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「既に……身罷られておられます」
自分の力ではどうしようもないと、初老の治癒術士が許しを請うかのように呟いた。
寝所の中央に横たわる男性の周りには、ベッドを取り囲むように幾人かの男女が立ち尽くしている。
だが、臨終の言葉を聞いて泣き出す者はいない。漏れ出す嗚咽も聞こえてこない。
「ああ、父上。何とおいたわしいことか。
長く苦しまれなかったことが、せめてもの救い」
感情のこもらない白々しい調子で、アネスト公爵家の長女、ロミルダ公爵令嬢が声を上げた。表情には消しきれない笑みが浮かんでいるように見える。
「さぞや思い残されたことも多かろう。
しかし、この長男デューイが父上のすべてを譲り受けて、遺志を継いでいくことになる」
口元に短いひげを蓄えて、こざっぱりした印象のアネスト公爵家長男、デューイが周りに聞こえるように宣言した。
だが、その言葉を聞いたロミルダが、キッとアネストを睨みつける。
「デューイ、父上はあなたを後継者として指名しておられなかったわ。
それに年齢でいえばわたくしの方が三つも年長。
あなたの継承順位はわたくしよりも低いことを理解して?」
「ハハハ、姉上。
公爵家というものは、代々男児が受け継いでいくもの。
正妻の子とはいえ、ご結婚もされていない姉上に継承権などありませんよ」
「は? どこにそんな法律があるというのかしら。
過去には女児が公爵家を継いだ例もありましてよ。
それに結婚はしましたわ。相手を捨てた、というだけで。
しかも、デューイ。
あなた長男ではありませんでしょ?」
その最後の言葉を聞いて、余裕を見せていたはずのデューイは一気に厳しい表情に変化した。
「姉上……。
まさか、あの『悪魔』をアネスト家の一族だと認めるおつもりなのですか」
デューイの厳しい視線に晒されたロミルダは、そこではじめて自分が不用意なことを口にしたことに気づいた。
「フ、フン……。そんなことは言っていませんわ。
ですが継承に関する父上の明確な遺言がない以上、アネストの財は誰か一人のものではありません。
そこをはき違えないように」
故人を悼む言葉は出てこない。そこにあるのは相続を巡る肉親たちの醜い争いだ。
そんな場を、メイド服をまとったわたし——フィーリア・リストは遠巻きに見ていた。
広大な領地を誇る王弟、アネスト公爵殿下の死。
栄華を極めた人物も、落馬事故によってあっけなく逝ってしまった。
残念なのは、どうやら公爵殿下が良い肉親に恵まれなかったことだ。
彼の最後を見守った四人の子供たち——特に長女のロミルダと長男のデューイは、既に相続を巡って互いを牽制し始めている。
そんな光景をわたしが冷たく傍観していると、近くに立っていた壮年の男性が、わたしに部屋から出るように合図した。
わたしはその意図を汲んで、音を立てないよう扉を開く。
「ついてこい」
壮年の男性はそういうと、わたしを連れて使用人に与えられた控室に向かった。
周りから見れば、白髪白髭の執事と十代の若いメイドが、慌てた様子で小走りに廊下を駆けている光景が見えたことだろう。
「——どうされるのですか」
意図を図りかねたわたしがそう尋ねると、壮年の男性は屋敷の中を警戒するように周囲を見渡してから、わたしに告げた。
「この家を出奔する」
「しゅ——!?」
想像も付かなかった言葉が飛び出してきた。
自分の上げた声に驚いて、思わず周りに誰かいないかと警戒したが、幸い誰の姿も視界には入らない。
「時間がない。二分で準備せよ。正面玄関で待つ」
