第9話:魔法の終わりと、残酷な朝
頬を撫でていた、あの清らかな水気を含んだ風が、不意にその温度を失った。
代わりに鼻腔を突いたのは、埃っぽくて乾燥した、機械仕掛けの無機質な空気だ。
耳の奥で、異世界の静寂を切り裂くように、聞き慣れた電子音が規則的な刺突を繰り返す。
(……あ)
瞼を押し上げると、そこには吸い込まれるような碧い空も、ハクさんの銀の鱗もなかった。
視界に映るのは、染みのついた天井と、洗濯物の山が放置された、ひどく狭くて薄暗い六畳間。
指先が触れたのは柔らかな草ではなく、湿り気を帯びて肌に張り付く、安物のシーツの感触だった。
枕元で震えるスマートフォンが、未読メッセージの件数を無慈悲なデジタル数字で表示している。
胃の腑が、冷たい泥を流し込まれたように重く、鋭く収縮した。
「魔法」が解けたのだと、脳内の論理回路が冷徹に、最短のルートで結論を導き出す。
けれど。
胸の奥にはまだ、あの焚き火の熱が、確かな重みを持った「盾」として残っていた。
カーテンの隙間から差し込む朝日は、異世界のあの黄金色の光とは似ても似つかない、白く濁った暴力的な色をしていた。
枕元で、スマートフォンが短く、鋭く、三度震える。
青白い液晶画面に浮かび上がったのは、見慣れたコミュニケーションツールの通知アイコンだ。
『佐藤さん、昨日の修正はどうなっていますか?』
『至急、返信をお願いします』
一文字ずつ網膜に焼き付く文字列は、かつての私をフリーズさせたあの冷たい鎖そのものだった。
胃の奥がせり上がり、喉の奥で呼吸が渋滞を起こす。
指先は冷たく重い。
まるで電源を切られた端末のように、思うように動かなかった。
けれど、耳の奥で、焚き火が爆ぜる音とあの低い声がリフレインした。
『それは、檻の内側で互いの傷を比べ合っている者の悲鳴だ』
不規則な鼓動の裏側で、昨夜授かった「羨望の盾」が展開を開始する。
静かに、しかし強固な熱を帯びて。
私は震える指先でスマホの画面をなぞり、その通知を、かつてのように自分を断罪する刃ではなく、ただの無機質なデータの羅列として、冷静に俯瞰しようと試みる。
私はゆっくりと上体を起こした。
シーツが擦れる乾いた音が、静まり返った部屋に低く響く。
視界の端、机の上に置かれた飲みかけのペットボトルが、結露した水滴で輪を作っている。
それは、あの湖の澄んだ波紋とは似ても似つかない、滞留した時間の残骸だった。
再び、手のひらの中でスマートフォンが震える。
通知画面を埋め尽くす赤い未読バッジ。
以前の私なら、それを見るだけで意識の解像度が落ち、心停止を待つだけの障害物と化していただろう。
けれど今、私の瞳には、液晶の青白い光がただの物理的なスペクトルとして映っている。
ハクさんの言った通りだ。
この文字列を必死に打ち込んでいる「正しい人たち」もまた、同じ青白い光に顔を焼かれ、出口のない処理のループに閉じ込められているに過ぎない。
私の胸の奥で、異世界の焚き火がまだ爆ぜる音を立てている。
その微かな熱が、冷え切っていた指先にまで確かな信号を送り届けていた。
私は重たい瞼をしっかりと持ち上げ、鏡のない世界で手に入れた自分の輪郭を、この薄暗い四角い箱の中で再定義しようと試みる。
胸の底で小さな火花が爆ぜた。
(……ええ。最高、でしょう?)
画面の向こう側にいるのは、私を裁く神ではない。
ただ檻の中で、自分たちを縛る定規を必死に守りながら悲鳴を上げている、哀れな囚人たちだ。
私は震える指で、それでも確かに、スマホを強く握りしめた。
ただ涙を流してフリーズするだけのフェーズは、もう終了した。
薄暗い部屋の片隅、鏡に映った自分の瞳には絶望のノイズではなく、静かに、しかし鋭利な「反逆の意志」が、確かな光となって宿っていた。
指を動かす。
あの日、卓上と一体化したように「固着」していた右手は、今は驚くほど軽く、私の意志に従った。
ブラウザを立ち上げ、検索窓に打ち込むのは、上司への謝罪の言葉ではない。
「心療内科 当日予約」という、今の私にとって最も合理的な実行コードだ。
画面上の空き状況を確認し、事務的に必要なパラメータを埋めていく。
予約完了の通知が届く。
それは、会社というシステムからのログアウトを正式に要請するための、最初の手続きだった。
次にメールアプリを開く。
宛先はチームの共有アドレスと人事。
『件名:体調不良による欠勤および休職の相談について』
内容は、社内規定のテンプレートをなぞる。
一文字の感情も、言い訳という名のノイズも挟まない。
ただ自身の状態を「稼働不能」としてシステムに上申するだけの、冷徹なパケット交換だ。
送信。
指先が微かに痺れる感覚があった。
けれどそれは、施しという名の債務に震えていたあの夜の熱とは違う、確かな「生存」のための震動だった。
私はスマートフォンの電源ボタンを、長く、深く、押し込んだ。
液晶の青白い光が一点に収束し、ノイズの海が完全な黒へと沈降していく。
直後に訪れた静寂は、あの絶望的な「空白」とは決定的に質が異なっていた。
埃が舞い、洗濯物の山が放置された、薄暗い六畳間。
けれど、私の肺はもう、泥を吸い込むような倦怠感を拒絶している。
窓から差し込む白い光を真っ向から受け止め、私は深く、ただ深く、自分のためだけに息を吐き出した。
「……ええ。最高、でしょう?」
ハクさんの笑みを思い出し、私は誰に聞かせるでもなく、今度ははっきりと声に出して呟いた。
そこにはもう、他者の定規に怯える影はない。
私は自分の手で、この現実の中に、猫を撫で本をめくるための「聖域」の第一歩を刻み始めていた。
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