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暗闇に支配された空間を、柔らかい光がうっすらと包み込んだように思えた。
その僅かな変化を感じて、自然と目が覚める。
それはわたしがメイドになってからの癖と言ってもよい習慣だった。
まだ完全に夜が明けたわけではないようだ。夜闇の色がわずかに白んできただけだ。
でも、わたしは身体を起こして、身支度を始める。
少しだけ乱れた寝床を綺麗に整えると、誰の視線もないことを確認して、寝間着を脱ぎ、手ぬぐいで身体を拭った。
髪も洗えると良いのだが、さすがにそこまでの時間はない。
普段であれば手入れを欠かさない身体も、昨日は色々なことがありすぎて、何の手入れもできていなかった。
ふと、下着姿の自分を姿見に映して考える。
少なくとも嫌われない努力をしなければ——。
頭に浮かんだのは、そんな後ろ向きな言葉だった。
そして、まだ実感の沸かない昨晩の出来事を思い返す。
ローデリック・イーリス・アネスト。
わたしの新しい主。
誰もが忌み嫌う悪魔を象徴する黒髪と黒い瞳の持ち主。
わたしの夫となる人物。
あの時——突然の敵の襲撃を防いだあと、わたしはローデリック殿下の求愛を受けて、殿下の妻となることを選んだ。
ただ、だからといって惚気ていてよい訳ではなかった。
わたしたちには、新たな拠点の確保が必要だった。
夜中に敵の襲撃を受けた以上、殿下が住む屋敷に留まり続けることはできなかったからだ。
とはいえ、ひとまずの仮住まいは、アルウィンの教会を頼るということで比較的早めに結論が出た。
教会が悪魔を匿うというのが、どうにも歪に思えたが、昨晩の出来事を経験してしまうと、何が起こってもあまり不思議には思わない。
教会まで移動すると、再びカンテラを持った年配の修道女が現れて、わたしたちにそれぞれ部屋を割り与えてくれた。
村の教会ではあるものの、部屋数は多く、わたしにも個室が与えられた。
……実は、いきなりローデリック殿下と同室を与えられたらどうしようかと思っていたのだ。
妻となることを了承した以上、いつかどこかでそのようなことが起こるのは覚悟している。
でも妻になるというのは、あの目まぐるしい昨日の出来事のなかで、急に決まったことだった。正直心の準備もできていなかったし、何の身支度もできていない自分を、殿下の目の前に晒してしまう勇気はなかった。
それに村の教会というのも、そういうことをするのに適している場所とは思えない……。
昨日の夜、そんな決して誰にも言えないような思いを抱いていると、養父のブライスがわたしにそっと呟いた。
「よいか、お前は妾ではない。
正妻になる以上、ちゃんと正式な場で周囲に認められることが肝要。
つまり実際の婚姻は、ローデリック殿下がアネスト家の後継者となられた後になるだろう」
それはいわば、しばらくの間、わたしがローデリック殿下の妻ではなく殿下付きのメイドという立場で、臣下でありつづけるという意味だった。
そしてわたしはその言葉に、随分と救われたような気がした。
これで十分、準備をするための時間が取れる。
——いや、ひょっとしたら、その間に殿下が心変わりして、わたしを妻にするというのもなかったことにしてくれるかもしれない。
そうして、わたしは殿下とは別室が与えられ、今朝のように支度を調えて、メイド姿で殿下の目覚めを待つことにしたのだが……。
「起きたか、フィーリア」
ローデリック殿下の部屋から聞こえたブライスの声に、思わず言葉を失ってしまった。
わたしの目の前には、椅子に腰掛けて書物を読むローデリック殿下と、殿下に紅茶を差し出す養父の姿があった。
二人ともすでに身支度を完璧に調えている。
「おはよう、フィーリア。
眠れたかい?」
「……えっ、あっ……はい……」
声をかけてくれたローデリック殿下に対して、思わず失礼な受け答えをしてしまう。
一瞬、起きる時間を間違えたかと思ったが、窓の外は白み始めたばかりで、日は完全に昇っていない。
「も、申し訳ございません……。
お目覚めを待とうと思っていたのですが、殿下のお目覚めがこれほど早いことを理解しておりませんでした」
「気にしなくても良い。お前は私の妻だ。妻として扱う」
