第5話:本当の夢と、一番傷つく言葉
夕闇がさらに深まり、湖面は鈍い銀色へと沈んでいく。
ハクさんが焚き火の側に移動し、慣れた手つきで新しい薪をくべた。
パチパチとはぜる音とともに、橙色の火の粉が夜の入り口へと舞い上がる。
「焼けたぞ。冷めないうちに食べなさい」
差し出されたのは、じっくりと火を通された魚だった。
立ち上る湯気とともに、香ばしい脂の匂いが鼻先をくすぐる。
受け取った串の熱が、冷えかけていた指先をじわりと温めた。
一口、身を解いて口に運ぶ。
ふっくらとした白身が舌の上でほどけ、淡い塩気と豊かな旨みが喉を通っていく。
空っぽになっていた胃の腑に、確かな「生」の重みが落ちていく。
「……美味しいです」
ハクさんは自分の分の串を手に、私の向かいに腰を下ろした。
揺らぐ炎が、彼の頬の銀の鱗を優しく照らしている。
オフィスで浴びる無機質な蛍光灯とは違う、不規則で、ゆらゆらとした暖かな光。
私たちはしばらくの間、言葉を交わさず、ただ咀嚼する音と炎の爆ぜる音に耳を澄ませていた。
焚き火の爆ぜる音が、対話の空白を埋めるように響いていた。
ふと、ハクさんが視線を上げずに問いかけてきた。
「ユイ。君の夢は、なんだい?」
不意を突かれ、喉の奥が微かにひきつった。
「夢」という言葉。
それは、面接会場の白い壁や、年度初めの目標設定シートに並ぶ、ひどく無機質な文字列として私の記憶に刻まれている。
「……昔は、薬剤師になりたいと思っていました」
私は、自分の中に残っている「正解」の断片を、縋るように手繰り寄せた。
「誰かの役に立って、社会に必要とされるような、立派な専門職に……。今は、そうですね。もう少し、周囲の期待に応えられるような仕事ができるように……」
けれど、ハクさんは小さく首を振って、私の言葉を遮った。
その口元には、困ったような、それでいて柔らかな笑みが浮かんでいる。
「違う、違う。仕事の話を聞いているんじゃないんだ」
彼は串を置き、揺らぐ炎をじっと見つめた。
「役職や肩書きの話ではなくてね。君は、どんなふうに生きて、どんな時間を過ごしたかったんだい?」
向けられた問いは、私がこれまで積み上げてきた履歴書を、一瞬でただの紙屑に変えてしまうような、ひどく純粋な響きを持っていた。
喉の奥が、熱い魚の身とは別の熱を帯びて、キュッと狭まる感覚に陥った。
仕事を通さない自分なんて、これまでの人生で一度も検索したことがなかったからだ。
有用性や対価の伴わない「願い」を、脳内のどのフォルダに分類し、どう提示すればいいのかが分からない。
私は膝を抱え、パチパチとはぜる火の粉の行方をただ追った。
瞼を閉じる。
すると、意識の底から一枚の古いスライドが映し出されるように、その光景が浮かび上がった。
縁側の古い木材に、午後の陽光が斜めの筋を作っている。
その光の粒子の中で、微かな埃が踊るように舞い、古びた文庫本の乾いた紙の匂いが鼻腔をくすぐる。
膝の上には、丸まった温かな毛玉の確かな重み。
トクトクという心音と規則的な喉鳴らしの振動が、太腿を通じて私の心拍をゆっくりと整えていく。
ページをめくる指先の微かな摩擦音さえ、その世界では意味のある音楽だ。
それは、評価シートの数字を追い、誰かの顔色をパズルのように読み解く。
そんな日々の中では、決して許されることのない「怠惰」の極致だった。
けれど、その静寂こそが、私の魂が最も求めていた酸素だったのだと気づく。
数秒の「空白」が、ハクさんの待つ沈黙の中に溶けていく。
私は、自分の中の最も柔らかく、最も恥ずべき聖域を、絞り出すように言葉に変えた。
