第6話:フラッシュバックと、風と火の魔法
まぶたの裏側を、容赦のない光が刺した。
目覚めの瞬間に無意識に期待した、あの埃を被ったルーターの無機質な点滅も、部屋の隅で唸り続ける空気清浄機の音も聞こえない。
指先が探り当てたのは、冷え切ったフローリングではなく、露を含んで重たくなった土と、不揃いに伸びた草の生々しい感触だった。
ここは、あの息の詰まる四角い箱の中ではない。
意識がはっきりとするにつれ、帰り道を見失ったという事実が、重い石のように胸の奥へ沈んでいく。
昨日までの出来事が、消えない絵の具のように鮮明に脳裏へ定着していた。
***
ハクさんは今日も、昨日と変わらぬ場所に座り、静かに糸を垂らしていた。
私はその背中から少し離れた場所で、昨日自ら口にした「夢」の光景をなぞるように、陽の当たる草むらへ身体を投げ出す。
陽光は羽毛のように柔らかく、風には名も知らぬ花の香りが混ざっている。
かつて、あのアスファルトの街で喉から手が出るほど欲した、何者にも邪魔されない空白の時間。
けれど、いざその真っ白な沈黙に身を浸してみると、皮膚の裏側を虫が這うような、説明のつかない居心地の悪さが、じりじりと肌を焼いた。
何度も寝返りを打ち、意味もなくスカートの裾を指先で捻り続ける。
「……落ち着かないか」
ハクさんの声は、波紋一つない湖面を渡る風のように、私の内側で暴れる濁った音を静かに掬い上げた。
「……そんなことは」
言いかけて、言葉が喉の奥で冷たく固まった。
否定しようとまぶたを閉じると、網膜の裏側には碧い空ではなく、あの青白い光を放つモニターが、残像のように焼き付いていた。
不意に、耳の奥で、整列したデスクの間を縫うような、あの冷淡な足音が響き始める。
『佐藤さん、また逃げるんですか?』
『君がのんびりしている間も、他の誰かがその穴を埋めているんだよ』
幻聴だ。
分かっているのに、背筋に冷たい水が走るような悪寒が止まらない。
穏やかだったはずの風が、鋭い刃となって私の喉元をなで、肺から酸素を奪っていく。
ドクン、と心臓がひときわ大きく、不規則なリズムを刻んだ。
さっきまで温かかったはずの日差しは、今や私をあぶり出すスポットライトのようにひどく熱く、そして残酷に感じられた。
「はっ、……ぅ、あ……」
喉が、泥を流し込まれたように重く塞がる。
必死に空気を求めようとするほど、気道は細く癒着し、自分の呼吸音がやけに高く、他人事のように響いた。
湖畔の静寂が、突如として逃げ場のない檻に変貌していく。
私は草を掴み、自身の胸元を掻きむしるようにして、震える身体を丸めた。
視界の端が白く濁り、碧い空が砂嵐のように色を失っていく。
指先で掴んだはずの草の感触はどこか遠く、代わりに、ひどく冷たくて重い「何か」が、絶え間なく肺の隙間を埋めていった。
「……ユイ。ここを見なさい」
地を這うような低い声が、パニックの渦に呑み込まれそうになっていた私の意識を、辛うじて一点に繋ぎ止めた。
不意に、周囲の空気が渦を巻き、一陣の清涼な風が私の首筋を吹き抜けた。
それは自然の風ではなく、意志を持った冷たい奔流だった。
気管を塞いでいた重たい泥を押し流し、凍りついた奥底まで無理やり酸素を送り込んでいく。
私の目の前の草むらに、小さな、けれど確かな意志を持った橙色の灯が灯った。
「大丈夫だ。呼吸を、その火の揺らぎに合わせてごらん」
ハクさんは触れることなく、ただ私の傍らに静かに佇んでいる。
陽光の下で小さく爆ぜる炎は、不規則な、それでいて不思議と心臓の鼓動を宥めるようなリズムを刻んでいた。
「ここに、君を責める者は誰もいない。私も、この風も、その火も、君にとってはただの夢の住人だ」
彼の言葉が、刃となって突き刺さる幻聴を、静かに塗りつぶしていく。
私は火の粉が舞い上がるのを見つめ、泥を吐き出すように、震える呼吸をひとつ、ゆっくりと吐き出した。
橙色の灯火が、芝生の上で不規則な影を踊らせていた。
耳のすぐ後ろで鳴り響いていたあの金属的なノイズが、焚き火が爆ぜる音に押し流され、ゆっくりと遠ざかっていく。