ローデリック殿下が、そういってニッコリと微笑む。
普段の少し冷たい表情からは考えられない、無邪気な笑顔だ。
それが思わずこちらを油断させてしまう。頬が僅かに上気してしまっているかもしれない……。
言われたままに、事実を受け容れてしまいそうになるが、ブライスがそうはいかぬと横やりを入れた。
「殿下。先ほどお伝えしましたとおり、今はひとまず娘を臣下として扱っていただくのが良いかと」
「……わかった」
表面上は了解の言葉を返したローデリック殿下だが、その表情は僅かに眉をひそめて、不満の色があるように見える。
その表情を視線だけでチラリと見ていると、さらにそれを遮るかのようにブライスが話を始めた。
「フィーリア、これから成すべきことを伝える」
「はい」
「殿下の屋敷への襲撃があった以上、さほど屋敷から離れていないここも、安全とは言いづらい。従って新たな拠点を手に入れる必要がある。
それに、殿下がアネスト公爵家の後継者として凱旋するためには、後継者である事実に加えて実力も示さねばならない」
「実力……」
わたしがそう呟くと、ローデリック殿下が詳しい説明を添えてくれた。
「兵を雇う必要があるだろう、ということだ。
残念ながら私がアネスト家の後継者となることを快く思わないものも多い。
そんな中で私が無防備に戻れば、実力をもって排除されかねない。
——昨晩の襲撃のようにね」
「…………」
「幸い、新しい拠点についてはブライスに心当たりがあるという。
あとは兵を雇うだけだが、残念ながら先立つものがない。
なので、フィーリアには街へ出て当座の資金を調達してもらいたい」
そこまで説明すると、ローデリック殿下は立ち上がり、後方にあった小箱を取り出して机の上に置いた。
そして、その小箱を開くと——。
「ここに、いくつかの財物がある。
まずはこれを資金に換えてきて欲しいんだ」
ローデリック殿下の手には、いくつかの首飾りや指輪が握られている。どれも煌びやかな宝石が使われており、かなり高価なもののようだ。
「……失礼します」
わたしはそう告げると、小箱の中の宝飾品を一つひとつ手に取って品定めした。
そして、それを左右に振り分けていく。
「換金できるのは、こちらのものだけです」
四分の一ほどの量になった左側に集めた宝飾品を指さして言う。
「ほう、それはどうしてだ?」
「右側のものには、アネストの紋章や、どなたかの銘が入っています。
それを街で裁けば、必ずそこから足がつきます。
素材として裁くことはできるかもしれませんが、信頼できる彫金師がいなければ分解ができません。
ですので、資金に変えるのであれば、まずはこちらのものを」
その言葉に、ローデリック殿下は少し目を細めた。
ひょっとしたら小賢しい女だと思われたかもしれない。ただ、その目は優しさを失っていないように感じた。
「いいだろう、フィーリアにすべて任せる。やりやすいようにやってくれ」
「かしこまりました」
わたしはそう答えると、選り分けた中からさらにいくつかの宝飾品だけを選んで布に包んだ。ほとんどの品物は置いていくことになるが、ローデリック殿下はそれを咎めようとはしない。
言葉通り、すべてを任せてくれるようだ。
「フィーリアよ、事を成したらパーセルの泉へ向かえ」
そういって、ブライスが横から声をかける。
パーセルというのは、ここから数時間離れた場所にある大きな街のことだ。
住民が多く商業も活発で、他民族が入り乱れているおかげで多少のお尋ね者であっても不審がられることがない。
そこを待ち合わせ場所にするということは、わたしがパーセルで宝飾品を換金すると見込んでいるのだろう。
「わかりました。日が落ちるまでに向かいます」
わたしはそう返事すると、ローデリック殿下に礼をして、静かに教会の部屋を後にした。
パーセルに着いたのは昼過ぎのことだった。
道中で休憩を取りながら、携行した保存食を幾つか摘まんだ。満腹感が得られるようなものではないが、ひとまず空腹を紛らわせることができれば、それでいい。
街の入口には門番が立っていた。少し警戒したが、特に声をかけられることもない。
大きな荷物でも持っていれば不審がられたかもしれないが、わたしはフードを被ったメイド服姿で、手持ちの荷物も最低限のものだけだった。
