第11話:竜人と勇者の遺産
湖畔は、元の静寂を完全に取り戻していた。
かつてそこにあった、不規則で危うい呼吸音も、焼いた魚の脂が爆ぜる音も、今はどこにもない。
ハクは、使い古された釣り竿をゆっくりと畳んだ。
銀色の鱗が剥げかけた木肌に、指先を滑らせる。
それは、一つのフェーズが終了したことを示す、ひどく事務的な動作だった。
彼は傍らにあった焚き火の跡を、湿った土で静かに覆った。
熱を失った灰は、一筋の煙も上げることなく、ただ無機質な地面へと溶け込んでいく。
彼は一度だけ、結衣が座っていた場所――あの勇者の座り跡を、一瞥した。
そこには彼女の温もりも、あるいは「ええ、最高でしょう?」という小さな反逆の残響も、もう残っていない。
ハクは静かに立ち上がり、湖に背を向けて歩き出した。
踏みしめる草の音だけが、世界の唯一の信号として、彼の耳の奥で規則的に刻まれていた。
***
ハクが辿り着いたのは、森の奥深く、陽光さえも遠慮がちに差し込む静かな場所だった。
そこには、長い年月に磨り減った、名もなき墓標が一つだけ立っている。
かつて世界を救った英雄が、その生涯を静かに閉じた場所だ。
「……終わったよ、友よ」
ハクは墓標の前に跪き、その冷たい表面に大きな掌を当てた。
彼の手のひらには、かつて「魔王」という役割に縛られ、破壊の象徴として機能していた頃の強固な力はもう残っていない。
ただ、魚を焼き、糸を垂らすためだけの、不器用な竜人の手がそこにあるだけだ。
「お前は最後まで、あの『騒がしい場所』へ戻されることを恐れていたな」
ハクは、かつてこの場所に座り、心を病んで泣いていた友の背中を思い出した。
現実世界の労働に心を壊され、この世界に逃避し、そのまま土に還ることを選んだ一人の勇者。
「あの子はお前や私と違って強かった」
ハクは細い溜息とともに、誇らしげな合図を風に混ぜた。
「お前がこの世界から『生産性』なんていう、中身のないノイズを消し去ってくれたおかげで、あの子は正しく息を吸い、自分の足であちらへ帰ることができたんだぞ」
風が墓標の周りの草を揺らし、ハクの言葉を肯定するように通り抜けていく。
そこにはもう、役割に縛られた魔王も、評価に怯える勇者もいない。
ただ、凪いだ時間という名の遺産が、木漏れ日の中で静かに輝いていた。
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