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第7話:承認欲求の亡霊

 焚き火が爆ぜる音が、対話の空白を埋める唯一の信号となっていた。

 私は膝を抱え直し、赤く爪の跡が残る手のひらを、あえて火の熱に晒す。

 

「……昨日話した私の夢。猫を撫でて、本を読むだけの生活。あれは、嘘じゃないんです。私の、本当の願いです」

 

 掠れた声は夜の湿った空気に溶けて、重たい質量を伴って足元の土に落ちた。

 ハクさんは動かない。

 ただ、揺らぐ炎の熱をその銀の鱗に反射させながら、静かに私の言葉を待っている。

 

「けれど、もしあちら側の誰かに『今は何をやっているの?』と聞かれたらと想像するだけで、肺の奥がひきつるんです」

 

 立派な仕事も、誇れる役職も持たない今の私。

 それを「私の幸せです」と、濁りのない声で他者に告げるための言葉を、私は何一つ持ち合わせていない。

 

 指先が、無意識に草を一本引き抜いた。

 あのアスファルトの街では、何者かであるための証明書を、常に首から下げていなければならなかった。

 

 誰にも評価されず、一銭の利益も生み出さない聖域。

 その美しさを認めれば認めるほど、社会という巨大な群れから「不必要な余剰」として間引かれる恐怖が、背筋を冷たく撫でていく。


 視界が、火の粉の熱とは別の湿り気を帯びて歪んだ。

 膝を抱える腕に力を込めると、爪が肉に食い込む鈍い感触だけが、今の自分の重みをかろうじて繋ぎ止めてくれる。

 

「……猫を撫でて暮らす生活は、本心なんです。でも、それと同じくらい、自分が『空っぽ』だと思われるのが耐えられない。同僚や友人が、私の背中を見て『結局、あんなところに逃げたんだ』と憐れむ。その視線が、刃物みたいに刺さるんです」

 

 喉の奥で、未消化の言葉たちが熱い塊となってせり上がる。

 あれほど憎んでいたはずの定規。私の心を擦り減らし、呼吸を止めたはずのあの価値観。

 それなのに、私は誰よりも、その定規で高い数値を刻みたかった。

 

 誰かに必要とされ、名前の横に立派な肩書きを添えて、「私はここにいてもいい人間だ」と証明したかった。

 ハクさんの凪いだ瞳を見ることができず、私はただ、焚き火の足元で白く乾いた灰へと変わっていく薪の残骸を凝視した。

 

 一度溢れ出した告白は、泥流となって私の制御を離れていく。

 

「あんなに苦しかったのに。あんなに、あそこには戻りたくないと思っているのに……。私はまだ、あの人たちの――正しい人たちの定規を捨てきれずに、自分を測り続けているんです。……醜いですよね」

 

 火の粉が爆ぜ、熱い飛沫が頬を伝って土に吸い込まれた。


 沈黙が、焚き火の熱を吸い込んで重たく停滞した。

 私は顔を上げられず、ただ自分の膝を強く抱え、視界の端でゆらゆらと踊る影の輪郭だけを追う。

 

 かつて私が身に纏っていた「正しさ」という名の鎧は、ここでは一銭の価値もない重石に過ぎない。

 けれど、それを脱ぎ捨てた後に残ったのは、冷たい夜気に晒される剥き出しの、震えるほどに頼りない自意識だけだった。

 

 不意に、薪が一つ、高く乾いた音を立てて爆ぜた。

 

 ハクさんが、初めてこちらを真っ直ぐに見た気配がした。

 彼から放たれる空気が、凪いだ湖のような穏やかさから、底の見えない淵を覗き込むような、静謐で重厚なものへと変質していく。

 

「醜い、か」

 

 低く、地を這うような響き。

 それは耳当たりのいい慰めでも、全肯定の甘さでもなかった。

 

「ユイ。君は先ほど、あちらの世界の人間を『正しい人たち』と呼んだね。……なら、君にその刃を突きつける連中は、今この瞬間、幸福な顔をして笑っているのかい?」

 

 銀の鱗が火影に煌めき、縦長の瞳が私の瞳を射抜くように固定された。

 その眼差しは、私が今まで浴びてきたどの評価の視線よりも鋭く、そして、どこまでも真剣だった。


 ハクさんは、手元にある細い枝で焚き火の芯をそっと突き、行き場を失っていた火の粉を夜空へと逃がした。

 