「養父上、正気ですか」
確かめるように、わたしは壮年の男性——この屋敷の執事であり、養父でもあるブライスに再び声を掛けた。
何しろ生まれてこのかた、ずっと世話になっていたアネストの領家を捨てようというのだ。さすがにそれぐらいは確認する。
「フィーリア。
館の中では養父ではなく、ブライスと呼べと言ったはずだ」
時間がないはずなのにそこはわざわざ指摘してくるのか、と詰まらないことが頭をよぎった。
「正気であるし、本気でもある。
何しろ悪い想像というのは的中するものだ。
であれば、そうなる前に手を打つ」
正直、養父が何を言っているのかは判らなかったが、領主の死をきっかけに混乱して自暴自棄になったということではなさそうだ。
「わかりました。二分後に正面玄関で」
そうなれば決心は早い。
わたしはメイド達の支度部屋に戻ると、一瞬で身の回りのものをまとめ上げた。
……といっても、持つべき荷物は僅かだ。所詮、使用人の私物など知れている。
そのまま部屋を飛び出そうとしたが、ふと姿見の前で足を止めた。
「————」
時間がないはずなのに、鏡の中の自分と一瞬目が合う。
まとめ上げた金色の長髪。
時折養父から目つきの鋭さを注意される、切れ長の両目。
貴族から言い寄られてもすべて断り続けた細身で引き締まった身体。胸元はメイド服がふくよかさを強調している。
ひょっとしたらこの恰好も、今日が最後なのかもしれない。
昨日までそんなことを考えることもなかったけれど、運命というやつは一瞬で自分の環境を変えていく。
わたしは覚悟を決めると、静かにそして足早に正面玄関へと向かった。
出奔しようとする人間が正面玄関に行こうというのだ。恐らく養父には、何らかの考えがあるに違いない。
果たして養父は既に支度を調えて玄関で待っていた。
ただ支度といっても、手には小さな鞄を一つ持っているだけだったが。
「フィーリア、これを預けておく。恐らくこの後、必要になるだろう」
そういって渡されたのは、細身の短剣だった。
普通のメイドなら、そんなものの扱い方は知らない。だが、わたしはその扱いを養父から受けている。つまり、普通のメイドではないのだ。
わたしは短剣を受け取ると、さっとメイド服の中に隠した。
これが必要になるということは、この後「ろくでもない」ことが起こるに違いない。
そして、その想像はきっと当たるだろう。
養父——ブライスは玄関の扉を開くと、堂々とした足取りで正門に向かった。わたしも無言でそれに付き従う。
周囲は既に暗い。陽の落ちた時間に使用人だけが出かけようというのだから、不審に思った門番が声を掛けてくるのはごく自然なことだった。
「おや、ブライス。こんな時間にどこへ行くつもりだ」
「殿下が身罷られた。王城へ知らせに行く」
「なっ!?」
ブライスを呼び止めた門番は、思わぬ話に驚いた。ひょっとしたら殿下が落馬して負傷したことも聞かされていなかったのかもしれない。
ブライスとわたしはその話の勢いで、門を通り抜けて去って行く。
「——王城へ向かうのですか?」
チラリと後方に門番が見えなくなったのを確認して、わたしは前を歩くブライスに尋ねた。
その問いに彼は答えなかったが、しばらくしてわたしは目的地が王城でないことに気づいた。進んでいる方向が王城とは逆だったからだ。
「夜の間にこのまま進む。恐らく追っ手がかかるはずだ」
「追っ手……?」
出奔したことで、引っ張り戻そうと誰かが追いかけてくるということだろうか。
いや、そもそも執事とメイドが出ていったぐらいで、わざわざそんなことをするか?