肩の尖った力みが、自身の重みに耐えかねるようにして一段階ずつ落ちていく。
肺の奥にこびりついていた冷たい泥が、目の前の熱によって、さらさらとした乾いた砂へと変わっていくのが分かった。
私は膝を抱えたまま、横目でハクさんを盗み見た。
彼はやはり、こちらを見ようとはしない。
ただ、夕刻へと傾き始めた光の中で、自身の指先の影をじっと見つめている。
「……火が、温かいです」
ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていて、夜の露に濡れた古紙のような質感を伴っていた。
ハクさんは小さく鼻を鳴らした。
それは肯定でも否定でもない、ただそこに私が存在していることを認めるだけの、静かな合図だった。
平穏。
私が何よりも欲し、同時に何よりも恐れていた空白。
呼吸が整うにつれ、先ほどまで私の肺を潰そうとしていたあの罵倒の主たちが、ひどく無機質な、色のないデータの羅列に見えてくる。
けれど、安堵のすぐ後ろ側に、針のような疑問が刺さった。
鏡を見ないまま、どうやって自分の顔を確認すればいいのだろう。
私を「無能」と切り捨てたあの定規がなくなった今、私の輪郭を定義してくれるものは、この世界には何一つ存在しない。
自由になれたはずなのに、私はまだ、首筋に食い込むはずの見えない鎖の跡を、指先で必死に探してしまっていた。
ハクさんが、手元の細い枝を一本、指先で小さく折った。乾いた音が静寂を弾き、私の意識を草の匂いへと引き戻す。
「評価する者がいない場所では、君はただの君でしかない。それはこの世界において、何よりも重く、尊い事実なんだよ」
彼の視線は、依然として湖面の向こう側にある。
私は自分の手のひらを見つめた。爪を立てた跡が赤く残り、そこだけがひどく熱を持っている。
あの部屋では、この手は常に何かを叩き、何かを生み出し、誰かの期待を数値化するための道具だった。
一分一秒を「対価」に変えられない時間は、ただの廃棄物であり、自身の無能さを証明する負債でしかなかった。
けれど、今、この指の間を通り抜ける風には、一点の採点基準も含まれていない。
「……贅沢すぎて、まだ、溺れそうです」
喉の奥にこびりついていた鉄の味が、火の熱に溶けていく。
私はゆっくりと身体を横たえ、自身の重さを大地に預けた。
柔らかい土が、私の不器用な背中をそのままの輪郭で受け止めてくれる。
耳を澄ませば、焚き火が爆ぜる音と、草が擦れる音。
それらは私に「何者かであれ」と強いることはなく、ただ一定のリズムで、止まりかけていた心臓を静かに急かしている。
目を開けると、橙色の火影が碧い空に吸い込まれていくのが見えた。
私は、自身を縛り付けていた鎖の感触を思い出しながら、初めて、それを自分から緩めようと指先に力を込めた。
***
夜の帳が、湖畔の輪郭をゆっくりと飲み込んでいく。
焚き火の明かりだけが、私の足元と、ハクさんの静かな横顔を世界から切り取っていた。
先ほどまで肺を焼いていたあの熱い泥は、もうどこにもない。
代わりに、今まで気づかなかった夜の冷たさが、心地よい重みを持って肌に触れている。
「……逃げても、いいんですね」
誰に問うでもなく漏れた独白は、パチリと爆ぜた火の粉と共に、闇の奥へと吸い込まれていった。
ハクさんは答えなかった。
ただ、新しく添えられた薪が、静かに、けれど力強く赤く染まっていくのを、縦長の瞳で見守っているだけだった。
沈黙は、もはや私を責める空白ではない。
私は火の揺らぎの中に、自分を「無能」と定義し続けてきたあの冷たいモニターの光を幻視する。
かつての私は、あの光に照らされることでしか、自分の輪郭を保てなかった。
けれど、今は違う。
影が濃くなるほどに、焚き火の温かさはより鮮明に、私の実存を証明している。
私は、自分の中に深く根ざした「他者の目」という名の毒を、一滴ずつ、この火で炙り出していく覚悟を決めた。
その痛みすらも、今は生きている証のように思えた。
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