「彼らは、自分たちの正しさを証明するために、君という『失敗』を必要としているだけだ。定規を握りしめ、誰かを測り、劣っていると断じることで、ようやく自分の立ち位置を確信できる。……それは、この火の温かさを知らず、冷たい檻に閉じ込められている者の悲鳴に過ぎないよ」


 ハクさんはそこまで言うと、さらに言葉を重ねた。


「だが、誤解しないでほしい。仕事という熱源から、眩いほどの幸福を汲み上げる者も、この世界には確かに存在する。それはそれで、一つの完成された生き方だ。自らを削り、何かを成し遂げることで得る実存の光は、否定されるべきものではない」


 ハクさんは爆ぜる火を見つめたまま、静かに言葉を継いだ。

 その声には、かつて役割に縛られた者としての――あるいはそれを捨てた者としての、冷徹なまでの客観性が宿っている。


「しかし、幸福を濾し取るための網は、それ一つしかないわけじゃない。窓辺の猫を撫でる指先に、あるいは本をめくる微かな音の中に、仕事で得るものと全く同質の、あるいはそれ以上の安らぎを見出す自由が、君にはあるんだよ」

 

 心臓の奥が、熱い鉄を流し込まれたように疼いた。

 私の脳裏に浮かぶのは、深夜のオフィスで青白い光に照らされた、同僚たちの削げた頬と、光を失った瞳だ。


 彼らは確かに「正しい」手続きの中にいた。

 けれど、その乾いた時間の中に、幸福の欠片でもあっただろうか。

 

「君が逃げたのではない。君はただ、その檻の鍵が最初から掛かっていないことに気づいただけだ。残された連中は、檻の外に出る勇気がない自分を正当化するために、外に出た君を『落伍者』と呼びたがる」

 

 ハクさんの言葉が、私の喉を塞いでいた冷たい泥を、ゆっくりと、けれど確実に削り取っていく。

 

「羨望。……あちら側の連中が君に向けているのは、軽蔑ではない。自分たちには決して許されない『休息』を奪った者への、剥き出しの嫉妬だよ。君が感じているその痛みは、彼らが決して届かない場所へ、君が辿り着いてしまった証だ」

 

 風が、湖の静寂を運んできた。

 首筋に張り付いていたあの冷たい視線が、ハクさんの言葉によって、惨めな敗北者の泣き言へと姿を変えていくのを、私は震える指先で感じていた。


 ハクさんの言葉が、焚き火の熱気と共に私の内側へ流れ込み、長い間居座っていた冷たい「重圧」と衝突した。

 

 嫉妬。

 あのアスファルトの街で、常に私の背中を焼き、肺を押し潰してきたあの視線。

 それを「羨望」と定義し直した瞬間、皮膚の裏側に張り付いていた見えない鎖が、不意に、その質量を失ったような奇妙な浮遊感を覚えた。

 

 ハクさんは、膝の上で組んでいた指を少しだけもぞつかせ、焚き火の爆ぜる音に紛れるほど小さな声で言った。

 

「……誰にも測られず、ただこうして火を眺めて時間を捨てる。最高だと思わないかい」

 

 そう言って私に向けられたのは、今までのような凪いだ静止ではなく、どこか気恥ずかしさを隠しきれないような、はにかんだ笑みだった。

 縦長の瞳が、火影に揺れて柔らかく細められる。

 その体温の宿った表情が、凍りついていた私の胸の奥に、名前のない確かな救いとなって染み渡っていった。

 

「……最高、でしょう、か」

 

 彼の言葉をなぞるように呟いた声は、まだ震えていたけれど、自分を責めるための鋭さはもう含まれていなかった。

 私はゆっくりと、大地に預けた自身の重さを、今度は「逃避」ではなく「休息」という名の確かな権利として、一滴ずつ吸い上げていく。

 

 私は、自分の中に深く根を張っていた「他者の定規」を、目の前で燃え盛る炎の中にそっと投げ入れる幻視をした。

 灰となって舞い上がるそれは、もう二度と私の輪郭を縛ることはないのだと、夜の風が耳元でささやいた気がした。

最後までお読みいただきありがとうございます!

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