうけど、こんな時間にこんな場所で……。危ないだろ?」
彼がそんな風に心配する。視界の隅では派手な女の子が、サラリーマンと指を絡めて歩き出していた。
「ねぇ」
「ん?」
「いくらで、いい?」
言われた通りに言っただけで、彼の表情が固まった。そんな挙動から、彼がみそぎの言わんとすることを理解していることが分かってしまう。本当に簡単だった。
まだ戻れる。やり直せる。こんな手段じゃなくたって、普通のバイトを探せばいい。みそぎの心が、神様に仕えていた頃に身につけた善良な心が、そんな風に訴えていた。
「藤原、お前、何、言って……」
「私は、巫女でしたから、まだ、処女です。セックスなんて、したこと、ありません」
許されない事だとは分かっている。そんな事くらい、分かっている。
口に白米と味噌汁の味が蘇った。母親が毎朝作ってくれていた朝ご飯は本当に美味しくて、そういえば地獄絵図の朝に初めて朝ご飯にパンを食べたなと思い出した。場違いだった。
「私を、いくらで買いますか?」
肌荒れが酷くなった。眼の下に隈が出来た。高校に行かなくなって二週間経って、みそぎの美しさはいくらか減った。それでも彼の目には、藤原みそぎは魅力的に見えるはず。そう思っていた。
「このくらいで、いかがですか?」
細い指を三本立てた。彼は黙って一万円札を三枚出して、みそぎの服のポケットに入れた。
神事とか経文とか巫女とか神社とか例祭とか神様とか信仰とか。
人生に深く染みいっていたそれらを、みそぎは呆気なく捨てた。
生きていかなければいけない。生きていくには何よりもまず、お金が必要だった。信仰心なんて必要なかった。たったそれだけ。簡単だった。
家に着いたのは午前三時を過ぎた頃だった。処女を失ってキズモノになってまで稼いだお金で、まずはカップ麺を買った。底をついていたから、ちょうどよかった。
‐四‐
みそぎの日常は変わった。信仰心はどこかに消えた。
風の噂で聞いた話では、神社は何事も無かったかのように回っているらしかった。ただ神主が交代しただけという事になっているらしい。両親はどこに行ったなんかなんて知らない。どうでもよかった。
学校にはもう二ヶ月以上行っていない。携帯電話に引っ切り無しに降り注ぐ友達からの電話に答える事無く、みそぎは今日も夜の駅前に立つ。
お金を稼ぐようになって、まずは食生活を改めた。自炊しようだなんて思わなくて、ファミレスやチェーン店のイタリアンレストランで食事をした。なるべく健康的なメニューを選んだ。肌荒れは幾分マシになった。
浮いたお金は貯金した。見ず知らずの男が渡す一万円札はホームセンターで買った金庫に眠っている。少しずつ増えていくお札を眺めて昼間は過ごした。それが生き甲斐なのかもしれなかった。
今日の相手との会話も行為も奢って貰った安いハンバーガーの味もみそぎは覚えていない。ただ手元に一万円札が七枚あって、身体がどろどろに疲れていて、時刻が午前四時。それだけ。
一万円札を金庫に奉納。かなりの量が貯まっているのを見て、疲れが少しだけ消えた気がした。シャワーを浴びて昼まで眠った。
翌日。
今日の相手との会話も行為も奢って貰った安いパスタの味もみそぎは覚えていない。ただ手元に一万円札が三枚あって、身体がどろどろに疲れていて、時刻が午前三時。それだけ。
一万円札を金庫に奉納。かなりの量が貯まっているのを見て、疲れが少しだけ消えた気がした。シャワーを浴びて昼まで眠った。
翌日。
今日の相手との会話も行為もみそぎは覚えていない。ただ手元に一万円札が四枚あって、身体がどろどろに疲れていて、時刻が午前一時。それだけ。
一万円札を金庫に奉納。かなりの量が貯まっているのを見て、疲れが少しだけ消えた気がした。シャワーを浴びて昼まで眠った。
それだけを繰り返す日々。みそぎは呼吸するように身体を捧げた。