おそらくどこかの屋敷のメイドが、遣いに出ていた程度に思われたのだろう。
街に入ると、わたしはまるで最初から目的地が決まっているかのように、堂々と道の真ん中を進んで行った。
……実はパーセルを歩くのは初めてで、どこにどのような店があるのかも理解していなかったのだ。ただ、コソコソと周囲を窺いながら歩けば、それだけでこの街に慣れていないことが周りに伝わってしまう。
わたしは静かに脚を進めながら、できるだけ自然な仕草で視線だけを動かして、どこにどんな店や施設があるのかを頭に叩き込んだ。
(運河を中心とした街の構造になっている。
運河の左右に店が建ち並んでいて、そこが一番の繁華街になっているみたいね。
代表的な店はだいたいその周辺に集まってそう)
宝飾を取り扱っている店は、いくつか見つかった。ただ、いずれも規模が大きくない。
わたしは運河の左手に位置する、街の中で最も新しいたたずまいの商家の前に立った。
フードを取ると、束ねていた金髪が日に照らされて、さらさらとなびく。
目前の扉には「あらゆる品を適正な価格で扱う ピアース商会」と書かれた看板が掛かっていた。
扉は開け放たれていて、中では何人かの客が会話しているようだ。
そのまま商家の中に入っていくと、程なくカウンターの内側にいた若い女性に声をかけられた。
「いらっしゃいませ。何かをお探しでしょうか」
「買い取りをお願いしたい品があるのです。貴金属で高価なものです」
「わかりました。店主が拝見しますので、左奥の部屋でお待ちいただけますか」
案内は手慣れていて滞りがなかった。おそらく些末なもの以外は店主が直接買い取る仕組みになっているのだろう。
部屋で五分ほども待っていると、扉を何度かノックする音が聞こえたて、長身の若い男性が部屋に入ってきた。
「お待たせいたしました。ピアース商会の店主、アレクシス・ピアースです。アレク、とお呼びいただければ」
赤い巻き毛を帽子で束ねた優男だった。歳は二〇代に違いない。店主という割には随分と若い男だった。
私が軽く会釈すると、店主のアレクはニッコリと微笑んだ。
「今日は貴金属の買い取りでいらっしゃったとか」
「はい。この三点になります」
わたしはそう言って、袋から三つの品物を取り出して、机の上にならべていく。
品物はローデリック殿下の前で選んだ指輪と腕輪とネックレスだ。
どれもが豪奢で大型のもので、使われている金属の量が多い。
装飾の価値よりも素材としての価値で、一定以上の価格がつくのを見越して選んだものだ。
「ほほう……いずれも大きくて見事な品ですね。
では失礼」
男は感嘆の言葉を発して、部屋に備え付けられたチェストから、手袋とルーペを取り出して鑑定を始めた。手際は手慣れたものに感じる。
「失礼ながら——お客様はどちらからこれを?」
一通り三つの品を見定めたアレクが尋ねた。
この質問はおおよそ想定していたものだ。
「わたしはウルズ家のものです」
その言葉に、アレクの目が少し細まったように思えた。
ウルズはここから一週間ばかり行った場所にある地方豪族の家系だ。行き来するには不便な距離だけに、おそらくこの辺りを家の者が頻繁にうろつくことはない。
「ほほう、ウルズの方でしたか。
最近は物騒ですからね。よく無事でここまでいらっしゃいました」
「護衛の者と一緒でしたので」
「なるほど……。
勘ぐるようなことをお尋ねして、申し訳ありませんでした。
私どもも、どこかしらで盗難にあった品物を買い取ってしまうと、立場が危うくなってしまいますので」
立場、という言葉を強調されたことで、わたしは顔から表情を消した。
「これが盗品だとおっしゃるのですか」
「そうは申しません。
できればウルズ家からの買い取り依頼であることを証明するものをお持ちであれば助かるのですが」
「そのようなものは用意しておりません」
「それはまた何故です?」
「これが、お方様の個人的な持ち物だからです」
「……なるほど」
アレクはわたしの言葉に一定の理解を示した。
この言葉だけで追求をやめたということは、アレクの理解力は高いに違いない。
わたしが伝えたのは、この三つの貴金属が、ウルズ家の当主夫人の「へそくり」だ、ということだった。だからわたしは、これをある程度秘密裏に換金しようとしていて、そのせいでウルズ家からの依頼である証明を置いていくわけにはいかない——無論、そんな話はすべてわたしのねつ造に過ぎないのだが——そんな理屈を語ったのだった。
