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第4話:メキシコの漁師と竜人の釣り人

 最後の一枝を積み上げると、指先に残った乾いた樹皮の屑を払った。

 意味も分からず始めた作業だったが、私の膝元には、いつの間にか整然とした「秩序」が出来上がっていた。

 

「お疲れ様。助かったよ」


 ハクさんは静かに立ち上がり、湖のさらに先を指差した。


「場所を変えよう。あちらの方が、今の時間は影が落ちて涼しい」


 ハクさんの静かな促しに、私は完成させた小枝の山を最後に見つめて立ち上がった。

 踏みしめる土の湿り気は、相変わらず私の身体の重さを、そのままの質量で受け止めている。


    ***


 辿り着いたのは、湖に突き出すようにして横たわる、巨大な朽ちた倒木だった。

 

「かつて、ここで釣りをしていた奴がいてね」


 ハクさんが腰掛けたその場所は、長い年月の重みのせいか、微かに人一人が収まる分だけ窪んでいる。

 

 私は少し離れた位置に座り、再び垂らされた釣り糸を、じっと見つめていた。

 浮きが揺れる周期。微かな風が作るさざなみ。魚が跳ねる位置。

 考えたくないのに、頭の中では勝手に「効率的な答え」を探すための計算が始まってしまう。

 

 ハクさんの動作は凪いだ湖のように静かだが、私の目には、そのゆったりとした動きの中に多くの「無駄」があるように見えてしまった。

 最短の時間で、最大の成果を出すための手順が、私の意識を勝手に占領していく。

 

「ハクさん。あそこの波紋の境目……。あのあたりを狙ったほうが、もっとたくさん釣れるのではないでしょうか……?」

 

 喉の奥から、私を呪っていたはずの「最適化」への執着が、無意識に零れ落ちていた。


 ハクさんは、私の言葉を聞くと、喉の奥でくぐもった笑い声を上げた。

 それは私を嘲笑うような鋭い響きではなく、いたずらが見つかった子供を眺めるような、ひどく穏やかな響きだった。


「あ、いや……素人が、すみません……」


 思わず口をついて出た謝罪は、乾いた砂がこぼれるような音を立てて空気に消えた。

 

「はは、いやいいんだ。すまない、誤解をさせてしまったかな。面白いと思ってね。昔、これと同じ場所に座っていた奴も、全く同じことを言っていたよ」


 彼は遠い目をして、誰もいない対岸の深い緑を見つめる。

 

「彼はとても優秀な男だった。そんな彼が、毎日こうしてぼんやりと糸を垂らしている私を見て、『もっと効率よく釣れば、残りの時間を自由に使える』と、真剣な顔で提案してきたんだ」


 ハクさんの指先が、古びた竿の、銀色の鱗のように剥げかけた木肌をなぞる。

 

「私は聞いたよ。効率を上げて、余った時間で何をするつもりなんだい、と。彼は答えた。『そうすれば、誰にも邪魔されず、日向ぼっこをしながら静かに釣りができる』」


 ハクさんは一度言葉を切り、私をまっすぐに見つめた。

 

「おかしな話だろう? 彼は、その『静かな釣り』を、今まさにこの場所で、私の隣でやっていたというのに」

 

 ハッとして、喉の奥が詰まるような感覚に陥った。

 私が当たり前だと思っていた「効率」や「成長」という正義が、この凪いだ湖面の前では、ひどく滑稽な空回りに見えた。

 

 目的を達成するために手段を削ぎ落としてきたはずなのに、その削ぎ落とした「無駄」こそが、実は人生の目的地そのものだったのではないか。

 足元からこれまでの人生が崩れ落ちていくような感覚に、私はただ、握りしめた小魚の串の温かさだけを頼りにそこに座っていた。

 

「……その方は、今もどこかで釣りを?」

 

 掠れた声で問いかけると、ハクさんは静かに首を振った。

 

「いや。彼はもう、この世界の土になったよ。元の場所へ帰る機会はいくらでもあったはずだが、あいつは最後まで、この場所から動こうとはしなかった」

 

 ハクさんの言葉が、私の内側の柔らかい場所を無遠慮に突き刺す。

 

「彼にとっては、ここでこうして時間を『捨てる』ことこそが、何物にも代えがたい報酬になったんだろう。騒がしい場所で積み上げる成果よりも、この静かな湖畔で失っていく時間を選んだ。おかしな奴だよ、本当に」

 

 私がこれまで「無価値」だと怯え、切り捨てようとしていた空白の時間。それが、誰かにとっては人生の最後に求めた宝物だったのだ。

 

「……贅沢、ですね。私には、まだそれが怖いです」

 

 喉の奥がキュッと締め付けられるように熱くなった。

 かつての彼がこの場所を最後の安らぎとして愛したように、私もまた、あの冷たい光の檻から、ただ無様に転がり落ちてきただけなのだろうか。


 ハクさんは、私の震える声を受け止めるように、ゆっくりと釣り糸を巻き上げた。針には何もかかっていない。けれど、彼はそれを「無駄」だとは微塵も思っていないようだった。

 

「その『怖さ』は、君が向こう側で必死に積み上げてきたものの証だよ。空っぽの手でただここに座ることは、君にとって、自分という人間を無に帰すことと同じなんだろう」

 

 言い当てられた言葉が、冷たい風となって背筋を抜ける。

 ハクさんは空になった針を指先で弄びながら、穏やかに続けた。

 

「私の友人は、効率を上げて富を築けば、いつか何にも邪魔されずに家族と笑いながら釣りができる――かつて、彼はそう信じていたんだ。そのために彼は、今隣にいる家族との時間を削り、笑うための体力を擦り減らしていたんだ。……滑稽だろう? 彼は、『釣りをするための権利』を買うために、今まさにしている釣りを台無しにしていたのさ」

 

 心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

 

 私が、あの息の詰まる自室で、眠る間も惜しんでキーボードを叩き続けていたのは。

 いつか来るはずの「平穏な休日」のためだった。

 けれど、その平穏を手に入れるための対価として、私は自分の心そのものを支払ってしまったのだ。

 

 目の前の湖面が、夕刻の光を反射して眩しく揺れる。

 ゴールだと思っていた場所は、実は最初から足元にあったのかもしれない。

 そんな単純な事実に、私は、ひどく場違いな安堵と、言葉にならない情けなさを同時に感じていた。


 風が、湖の表面をなでるように吹き抜けていく。

 胸を締め付けていた見えない鎖が、ほんの少しだけ自重でたわんだような気がした。


 「効率」という名の急流に身を投じて、溺れないことだけに必死だった日々。

 岸に上がって初めて、自分がどれほど冷え切っていたのかを自覚する。


 ハクさんが再び釣り糸を垂らす。

 その無造作な背中を見ていると、明日への不安が、凪いだ水面へと溶けていくような錯覚を覚えた。

 

 けれど。

 静寂が深まるほどに、私の内側のどこかで、別のざわめきが鎌首をもたげる。

 ――もし、元の世界の人たちが今の私を見たら。

 

 「ただの逃亡者だ」「何も生み出さない、空っぽの人間」。


 冷たいモニター越しに投げかけられる、軽蔑を含んだ視線。

 評価という定規を持たないこの世界は、確かに心地よい。

 けれど、その心地よさに甘える自分を、あちら側の「正しい」人たちは決して許してはくれないだろう。

 

 夕闇が忍び寄る湖畔で、私の心には、拭い去れない薄暗い影が静かに落ちていた。

最後までお読みいただきありがとうございます!

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