二回目、三回目と主張する男もいるけれど、それをみそぎは覚えていない。みそぎの中で、自分を抱く男に名前も顔も無い。性欲処理の道具として身体を捧げればお金が貰える。抱かれている最中は気持ち良さなんて感じない。感じているフリ、イったフリ。それだけで男は喜んだ。
ちょっとだけ痩せた。信仰心なんて吹き飛んだ。微分積分とか仮定法とか助動詞とか、そんなものは頭から消えた。友達からのメールや電話も、最近は来なくなった。
食事はなるべく健康的なものを選んだ。一人で食べ放題に行ったり、コース料理を食べに行ったりした。サプリメントで若さを保った。友達とは奇跡的に合わなかった。
要するにみそぎの生活は、外食と駅前と一万円札と金庫とベッドと、顔も名前も無い男だけだった。そんな日々を嫌だとも素晴らしいとも思わなかった。ただそれだけ。それだけ。
‐五‐
「藤原さん!」
初めて女に声をかけられた。みそぎのクラスの担任だったから、私を買って、なんて言えなかった。
ご飯おごってってあげる、と担任に案内された店は、駅の裏にある小さな居酒屋だった。みそぎが学校で見ていた彼女のイメージとは違った店の選び方だった。
「あ、私は芋焼酎。藤原さん、何でも頼んでいいから」
「……烏龍茶」
「じゃあ烏龍茶もお願い。とりあえずそれっから持って来ちゃって?」
店員さんと気さくに話す様子から、ここは彼女の行きつけの店だと分かった。お酒が好きでおおざっぱ。だけど何より生徒思い。青春ドラマに出てきそうな若い担任と、居酒屋のテーブル席に座っている。周りではサラリーマン達が、ジョッキを片手に騒いでいた。
「家の事、聞いたわよ」
「そうですか……」
「大変だったわね。月並みな言い方しか出来なくて申し訳ないけど、本当にそう思うわ。お父さんとお母さん、今は……。ああ、そうね、この話題は無しにしましょう。ごめんなさい」
「いいえ。もう、私も気にしてませんから」
「そっか……。で、藤原さん。あなた今、どうやって生活してるの?」
売春。援助交際。
喉から出かかった言葉をぐっと飲み込んで、みそぎは短く「バイト」とだけ答えた。
「学費納入も止まってるけど……。藤原さん、あなた、学校に戻ってこない?」
「……学校に、ですか?」
「うん。みんな心配してる。私だって心配してる」
「……すみません」
「誤ることなんかじゃないわよ。……奨学金制度だってあるし、帰ってきなさいよ。あなた成績よかったから、今からでもそこそこの大学目指せるわよ? 就職にしたってそう。真面目だったし明るいし、藤原さんみたいな人を欲しがる会社なら、多くあるはずだから」
担任が話す。みそぎはそれをぼんやりと聞いていた。自分が学校にもう一度戻って日常を生きていくというイメージが、いまひとつ湧かなかった。
「ねぇ、藤原さん……」
「はい」
「……あなた、どうかした?」
「どうか、って……」
「そりゃ、お父さんとお母さんが離婚したり、学校に行けなくなったりしたことが大きいかもしれないけどさ、でも、私の気のせいじゃなかったら、あなた自身が、なんか、変わっちゃったな、って」
「私が、ですか」
「うん」
芋焼酎を飲んで店員を呼び、「いつもの」とだけ言って担任は続ける。ポケットからタバコの箱を出して吸ってもいいかと尋ねて、みそぎの了承を得る前に火をつけた。
「……何が、あったの?」
「別に、何も……」
「ご飯、ちゃんと食べてる?」
「それは大丈夫です」
「その服は? 私服、随分派手なのね」
「稼いだお金で買いました」
「……ふぅん」
煙を吐いて担任は不満そうに頷いた。そして長いままのタバコを灰皿に押し付けて、グラスの焼酎を口にした。
先生のこういう一面を初めて見た気がする。少なくとも学校の教壇の上においては、こんな姿を目にすることなんてまずない。授業中はばっさばっさと古文を解読しては生徒に叩き込み、ホームルームは連絡事項だけをさっさと伝えてすぐ解散。