ただ、この会話だけでわたしのハッタリをすべて、信じてもらえた訳ではなさそうだ。
「わかりました。ご事情をお察しします。
では、代わりに貴女がウルズ家に仕える身であることを、証明していただければ」
「身分証明をお見せします」
わたしはそう言うと、貴金属を収めていた袋に手を入れた。袋の中にはいくつもの偽造身分証明書が入っている。
すると、それを押しとどめるように、アレクは手を左右にひらひらと振る。
「ああ、身分証明は良いのです。この国の身分証明書は、その気になれば簡単に偽造できてしまいますからね——。
それよりもウルズ家のことを聞かせてください。
わたしがいくつか質問をしますので、それにお答えいただければ」
「わかりました」
わたしが袋から身分証明書を取り出すのを諦めて、改めてアレクの方へ向き直ると、何となく彼の口の端がほころんだように見えた。
どこかしら、このやりとりを楽しんでいるかのような気配がある。
「半年ほど前、私はウルズ家の執事から、ある魔道器の鑑定依頼を受けました」
その言葉を聞いて、わたしの顔から表情が消える。
「魔道器を移動させられなかったので、私はウルズ家に赴きました。
……ということで、実は私はしばらくの間、ウルズ家に滞在していたのです。
ですが、私はその間、貴女とは一度も会いませんでした」
「そうなのですね。いつ頃まで滞在されていたのでしょうか」
「四ヶ月ほど前でしょうか。
帰りにウルズ家の領地で取れる、みずみずしい林檎をいくつもいただきました」
「わたしがウルズ家に雇われたのも四ヶ月ほど前ですが、それはあなたが立ち去られた後だったようですね」
物怖じせずに伝えると、アレクは微笑みながら質問を続けた。
「なるほど、そうなのかもしれません。
ところで私は当主のエヴァレット様とも懇意にさせていただいていました。
……エヴァレット様のご趣味をご存じですよね?」
先ほどの貴金属を鑑定する時と同じような視線で、今度はわたしを品定めしている。
「旦那様は鷹狩りを趣味とされています」
「お気に入りの鷹の名をご存じですか?」
「ヴィクタという鷹を長らく可愛がられておられますが、翼の力が弱くなって飛べなくなったようで、わたしが雇われてからは鷹狩りに出られたことはありません」
「エヴァレット様は先々代を尊敬され、いたく信奉されておられた。
その先々代の名をご存じですか?」
「メイヤー・オスローン・ウルズ伯爵です」
「メイヤー様の死因は?」
「……それは表立っての死因ですか?」
「————」
アレクとわたしの間で、静かに視線が交差した。
メイヤー・オスローン・ウルズは、流行病をこじらせて亡くなったというのが表立った死因となっている。だが、男女の睦み事の最中に心臓の病を発症したのが実際の死因だ。ウルズ家ではこれを不名誉と考え、偽った死因を公表している。
無言の視線による駆け引きの後、アレクが頬を緩ませて口を開いた。
「ああ、申し訳ありません。少し勘違いをしていました。
私がウルズ家に滞在したのは、三ヶ月ほど前でした。
貴女は四ヶ月前からウルズ家にいらっしゃったのですよね?」
急な手のひら返しが始まったが、わたしはそれを冷静に否定した。
「いいえ、あなたは先ほど、立ち去る際にみずみずしい林檎をもらったとおっしゃっていました。
領内で取れる林檎の旬を考えると、四ヶ月前はギリギリの時期であったはずです。
従って、あなたが滞在されたのは四ヶ月前までで間違いありません」
「旬を考慮せずに渡した、ということはありませんか」
「お客様に果物の時期を考えずにお贈りすることはありません。
もっとも、あなたを厄介払いするために渡したということであれば、あり得るかもしれませんが」
その言葉にアレクは思わず笑い声を上げた。
そして、ある種の満足を覚えたようにニコニコと表情を和らげると、小さく頭を下げた。
「確かに貴女はウルズ家におられる方のようですね。
疑り深いのが私の長所でもあり、短所でもあります。どうぞお許しください」
「大丈夫です。お構いなく」
社交辞令的な答えを返すと、わたしは僅かに微笑んだ。