「……日向ぼっこをして微睡みながら、片手で猫を撫でて、本を読む人生です」
吐き出した言葉は、夜の空気に触れた途端、ひどく頼りなく、同時にひどく清らかな響きを持って消えた。
それは誰にも評価されず、一銭の利益も生み出さない、私だけの純粋な聖域だった。
けれど、その輪郭をはっきりと口にした瞬間、心臓の奥が冷たい指でなぞられたような震えが走った。
「立派な仕事」という鎧を脱ぎ捨ててしまった自分は、この世界でも、あの世界でも、ただの空っぽな存在になってしまうのではないか。
安堵のすぐ後ろ側に、拭いきれない恐怖が影のように張り付いていた。
ハクさんは焚き火の枝を少しだけ動かした。
火の粉が爆ぜて、彼の静かな瞳の中に小さな星が踊る。
「美しいな。君の聖域は、誰の許可も必要としない、完璧な場所だ」
その言葉が、私の喉の奥をさらに強く締め付ける。
本当は分かっている。
その穏やかな場所を守るための手段として、私はあの冷たい光の中で戦っていたはずだった。
ふと、脳裏に刃のような言葉が閃いた。
『君は本当に、仕事ができないね』
炎の揺らぎが、一瞬で青白いモニターの残像に塗りつぶされた。
耳の奥で、イヤホン越しに鼓膜を刺したあの低くて平坦な声が、心臓の鼓動に同期してリフレインを開始する。
「……ぁ」
胃の奥からせり上がってきたのは、腐った鉄のような味と、先ほどまで美味だった魚の脂さえも汚物に変えるような、強烈な吐き気だ。
肺はまだ酸素を求めているのに、気管に冷たい泥を流し込まれたように喉が重く塞がり、自分の呼吸音がやけに遠く、他人事のように響く。
指先に力を込め、膝の肉に爪を立てる。
けれど、その痛みさえ今の私には届かない。
私はただ、見えない断頭台に首を固定された罪人のように、その宣告が肉を裂くのを待つしかなかった。
「……ぁ、ぐ」
例えば、「料理が下手だ」と言われても、きっとこれほどは揺らがなかっただろう。
「歌が下手だ」「美人じゃない」と笑われても、ここまで呼吸が止まることはなかったはずだ。
けれど、あの宣告だけは、私の存在意義という根を、腐った土ごと抉り取っていく。
仕事という鎧が重くて苦しいと嘆きながら、私は誰よりも――その鎧に刻まれた「評価」という刻印を欲していたのだ。
自分を救うはずの場所が、皮肉にも私を最も深く傷つけるナイフになっている。
その矛盾に気づいた瞬間、指先の感覚が、冬の海に浸したように冷たく強張っていくのが分かった。
「無理をしなくていい」
ハクさんは私に一声かけた後、ただ静かに薪を足した。
橙色の火の粉が夜の闇へと吸い込まれていく。
その穏やかさが、今はかえって鋭い刃のように私の皮膚をなでる。
私の「夢」を知ったあちら側の人間たちは、一体どんな顔をするだろうか。
「いい年をして」「ただの逃避だ」「何も生み出さない空っぽの人間」。
冷たいモニターの向こう側で、口角を歪めて嘲笑う彼らの視線が、今も私の首筋に冷たく張り付いて離れない。
評価という定規を持たないこの世界は、あまりに眩しすぎて、自分の輪郭が霧散してしまいそうな感覚に陥る。
「聖域」だと言い切るには、私はまだあまりに多くの「正しさ」をあちら側から持ってきてしまった。
ハクさんが差し出してくれた温かな肯定さえ、いつか返さなければならない膨大な「負債」のように思えてくる。
暗い湖面を見つめる私の背中に、拭い去れない薄暗い影が、夜の帳とともに深く、静かに落ちていた。
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