おおざっぱだけど、生徒思いの優しい先生。そんな彼女が今、みそぎの前で頬杖を付いて焼酎を飲んでいる。初めて見る姿だった。
「先生」
「うん?」
「先生のこんな姿、初めて、見ました」
「……ああ、これ?」
灰皿と焼酎を指さしながら担任は尋ねる。みそぎは頷き、自分の服を指でつまんで続けた。ベージュのジャケットにホットパンツ。清楚な雰囲気なんてカケラも無い、男を釣るためだけの服。下着も含めて確か二万円。稼いだお金で買ったものだ。
「私もこんな姿、みんなに見せませんから」
「そだねー。確かにみそぎは……、あ、もう名前で呼ぶね。みそぎは、学校では真面目な感じだから、そんな感じの服、着るようなイメージ無いかも」
「そう、ですよね」
「ま、お年頃だからそういう格好したいんだろうけどさ。変なオトコには気をつけなさいよ?」
ふと、帰りたい衝動に駆られた。ここは自分の居場所ではない。先生の前に座る自分に、ひどい違和感を覚えた。
みそぎの居場所は駅前とベッドと金庫だけだという自覚があるからなのか、それかただ単に、見ず知らずの男に身体を売ってお金を稼いでいるという、ケガレた自分の本当の姿を見られることが嫌だからなのか。とにかく帰りたい。ここから離れたい。早くいつもの駅前に行きたい。
「お待たせしました」
「いよっ、早いね。生焼けじゃないよね?」
「ちゃんと焼きましたよ。あと、これはサービスです。生徒さんに」
「気が利くねぇ。あんた、みそぎに惚れちゃった?」
「先生の生徒さんに手を出すわけにはいきませんでしょ。それに僕、彼女いますし」
「そーいやそうだったわね」
「ごゆっくりどうぞ」
店員とひとしきりの会話をかわして、担任はサービスだと言う刺身をみそぎの前に置いた。名前の分からない白身魚の刺身。表面がどこか乾いているように見えた。
「食べなさい」
「あの、あまり、食欲が……」
「そっか。なら私が貰うわ。食べたくなったら食べてもいいわよ」
刺身と注文した鶏の唐揚げを肴に焼酎をあおる。みそぎはそんな彼女の姿を見ながら、ぼんやりと烏龍茶を飲んでいた。
「みそぎ、さ」
「はい」
「何か、荒んじゃったね……。どうしてだろ、すっごく疲れてるってゆーか、やつれちゃったってゆーか……。ねぇ、今、どうやってお金、稼いでるの?」
僅かばかり鋭い瞳で見られて、みそぎは息を止めた。ひょっとしたら気付かれているのではないかと、第六感が警鐘を鳴らす。
「……バイト、ですよ」
「そう。……これ以上深くは聞かないけど、うん、みそぎを信じる。みんな心配してるから、やってはないと思うけどさ、売春とかエンコーとか、そんなの、やめてね」
「……あのっ!」
烏龍茶を飲み干してからみそぎは声を上げる。無理矢理身体を引きはがして立ち上がり、吐き捨てるようにしてその場を立ち去った。担任はぽかんとそれを見ている。
「門限ありますので帰ります。ごちそうさまでした!」
逃げるように居酒屋を後にして、さっさと駅前に戻る。早くいつもの柱に戻らなければならない。何かに引っ張られるようにみそぎは走った。嫌な汗が全身に貼り付いていた。
門限も何も、家族の待つ家が無い。そんな事に気付いたのはホテルでシャワーを浴びている時だった。ベッドでは男が待っている。みそぎは苦笑して、お湯を止めた。
‐六‐
部屋に帰って倒れ込む。身体のありとあらゆる場所が痛い。最悪の男を釣ってしまった。死ぬかと思った。
いつもなら抱いた男のことはさっさと忘れてしまうが、今回まだはっきりと覚えている。そのことが、彼がみそぎに行った鬼畜ともいえる行為の数々を示しているだろう。最悪だった。
彼は殴った。ひたすら殴った。みそぎの腕をタオルで縛って、みそぎの細い身体を殴った。声を上げたら頬を殴られた。快感も何も無い、ただの暴力。散々殴られ散々犯され、みそぎが這うようにホテルから帰り着いたのは午前五時近くだった。