「では、品物を買い取らせていただきます。
金貨でのお支払いになりますので、お荷物が重くなってしまいますが」
「問題ありません」
アレクがパンパンと手を打つと、扉を開けて職員が一人入ってきた。
職員は大きな箱を持っている。アレクは職員から箱を受け取ると、その中から金貨を取り出して机の上に並べ始めた。
「グリューム大金貨、三十四枚で買い取らせていただきます。
指輪が八枚、ネックレスが一〇枚、腕輪は使用されている金の量を考慮して十五枚です」
「……一枚多いようですが?」
「貴女との楽しい時間に一枚」
ニヤリと笑みを浮かべたアレクのキザったらしい言葉に、思わず閉口してしまいそうになるが、わたしは表情を変えずに三十四枚のグリューム大金貨を袋に収めていった。
グリューム大金貨は一枚で大人が一年間食べていけるほどの価値になる。大金貨というだけに、ずっしりと重い。
本当はへそくりの換金など、もっと足下を見られると思っていたのだ。だから三十枚を超えることはないだろうと思っていた。
それから比べれば思わぬ高額で買い取りしてもらえた。これだけあれば三人と一体が過ごす資金として、しばらくは安泰だろう。
「これからもよしなに、という意味で色を付けさせていただきました。
ところで……」
アレクはそこまでいうと、少し顔を近寄せて小声で言う。
「差し出がましいが、貴女がまことウルズ家の者なのであれば、身の振り方を考えた方がよろしいかと思う」
「……それはどういう意味ですか?」
「かの当主どのは、この物騒な世の中を生き抜く方のようには思えなかったもので。
貴女のような美しく、胆力のある方が長く仕える人物には見えなかった」
わたしはその言葉を吹っ切るようにソファから立ち上がると、軽く礼をした。
「わたしには胆力というものが、どういうものなのかは分かりませんが……。
ご忠告には感謝いたします」
そして、部屋の扉に手をかけたところで、付け足すように言う。
「それと、余計なこととは思いますが、旦那様のお気に入りの鷹の名はヴィクタではなくバロールと言います。それをご存じなかったということは、あなたが思っているほど旦那様はあなたと仲が良かった訳ではないのかもしれません。
——では、ごきげんよう」
まさに余計な一言だが、偽とはいえ自分の主人を侮辱されて何も言い返さないようでは、ウルズ家のものだということが再び疑われかねない。
わたしはそう言い残すと、半ば呆気にとられるアレクをおいて、ピアース商会を後にしていった。
商家から出てきた女が、ずしりと重みのある荷物を持って出てきたら、恰好の獲物だと思われるに違いない。
人通りの少ない道を行けば、強盗のような、ならず者に襲われる危険がある。
逆に人通りの多い道を行けば、スリなどに狙われる危険があるだろう。
ただ、どちらにしても、相手は「人」だ。
わたしは普通の人間が相手であれば、そうした被害に遭わないだけの自信があった。
だが、ローデリック殿下の闇魔法を見たとき、自分だけでは何ともならない力があることを思い知った。
もしそうした特殊な力の使い手が目の前に現れた場合、どう立ち回れば良いだろうか——。
そんなことを考えながら、周囲を警戒しているうちに、パーセルの街の奥にある泉に到達した。
この泉はパーセルの街を流れる運河の源流にあたる場所だ。泉を守るように囲いがされているが、周りは木々が多い茂っているだけで、他には何もない。
間違っていなければ、ここが指示された待ち合わせ場所のはずだが——。
「!!」
閃いた刃の光に、思わず身をよじって脚で反撃を試みる。
即座に太ももに縛った短剣を取り出し、油断なく構えると……。
「首尾はどうじゃ?」
「——エルミーヌ……さま」
ぷかぷかと浮かんでいる人形に、思わず脱力してしまいそうになる。
もう少し、普通に登場できないのだろうか。そのうち本気で反撃してしまうかもしれない。
わたしが成果を示すように手に持った袋を突き出すと、エルミーヌは満足そうにケラケラと笑った。
あまりにも不気味な笑い声に、思わずわたしの唇も歪む。
「ついて来るがいい。
ブライスが用意した場所に案内しよう」
わたしはその言葉を聞いて周囲を警戒してから短剣を収めると、何事もなかったかのようにエルミーヌの背を追いかけていった。