まさか、ブライスは何かとんでもないことをしでかして、自分はそれに巻き込まれているのではないか……。
だが、ブライスは何も答えなかった。
いつもそうだ。この養父は肝心なことを、わたしに話してくれない。
ほぼ身寄りのなかったわたしを引き取って、まともな教育を受けさせてくれたのもこの養父だが、正直父親らしいことをしてもらった記憶は一切ない。
指示をしても説明不足。指示されたことを成し遂げても褒められない。
そんなブライスに対する不満を抱えつつ、夜通し歩いて到達したのはアルウィンという小さな村だった。
もうしばらくしたら、空が白み始めるのかもしれない。だが、まだ夜闇は深く、誰もが寝静まった沈黙が広がっている。
ブライスが周囲を警戒しながら訪ねたのは、アルウィンにある教会だった。
夜中に訪問するような場所ではないが、まだ教会にはうっすら明かりがあり、誰かが起きているようにも思える。
「こんな時間に何用ですか」
手にカンテラを持った年配の修道女が、姿を現した。
「お騒がせして申し訳ありません。しかし火急の用にて。
『魔女ノートルードの子』の居場所に案内いただきたいのです」
その言葉を聞いた修道女は、何か信じられない言葉を聞いたかのように、大きく目を見開いてカンテラでわたしたちを照らした。
でも、驚いたのはわたしも同じだ。
わたしの知る限り、『魔女ノートルード』というのは、かつて存在した悪魔とも呼ばれた女性の名前だったからだ。そんな名前を聞くことは想像していなかったし、そもそも教会で口にするような名前でもない。
ところが驚きの表情を見せた修道女は、何かを察したかのようにサッと厳しい顔つきになって、
「ご案内いたします」
と呟いた。
わたしとブライスが修道女の後を追うと、修道女は教会の隠された地下を通って、洞窟のような土壁の通路を歩み続けた。
一体どこへ向かおうというのか。そして、この先に何があるというのか——。
まったく状況が不可解のまま、通路を抜けた先に見えたのは、一軒の屋敷だった。
屋敷といっても、大きな規模のものではない。ただ、森を切り崩して作られたと思われる場所にある建物としては、立派な佇まいであるように思えた。
「私がご案内できるのはここまでです」
振り返った修道女は、神妙な表情でそういった。
ブライスは軽く礼を述べると、修道女を置いて屋敷の方へと近づいていく。
慌てて修道女に会釈したわたしも、遅れないようブライスの後を追った。
ブライスは屋敷の建物へと繋がる敷地の門を断りもなく開けると、どこかに隠していたナイフを取り出す。
それを見てわたしも、預かっていた短剣を取り出して、小声で問いかけた。
「……この先に敵がいるのですか」
「この先に新しい主がおられる」
「は?」
思わず、ずっこけてしまいそうになった。
どこの世界に、刃物を取り出して主に会いに行く使用人がいるというのだろう!
養父は普段から真面目が取り柄だったが、真面目が過ぎておかしくなってしまったに違いない。
「……では、剣は何のために?」
そういって構えを解こうとした瞬間。
わたしの頬のすぐ側を、何者かの剣閃が通り過ぎた。
「!?」
わたしは慌てて後方に飛び退りながら、構えて敵を見極める。
「避けた?
おぬし、メイドにしては良い動きをするではないか」
声を発したそれを、わたしは思わず二度見した。
少女のなりをした小さな人形が、宙に浮いていたからだ。
一瞬見間違いかと思ったが、人形の手には小刀のような剣が握られている。
ゴブリンやオークといった魔物であればまだしも、この手の魔法生物のようなものを見るのは初めての経験だった。
油断ならない敵と考え、短剣を握って警戒するわたしに養父が声をかける。
「フィーリア、心配ない」
「は? どこを見て心配ないと? 心配しかないでしょうが!」
真面目くさっておかしなことしか言わなくなってしまった養父を、思わず怒鳴りつけてしまう。
「エルミーヌ様、お戯れは程々に……」
ブライスがそういうと、宙に浮いた少女の人形がケラケラと笑った。
その様が不気味過ぎて意味もわからず、釣られてわたしまでへらへらと頬を緩ませる。
見た目は可愛い少女のはずなのだが。
多分、夜中に剣を握って宙に浮いているという状況が、すべての愛らしさを台無しにしている。
「ブライス、収穫はあったのか?」
「こちらに」
エルミーヌと呼ばれた人形の問い掛けに、ブライスが手に持った鞄を示しながら答えた。
養父が「追っ手がかかる」と言っていた理由は、ひょっとしたらあの鞄の中身に関係があるのかもしれない。
人形のエルミーヌは小さく頷くと、屋敷の扉に向けて手をかざした。
すると、ギィィィという音が周囲に響いて、独りでに屋敷の扉が開いていく。