最悪だった。けれどお金は稼げた。彼は封筒に一万円札を四十枚入れて、サンドバッグの役割を終えたみそぎの枕元に投げ捨てた。シーツはみそぎの鼻血とお互いの液体でぐしょぐしょになっていた。
帰りにみそぎは湿布をコンビニで買って、青あざだらけの身体に貼った。かわいい服が湿布臭くなった。
傷だらけの身体で金庫のロックを開けて、封筒の中のお札を奉納する。中はもうお札でぎっしり。三百枚はあるだろうか。滅茶苦茶にされたけれど、今日の稼ぎは大きかった。
一人ほくそ笑み金庫をロックして、布団も敷かずに床に倒れる。身体という身体が痛い。それでもみそぎは、ある種の達成感を覚えていた。
あはははははは。あはははははは。
乾いた笑いが喉から漏れる。無意識のままに漏れた笑いは狭いアパートの部屋に反響して、再びみそぎの耳に戻ってくる。それが面白おかしくて、みそぎはまたまた笑った。笑い続けた。
あっははははははは。あははははははは。
何がおかしいんだろう。何に笑っているんだろう。笑えば笑うほど分からないし、笑えば笑うほど傷だらけの身体が悲鳴を上げる。おかしい。ああおかしい。
痛む身体で起き上がって、両手を広げてくるくる回る。おかしくておかしくて幸せで痛くて幸せで痛くてお金があって痛くて痛くて幸せでおかしくて、あれ?
「……あはっ」
頬を何かが流れている。いちど溢れ出したものは止まらなくなって、ぽろぽろぽろぽろ落ちていく。何でだろう。おかしいな、何でだろう。
殴られ過ぎておかしくなってしまったのだろうか。犯され過ぎておかしくなってしまったのだろうか。お金を稼ぎ過ぎておかしくなってしまったのだろうか。私はおかしくなってしまったのだろうか。
今日はひどく疲れた。くるくる回ってそのまま床に倒れてみたら、殴られた痛みが身体中を駆け巡った。ぽろぽろぽろぽろ。頬を伝うおかしい何かが止まらない。外は夜明け。少しずつ明るくなり始めていた。身体がどこか、熱っぽい気がした。
‐七‐
生理が来なかった。
だから試しに妊娠検査薬を使ったら印が浮かんでいた。誰の子供かなんて、知らなかった。
‐八‐
誰に頼ればいいんだろうか。
妊娠が発覚した日、みそぎは初めて駅前に立たなかった。一人部屋に座って、ぼんやりと下腹部を撫でていた。そこに命があるなんて、おかしい話だった。
今まで何人の男に抱かれてきただろう。コンドームも使っていた。ピルもきちんと飲んでいた。なのに妊娠してしまった。ここには誰の子供がいるんだろう。父親はいったい誰だろう。分かるはずがなかった。
どうしよう。みそぎは一人呟いた。
産めるはずがない。夫になる男のことなんて分からない。みそぎの事を忘れて、男はきっと、どこかで女を買っている。
今のみそぎにあるものは、駅前とベッドと福沢諭吉だけ。父親も母親も待っている家族もいない。本当に何も無いということに、みそぎは気づいてしまった。
どうしよう。本当に、どうしよう。どうしようどうしようどうしようどうしよう。下腹部を直接撫でてみる。そこに命があるなんて信じられない。
「どうしよう」
改めて呟いてみた。そして神社を立ち去ってからの自分の日々を、ゆっくりと振り返ってみる。歩んだ道はどろどろで血まみれで汁まみれで、昔の自分とかけ離れていた。
みそぎは一人だった。ケガレた身体。犯された身体。抱かれた身体。殴られた身体。そんな身体で稼いだお金。そんな身体に宿った命には、産み落とされる場所も祝福される家族もない。何も無い。何も無い何も無い。
死んじゃえ。
簡単だった。
「……そう、だよね」
簡単すぎる結論。もういい、疲れた。もう嫌だ。
「そうだよね。なんで私、こういうことしてるんだったっけ。エンコーなんて疲れるだけで、ホントは気持ち良くもなんともないんだけどね。でもオトコって結構単純だから、私が駅前に立ってるだけで声掛けてくれて、ご飯奢ってくれて、ホテルに誘ったらホイホイついてきてくれるんだよね。感じてるフリしたら喜ぶしお金くれるし、それでまた私は服とか買えばいいし」
