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第3話:翻訳されない「生産性」と、100年前の勇者

 静寂は、私の存在を削る刃ではなく、ただ優しく包み込む器だった。

 湖面を見つめる彼の横顔を、盗み見るように視界の端に捉える。

 

「……佐藤、結衣です」

 

 吐き出した文字列は、今の私には意味をなさないラベルのように感じられた。

 所属も、役職も、勤続年数も剥がれ落ちた、中身のないただの記号。

 

「ハクだ」

 

 彼は湖面から目を逸らさず、短く応じた。

 その低い声の振動が、湿った草を伝って私の手のひらに微かに響く。

 

 肩書きの交換を伴わない、最低限のパケット交換。

 履歴書も職務経歴書も必要のない、ただ「名」という音だけが空気に溶けていく。

 

「ユイ、か。いい響きだ。風が草を撫でる音に似ている」

 

 不意に、胸の奥が微かな熱を帯びた。

 それは、オフィスで浴びせられる評価の痛みではなく、自分という存在が「リソース」ではなく一つの「個体」として認識されたことへの、ひどく不器用な戸惑いだった。


    ***


 太陽の高度が上がり、湖面を叩く光の粒子が鋭さを増していく。

 微睡みの思考を、胃の奥から響く微かな音が遮った。

 リソース不足を示す物理的な信号。

 

「食べなさい。腹が減っては、夢も満足に見られない」

 

 ハクさんが、傍らの焚き火で焼いていた魚を差し出した。

 

 差し出されたのは、串に刺さった小魚だった。

 焼きたての身からは香ばしい脂の匂いが立ち上り、私の鼻腔を、現実的な「生」の質感で満たしていく。

 

 受け取った指先が、その熱に微かに震えた。

 一口、身をかじる。

 舌の上で解ける白身は、驚くほど温かかった。

 

 けれど、飲み込んだ塊が胃に落ちた瞬間。

 内側の論理回路が、一斉に警告を鳴らし始める。

 

 ――『対価』という文字列が、網膜の裏側で点滅を開始した。

 

 私は何も、生み出していない。

 この魚を獲るための労働も、火を熾すための技術も、一切提供していない。

 

「……っ」

 

 喉の奥に、鉄のような味がした。

 施しという名の債務が、泥のような重さとなって、せっかく取り込んだ栄養を塗りつぶしていく。

 

 無価値な私が、ただコストだけを膨らませているという事実。

 

「あの……私。何か、しなきゃ。お返しを……」

 

 震える声で、私は、自分を縛る唯一の物差しを必死に手探りした。


「労働で対価を払わせてください! 私に、生産性のある仕事を……!」

 

 喉を掻きむしるようにして、社会を生き抜くための、最も正しいはずの合言葉を叫ぶ。

 けれど、ハクさんは不思議そうに首を傾げた。

 

「……? 今、君の口から出た音は、中身のないノイズのように空気に溶けたぞ」


「えっ?」


「ロウドウ? セイサンセイ? すまない、その響きに重なる意味が、この魔法には定義されていないらしい」

 

 衝撃が、指先から全身へと伝播する。

 私が人生のすべてを賭けて、それがないことを死ぬほど恐れていた言葉たちが、ここではただの虚無として処理されている。

 

 世界から「無能」と切り捨てられたはずの私は、今、その「無能」という物差しさえ失って、真っ白な空間に放り出されたような眩暈を覚えた。

 拠り所を失った視線が泳ぎ、私は震える手で、食べかけの魚を握りしめる。

 

「……意味が、通じない……?」


「ああ。だが、君が何かをしたがっていることだけは伝わったよ」


 少し考えた後、ハクさんが応える。


「……なら、ちょうどいい仕事がある」


 ハクさんは足元に散らばった枯れ枝を指差した。


「この枝を、太さごとに分けておいてくれないか? 夜の火を絶やさないために必要なんだ」

 

 仕事。

 その響きに、私の思考回路が過剰なほど敏感に反応する。


 震える手で、私は乾いた枝を拾い上げた。

 指先に触れる樹皮はざらついていて、剥き出しの「生」の質感がある。

 太いものは火を長持ちさせ、細いものは最初の火種になる。

 これほど単純で、失敗のしようがないタスクを、私はかつて経験したことがあっただろうか。

 

 一分一秒を削り、数字の羅列を追いかける日々の中では、こんな「ノイズ」のような作業は、誰かがボタン一つで処理するべき不要なコストだった。

 けれど、今はこの単純な反復作業だけが、私の宙に浮いた自己肯定感を、かろうじて大地に繋ぎ止めている。


    ***


 枝を拾い分けながら、少し考える力が戻ってきた私は、ふと疑問に思ったことをハクさんへ尋ねる。

 

「……ねえ、ハクさん。どうして、私の世界の言葉が通じる魔法があるんですか?」

 

 手が止まる。

 私の世界の労働用語さえ弾き飛ばすこの「翻訳魔法」を、一体誰が、何のためにここに残したのか。


 ハクさんは視線を上げ、対岸の森のさらに先、遠い空の境界を見つめた。

 

「百年前、君と同じ世界から『勇者』がやってきて、恐ろしい魔王を討ち果たしたんだ」

 

 その貌は、凪いだ湖面のような静止を保ったまま動かない。

 

「魔王とは、己の役割に縛られた、哀れで恐ろしい存在だったらしい。その勇者が、我々と話すために残したのがこの翻訳魔法さ」

 

 かつてこの世界を救ったという英雄の遺産。

 けれど、その奇跡のフィルターは、私の喉に詰まった「生産性」という言葉だけを、まるで異物のように弾き飛ばした。

 

 魔王を倒した勇者が、なぜそんな不完全な、あるいは意図的な「欠落」を魔法に持たせたのか。

 

 拾い上げた小枝の乾いた感触が、手のひらでひどく頼りなく揺れた。

 勇者が作った魔法が、私の世界の最も「正しい」はずの言葉を拒絶している。その矛盾が、バグのように胸の奥で熱く疼いていた。


 私は黙々と、枝を分ける作業に戻った。

 指先に伝わる木の感触は、キーボードの無機質な打鍵感とは正反対の、不規則な凹凸に満ちている。


 世界を救った勇者。

 その人物が男性であったのかは知らないが、彼はこの世界の人々と手を取り合うために言葉の橋を架けたはずだ。

 なのに、どうして彼は、私が命を削って守ろうとしていた「正しい言葉」を、この橋から叩き落としたのだろうか?

 

(……生産性)

 

 心の中でその文字列をトレースしてみる。

 けれど、口から出そうとすると、喉の奥で形を失い、ただの乾いた吐息に変わった。


 勇者が意図的にこの言葉を消し去ったのだとしたら。

 それは優しさなのか、それとも、この世界への最後通牒だったのか?


 思考を深めようとした途端、脳内の処理がタイムアウトを起こしたように白く濁った。

 今はまだ、答えを導き出すためのリソースが足りない。

 別のことを考えよう。


 魔王、か。

 その脅威が排除された後のこの世界は、今、正常に稼働しているのだろうか。

 ハクさんは、魔王を「役割に縛られた哀れな存在」と言った。


 その定義が、今の私に重なりすぎていて、胸の奥のアラートが止まらない。

 

 異世界の柔らかな風に吹かれながら、私はただ、意味を失ったデータの残骸を拾い集めるように、小枝を積み上げていった。

最後までお読みいただきありがとうございます!

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