魔法で動かしているのだろうが、真っ暗闇に包まれた屋敷の扉が独りでに開くなど、不吉と恐怖の対象でしかない。
ところがブライスはそんなことも気にせず、ずかずかと屋敷の中に入っていった。
それに仕方なくわたしも付き従うが、わたしの右斜め後方をエルミーヌがぷかぷかと浮きながら付いて来ているのに気づいた。手には小刀。気が気じゃない——。
進んだ先、ブライスが屋敷の中央の大広間に入ると、暗がりの奥に誰かが椅子に腰掛けているのがわかった。
すると、ブライスがその場にひざまずく。
わたしも慌てて膝をついて頭を垂れたが、明かりが点いていないせいで、正面にいたのがどのような人物なのかわからなかった。
「ブライスか」
「はっ……」
聞こえたのは、明らかに若い男性の声だった。
何故かはわからないが、その声を聞いた瞬間、わたしの心臓はドクリと大きな心音を打ったように思えた。
この男性が養父の——いや、わたしの新しい主になる人物なのだろうか。
「お前が来たということは、アネスト公爵が死んだということだな?」
「亡くなられたのを確認し、こちらに参りました」
「遺言は?」
「落馬されてからは意識がありませんでした。
ゆえに残された言葉はありません」
「なるほど。
であれば手がかりが尽きたということか……」
暗がりに座っていた若い男性は、スッと立ち上がると、窓際に身を寄せた。
わずかに月明かりがあるのか、男性のシルエットが見える。
「……!!」
思わず声を上げてしまいそうになった。
後ろ姿でしかなかったが、スラリとした長身に加えて、闇に溶け込むような黒髪が見えたからだ。
わたしの知る限り、この国に純粋な黒髪の人物はいない。
なぜならこの国において、黒髪は悪魔の象徴だからだ。
悪魔は人を騙し、人を傷つけ、人を滅ぼす。
そう言い伝えられていたし、わたしもそう言い聞かされて育ってきた。
……まさか養父は、悪魔を新たな主にしようとしているのだろうか。
真面目が過ぎて、悪魔に魂を売ってしまったというのか。
それに、こんな身近な場所に悪魔がいるということに驚いた。
夜通し歩きつめてここまで来たが、領主の屋敷から、馬を使えば一瞬ともいえる程度の距離に悪魔が棲んでいる——。
そんな考えを抱きながらも、わたしはいつの間にか頭を上げ、黒髪のシルエットをじっと見つめていた。
直後、黒髪の男性はわたしの方へと振り返る。
「——!!」
まさに息を呑むというのはこういうことかと思った。
睫毛の長い中性的ともいえる秀麗な顔が、わたしを遠くから見下ろしていた。
黒い髪と対照的な白い肌が、月明かりを受けて輝いているかのように思えた。
わたしはアネスト公爵殿下の屋敷で、数多くの着飾る貴族たちを見てきたが、目の前の男性はそんな貴族たちの誰よりも美しい。
髪色と同じ黒い瞳が、わたしの目と心を捕らえて離さなかった。
その一方で、どこかしら憂いを浮かべたような表情と、どこまでも鋭い眼光が、彼が「悪魔である」ことを主張しているようにも思えた。
わたしは声も出せず、身体を動かすこともできず、ただ呆然とその場に佇むことしかできない。
——わたしはこの一瞬の出来事で、目の前の『悪魔』に魅入られてしまっていたのだ。
「ローデリック殿下。
本日より、このブライス・リストと娘のフィーリア・リストがお仕えいたします」
ブライスはそういって、ローデリックと呼ばれた黒髪の男性に向けて、主人に対する礼儀を示した。
それを聞いてわたしは慌てて、同じように礼を尽くす。
——待った。
今ブライスは何といったか。
ローデリック『殿下』と呼称したのではないか。
ということは、目の前の男性は……。
「おぬしたちが仕えるといっても、呪いが解けねば何も始まらぬ。
アネスト公爵が死んだ以上、呪いを解く手がかりも完全に途絶えたのではないか」
私の斜め後ろでぷかぷかと浮いていたエルミーヌが、ブライスに尋ねた。
「仰るとおり、呪いを解くことは難しくなりました。しかし——」
ブライスはそこまでいうと、持っていた鞄を前に突き出して見せる。
「ここに別の手段がございます」
「別の手段だと——?」
ローデリック……殿下は、ブライスが見せた鞄の中身に興味を抱いたようだった。
そのまま静かに養父の反応を待っている。
すると、養父は鞄を開いて、中から一つの指輪を取り出した。
昏い屋敷の中を僅かに照らす月明かりが、指輪の装飾に反射して煌びやかな光を放っている。
「この指輪には、殿下に掛かった呪いの力を抑える効果があります」
「何……?」
にわかには信じがたいことのように、ローデリック殿下は目を細めて訊きただした。
「お父上から託されたものです」
「遺言は無かったのであろう」