ひも、どこだろう。
「お父さんもお母さんも神社の人たちも、勝手すぎ。私って神社でどういう扱いだったんだろうなー。後継者って立場だけなのかな。娘って思われてたんだっけ。だいたいお父さんもお母さんも外に愛人作って神様に背いて、それでいて表向きには信仰心が篤い人を演じてたんだっけ。私がこんなケガレちゃうのも無理ないよね。そういう人の子供なんだから」
ひも、あった。
「……そもそも愛されてたのかなぁ、私。家だけじゃなくて、みんなに。みんな……って、ああ、学校のみんなか。最近会ってないなー。会いたいわけでもないしもう忘れられちゃってるんだろうし、今の私にとってもそんなに大事じゃないし……。ひとりぼっちひとりぼっち」
わっか、つくって。
「ひょっとしたら私、分かってたのかも。お金なんて稼いだって使い道無いし無意味だし。エンコーも虚しいばっかり。慣れないきゃぴきゃぴの服着てオトコ引っ掛けてセックスしておしまい。身体だってボロボロかもだし、てゆーか実際こうやって妊娠しちゃったし。」
いすにのって。
「抱かれたって気持ち良くも何ともないし。何が楽しくてお金払って、オトコは私を抱くんだろうなー。セックスってそんなにいいのかなー。正直、自分の指でするほうが気持ちいいような気がするかも。うーん、もしもいつか彼氏が出来て、そしたらたぶんセックスするわけだけど、今みたいに何も感じないのかなー。……どうせ死ぬからいいけど」
ひも、つるして。
「お父さんとお母さんが出て行って、私が神社から追い出されて、それでこんな生活になってそれが続いて……。ホントは私、もうどうしようもないかも。てゆーかもうダメなんだろうなぁ。……って、たぶん心のどこかで、分かってたのかも」
くびを、とおして。
「……もう、つかれた」
そこまで一気に吐き出してから、みそぎはぽつりと最後に漏らした。自分が今まで何を言っていたのかさえよく覚えていないけど、ただ漠然とした何かを悟ったような、ちょっとした清々しさの中にいた。それでもやはりすごく疲れていて、だから。
「もう、駄目だ、私」
それだけだった。だからもう、やっぱり駄目で、だから、えっと……。
この椅子に乗る足を浮かせればおしまいだということを、みそぎは思い出した。それが嫌だとは思わないし、だからといってこのまま生きようだなんて思えなかった。思えるはずがなかった。
自分の考えがまとまらないけれど、やっぱりみそぎは心のどこかで終わりを待ち望んでいたのかもしれない。そうとも思えたし、そうとも思えなかった。けれどこの足を浮かせれば、何もかもおしまい。
「さよなら」
おしまいでいい。もう、いい。
かみさま、ごめんなさい。
椅子が倒れる音がした。
‐九‐
神様なんているはずない。そんな風に言う人に向かって、みそぎはいつも食ってかかった。そんなことはない。神様は、いる。
例えば悪い事をしたら報いが自分に返ってくる。善い事をすればきちんと見返りがある。奇跡だって起こるし、不幸な奇跡も起こってしまう。それは全部、神様のおかげ。みそぎは昔からずっと、そんな風に信じていた。
神事を心から行った。経文を丁寧に読み上げた。神社を熱心に掃除した。神様がいると信じていたから、そうやって神社を大切にしていた。神様はいる。いるからいる。当たり前のようにみそぎは思っていた。
みそぎは知っていた。
神様を信じる人にほど、奇跡は起きるということを。だから自分には昔から、ちょっとした幸運が起こっていた。人より運がよかったし、それは神様のおかげだと信じていた。だからみそぎは、神様を信じた。
けれど、両親が離婚して売春を始めるようになって、みそぎは少しずつ、神様の事を恨み始めていた。
