第10話:息の仕方を思い出した私
カーテンの隙間から差し込む光が、シーツの上に散らばった光の粒子を静かに踊らせている。
かつての私を射抜いた暴力的な白さではない。
それはただ、朝という現象を肯定するように、そこへ静かに留まっていた。
目覚めのアラートが鳴らなくなって、数ヶ月が経つ。
重い泥に浸されたようだった肺の奥は、今では驚くほど軽く、澄んだ酸素を淀みなく受け入れている。
私はゆっくりと上体を起こし、足の裏でフローリングの確かな感触を確かめた。
かつて視界を占拠していた洗濯物の山も、結露したペットボトルの残骸も、もうどこにもない。
整理された棚には、背表紙の揃った文庫本が静かな秩序を保って並んでいる。
それは、誰に評価されるためでもない、自分という個体を維持するための最低限の、けれど確かなメンテナンスの記録だった。
キッチンのポットが、沸騰の合図を短く告げる。
電子ノイズではない、ただの日常が開始されたことを示すログ。
私は、窓辺へと歩み寄り、自分の輪郭を縁取る暖かな陽光を、そのままの温度で受け止めた。
湯気を立てるマグカップを机に置き、私は読みかけの文庫本を開いた。
窓際の椅子に深く腰を下ろすと、背中に伝わる陽光の熱が、あの湖畔で熾されていた焚き火の温もりを、微かな記憶の残像として連れてくる。
かつての私なら、この午前中の「空白」に耐えられなかっただろう。
皮膚の裏側を無数の焦燥感が這い回り、何者でもない自分を裁くための「定規」を、無意識に手探りしていたはずだ。
けれど今、私の指先は、ページをめくる心地よい摩擦音だけを求めている。
文字の海に沈降していく感覚は、情報の処理ではなく、ただ肺の膨らみを確かめるための穏やかな儀式だった。
一区切りついたところで、私はノートパソコンを開く。
かつては呪いの発信源だったその青白い光も、今はただの、物理的な発光体に過ぎない。
ブラウザのタブに並んでいるのは、保護猫の里親募集サイトと、残業の少なさを第一条件に絞り込んだ転職サイトだ。
「立派な仕事」という実存の光はもう探さない。
それは、私の聖域――縁側で猫を撫でる時間を維持するための、ただの実行コードで良かった。
***
画面を閉じ、私は大きく背伸びをした。
指の先が、天井の白さを突き抜けて、あの異世界の青へと届きそうなほどに。
肺の奥まで冷涼な空気が流れ込み、かつて私を窒息させようとしたあの「泥」は、もう一粒も残っていない。
窓の外では、街が相変わらずの速度で流れている。
タイトなスーツに身を包み、険しい顔でスマートフォンを睨みながら駅へ急ぐ人々。
少し前の自分なら、彼らの「正しさ」に気圧され、自分の足元の頼りなさに立ちすくんでいただろう。
けれど今の私には、胸の内に確かな熱を持った「盾」がある。
彼らは、まだ檻の中にいるのだ。
そして私は、一足先にその鍵を開け、陽の当たる場所へと踏み出した。
この静かな時間が、誰かにとっては無価値な「逃げ」に見えたとしても。
「……ええ。最高、でしょう?」
誰に聞かせるでもなく、私ははっきりと口に出した。
その言葉は、乾燥した部屋の空気に溶け、確かな生存の記録として私の輪郭をなぞった。
私はもう、息の仕方を忘れたりはしない。
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