「言葉としては、ありませんでした」
「…………」
ブライスはローデリック殿下に近づいて、跪きながらアネスト公爵が遺した指輪を差し出した。
ローデリック殿下は真剣な眼差しで、その指輪に向けて手を差し伸べる。
養父が声を上げたのは、まさにローデリック殿下の手が指輪に触れようとした瞬間だった。
「殿下、恐れながら、この指輪をお渡しするにあたって、ひとつだけお願いがございます」
「——何だ」
配下から条件をつけられるとは思っていなかったのかもしれない。
ブライスを見るローデリック殿下の視線は一気に鋭くなった。
ところが臆することなく、ブライスは大きな声で願いを伝える。
問題はその願いが、わたしの予想外のものだったことだ。
「娘を、あなたの妻にしてください」
「……へ!?」
あまりにも想像からかけ離れた要求に、思わず変なところから声が漏れてしまった。
——いや、待った。
娘をあなたの妻にする……?
つまり、わたしはこの目の前の男性と結婚する???
確かに見た目は抜群に良いけれど、さっき初めて会ったばかりの、言葉もろくに交わしたことのない人物と添い遂げる!?
「お、お待ちください。
養父上、そのようなこと……」
すると、ブライスはまるですべてを理解したかのように達観した表情で、わたしに向かって首を横に振った。
「これが父親として、お前にしてやれる唯一のことなのだ」
待て待て待て待て待て!
わたしがいつそんなことを望んだか!?
やっぱりこの養父はおかしくなってしまっている!!
わたしが焦って挙動不審に陥っていると、それを見かねたのか、人形のエルミーヌがブライスに尋ねた。
「ブライス、おぬしは娘を差し出して何を目指すのじゃ?
後に外祖父として、権勢を振るおうとでもいうのか」
すると養父はそれを否定した。
「滅相もございません。
私とフィーリアは親子とはいえ、血のつながりはありません。
行きがかり上、娘として育てましたが、それも今日まで。
もし私の存在が邪魔であれば、今日を境に姿を消しましょう」
思わぬ言葉にわたしは唖然としながら、養父を見つめた。
するとブライスは決意を込めた表情で、言葉を続ける。
「魔力を封じた呪いを克服できれば、殿下の力は誰もが畏敬の念を抱くものとなります。
周囲は殿下を排除するのがままならないとなれば、何とかして殿下を取り込もうとするでしょう。
そして、殿下はいまだ独身であられる。
その妻の地位を狙って、様々な陰謀が巻き起こるのは間違いありません。
ですが、わが娘が正妻となれば、そのような不安は払拭できます」
「せ、正妻?」
単なるメイドのわたしを、養父はおそらく王族の妾ではなく正妻にしろと要求しているのだ。
身分を考えればあり得ない要求に、誰もが無言になりかけた直後——。
「——!!」
「なっ!? 槍……!?」
周囲に響くガシャン!という大きなガラスの破壊音とともに、何本もの槍が部屋の中に飛び込んできた。
慌ててブライスとわたしは、その場から飛び退く。
直後、バタバタという多数の足音とともに、武装した侵入者たちが現れた。
その数、二〇人近く。
侵入者たちの胸元には、みな教会の印章が描かれている。
「教会騎士団——!」
わたしはボソリとその正体を口にした。
異端を排除する教会の尖兵ともいえる者たちだ。
「悪魔たちの会合がここで行われているという情報を得た!」
教会騎士団の高らかな指摘を聞いて、わたしは即座に抗弁を試みる。
「どこをどう見たら……」
そこまで言って、わたしはブライスとエルミーヌとローデリック殿下を順番に観察した。
ただ者ではなさそうな、武装した白髪の執事。
ぷかぷかと浮いている、明らかに魔法生物と思われる人形。
そして——黒髪の悪魔。
大変残念なことだが、どこをどう見ても悪魔たちの会合だった。
「くっ……」
まったく弁解不可能な状況を悟って、剣を交えたわけでもないのに後ずさりしてしまう。
すると、ブライスがローデリック殿下に指輪を差し出しているのが見えた。
「殿下、どうぞ指輪を」
「まだ、願いをきくとは答えていないが」
その言葉にニヤリと笑みを浮かべたブライスが、ローデリック殿下に伝えた。
「こちらも呪いの力を抑えるといいましたが、本当に押さえられるかどうかは試していませんので」
その言葉を聞いたローデリック殿下が、思わず薄く笑ったように見えた。
視界に入った表情があまりに魅力的で、その笑みがわたしの脳裏に焼き付く。
そして次の瞬間、殿下はブライスの手から煌びやかな輝きを放つ指輪を受け取ると、するりと左手の中指にはめた。
「——これは——」
何か劇的なことが起こるのかと思っていたのだが、何も起こらない。
ひょっとして、呪いの力を抑える効果がなかったのだろうか?