神様を待っていたら餓死してしまう。だからみそぎは身体を売った。そもそも神様がいるのなら、今もきっと、神社で巫女として生きていた。起こらなくてよかった奇跡のせいで、みそぎは妊娠してしまった。
みそぎは神様を恨んだ。神様を否定した。自分自身を否定した。
だから諦めてしまえた。神様なんていない。私なんていない、いらない。簡単にその結論にたどり着いた。だから足を離した。何もかもを終わらせたかった。
終わってほしいと、最後に願った。
‐十‐
目が覚めると、朝だった。
「…………えっ」
床の模様。倒れた椅子。近くに落ちているひも。力無く床に倒れている、みそぎ。
「なん……で?」
記憶が少しずつ戻ってくる。確か椅子から足を離して、強烈に首が締め付けられて息が出来なくなって、苦しくて苦しくてバタ足でもがいて、けれどやっぱり苦しくて、首に食い込むひもを握ってみたりしたけれど、それでもやっぱり苦しくて。
最後に遠くでごめんなさいって呟いて、視界が白だか黒だかに変わって、それで全て終わったはずだった。
けれど、生きている。
呼吸をしている。床にぶつけた顎が痛む。明らかに生きているという証拠。床にひもが落ちている。これで首を吊ったはずなのに。
首を通していたはずの輪が無い。結び目が解けていた。
奇跡的に、助かった。
神様のおかげで助かったんだと、思い出すのは簡単だった。
「う、そ……」
みそぎは助かった。生きていた。奇跡的にその命は、消えるギリギリでこの世に引き戻された。奇跡的に助かった。自ら死を望んでも、実際に死のうとしても、みそぎは助けられた。望んでもいないのに、助かった。
死にたかった。終わらせてしまいたかった。なのに。
「……なんで」
ドンッ! と床を殴る。ドンッ! ドンッ! と叩いて叩いて殴って殴って、握った拳が痛かった。
結局生きている。
きっとお腹の子供もそのままで、お金がいるから今日もまた駅前に立って、顔の無い男を引っ掛けて抱かれてお金を貰って、明日もまた同じで明後日もその次も次も次も次も次もずっとずっとずっとずっと同じで。
「なんでよぉ……! どうして、どうして!」
悔しかった。とにかく悔しかった。もう終わったはずなのに、そう思えて諦めたのに。何もかもを手放そうとしたのに。結局何も変わらない毎日が、みそぎの前に立っている。そんな現実がたまらなく、辛かった。
「どうしてよぉ……。」
ぽろぽろと。
瞳から零れるおかしいものを流しながら、みそぎはひたすら泣き叫んだ。たった一人の世界の中、ただひたすら、泣いた。
‐十一‐
「ねぇ」
見ず知らずの男の声に、藤原みそぎは顔を上げる。30代に見えるサラリーマンらしき男が、みそぎの前に立っていた。
「こんな時間にどうしたの? 家出?」
いつもと同じような言葉。みそぎはまた、この駅前に返って来た。
「……なんかすごく辛そうだけど、大丈夫?」
金のピアス。流行りの服。完璧なメイク。短いスカート。ハンドバッグ。男を釣るための服を着て、みそぎは今日も駅前に立つ。
「大丈夫、です」
「そっか。ならいいけど」
「でも、帰る場所が無いんです。お兄さん、助けてください」
きっと魅力的であろう笑みを浮かべて、みそぎはそういった。男はみそぎの意図を汲み取ったのか、そっとみそぎの手に指を絡める。
ご飯を食べてアプローチして、いつものようにホテルになだれ込めばそれでいい。紳士的な人だし稼ぎもありそう。きっと五、六万円は稼げるだろう。
「名前、なんていうの?」
「みそぎ」
「みそぎちゃんか。綺麗な名前だね」
「ありがとうございます」
ここが自分の居場所だから、みそぎは今日もここで生きる。神社とかかみさまとか、そんな記憶は儚くなって、いつしか今に塗りつぶされてしまった。
どうか私を買ってください。
口の奥でみそぎは呟く。それでよかった。それだけだった。