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第8話:残酷な正論と、羨望の盾

 夜の静寂が、焚き火の熱を奪うように深まっていく。

 ハクさんの縦長の瞳は、私の心の奥底に沈殿した、自分でも直視を避けてきた濁りを真っ直ぐに射抜いていた。

 

「……君が恐れているのは、仕事ができないことじゃない」

 

 低く、慈悲のない響き。

 それはあの日、受話器越しに突きつけられた断罪の声よりも鋭く、私の内側を切り裂いた。

 

「君が本当に怯えているのは、誰からも評価されず、何者でもない、取るに足らない人間になることだ。自分という存在の重みを他者の眼差しに委ね、その針がゼロを指すことを、死よりも恐れているのだろう」

 

 心臓が不規則なリズムを刻み、一瞬、拍動を忘れる。

 喉の奥が引き絞られ、溢れ出そうとした反論は、形を成す前に冷たく固まった。

 膝を抱える指先が白く強張り、あのアスファルトの街で椅子に縛り付けられていた時と同じ、逃げ場のない閉塞感に支配される。

 

 私は何も言い返せず、ただ視界の端で白く乾いていく灰を見つめることしかできなかった。

 頬を伝う熱い雫が、土に吸い込まれて消える。その音さえ、今の私には逃げ出した自分への残酷な宣告のように響いた。


 ハクさんの言葉が、夜の風に乗って私の輪郭をなぞり直していく。

 

「彼らが君を『落伍者』と呼ぶのは、そう呼ばなければ自分たちの『正しさ』が砂の城のように崩れてしまうからだ。定規を捨てた君を、彼らは眩しすぎて正視できない。だから泥を投げ、君を自分たちのいる暗い檻まで引きずり戻そうとする」

 

 ハクさんは、膝の上で組んでいた指を解き、夜空へと向かって掌を広げた。

 

「それは軽蔑ではない。自分たちが決して許されない『自由』を先に手にした者への、剥き出しの嫉妬だよ。……もう一度言おう。君が感じているその痛みは、彼らが逆立ちしても届かない聖域に、君が辿り着いてしまった証だ」

 

 心臓の奥で、今まで私を刺し続けていた無数の視線が、不意にその向きを変えた。

 「見下されている」と思っていたあの冷たい目は、実は檻の隙間からこちらを「見上げる」、絶望的な羨望の眼差しだったのではないか。

 

 そう思った瞬間、背筋を凍らせていたあの冷たい風が、自分を守る硬質な「膜」へと変質していくような奇妙な感覚を覚えた。

 他者の評価という刃が、私の皮膚を裂く前に、その見えない盾に当たって火花を散らし、虚空へと弾け飛んでいく。

 

 私はゆっくりと顔を上げた。

 ハクさんの縦長の瞳が、火影を映して黄金色に輝いている。

 喉を塞いでいた泥はもう枯れ果て、代わりに、今まで感じたことのない静かな、けれど傲慢なほどの充足感が胸を満たしていた。


「ユイ。君は彼らにどんな言葉を投げかける?」


 私は、焚き火の熱で乾いた唇をゆっくりと動かした。

 

「……ええ。最高、でしょう?」

 

 掠れた声だったが、震えてはいなかった。

 自分の内側にあった、あの重たくて冷たい「正しさ」の残骸が、目の前の火影に焼かれて消えていくのを静かに見届ける。

 

 ハクさんは、満足げに喉の奥で小さく笑った。

 そのはにかんだような笑みが、暗闇の中で銀の鱗を柔らかく光らせる。

 

 不意に、視界が熱い湿り気に覆われた。

 それは過呼吸の苦しさや、自己嫌悪の惨めさから来るものではない。

 何者かであるための証明書も、他人の定規も。

 すべてを投げ捨てた後の、ひどく軽やかで、頼りない「自分」という質量が溢れ出しただけだった。

 

 頬を伝う雫は、焚き火の熱を吸って温かい。

 私は膝を抱える腕の力を抜き、ただ、白く乾いた灰へと還っていく過去の呪縛を見つめ続けた。

 

 ふと、湖の向こう側の空が、濃い藍色から薄い紫へと溶け始めていることに気づく。

 夜の終わりを告げる微風が、静寂を優しく揺らした。

 この凪いだ時間が、朝露が消えるようにいつかは終わってしまうのだという、予感にも似た切なさが胸をかすめる。

 

 けれど、私の胸にある「羨望の盾」は、もう誰の冷たい言葉も通さないほど、硬く、そして温かく私を守っていた。

最後までお読みいただきありがとうございます!

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