教会騎士団たちも一瞬何が起こるのかと身構えていたが、むしろ何も起こらなかったことに拍子抜けして、うろたえているような状況だ。
「……エルミーヌ、お前は何人の相手ができる?」
ローデリック殿下が振り返らずに、浮いているエルミーヌに尋ねた。
「そうじゃな。
五、六人は余裕じゃろう」
「ブライス、お前は?」
「三、四人ほどはお引き受けできます」
「————」
最後に殿下は声をかけることなく、わたしを見た。
その視線にどこかゾクリとした感覚を覚えながら、直後に自分の背後に忍び寄っていた教会騎士団の一人を、肘打ちと蹴りで叩きのめす。
相手がばったりと倒れたのを確認して、わたしは期待された言葉を返した。
「残りはすべて、わたしにお任せください」
十人近くをわたし一人が相手するという宣言に、殿下は明確に笑顔を見せた。
まるで、わたしの言葉が「予想外だった」とでもいうように。
この時、わたしは初めて、これまで美しいと思っていた顔が、笑うと無防備で無邪気な愛らしさを持つということに気づいた。
その笑顔はわたしの心の防御壁を、溶かしてしまうようだった。
「それは何とも頼もしい」
そういったローデリック殿下が指輪をはめた左手を突き出す。
そして、その直後。
「“闇の業火”」
「——!?」
殿下の言葉とともに、左手からいくつもの黒い炎が放たれた。
その炎は教会騎士団たち一人ひとりに飛び散り、顔の周辺を包み込む。
「なっ……何だ!?」
「これは、悪魔が使う闇魔法!」
「い、息ができな——」
教会騎士団から上がるいくつもの声が、部屋中を満たしていく。
二〇人近くいた教会騎士団は、全員がその場でじたばたと喘ぎだし、しばらく暴れた後にばったりと倒れてしまった。
「これが闇魔法の力——」
初めて見る圧倒的な力に、わたしは呆気にとられた。
目の前には教会騎士団が折り重なって倒れている。
「お見事でございます」
殿下の力を称えるブライスと対照的に、エルミーヌは不満の声を上げた。
「ローデリック、殺さなかったのか。
相変わらず甘いな」
「気絶させて、今日一日の記憶を奪った。
気がついたらなぜここにいるのかもわかるまい」
わたしはその言葉を聞いて、どこかほっとした気持ちになった。
黒髪の悪魔と思われた人物は、単なる人を滅ぼす存在とは異なるに違いない。……きっと。
そんなことを考えつつ、薄く笑みを浮かべていたわたしに気づいて、ローデリック殿下が口を開いた。
「すでに私は指輪を身につけてしまった。
そして、この指輪に呪いの力を抑える効果があることを知った」
「長年、苦しまれてこられたのを存じております」
「その苦しみからは解放された。
であればブライス、私はお前の願いを聞き遂げねばならない」
「……! ちょっ、ちょっと待ってください——」
願いが何なのかを知るわたしからすると、その話は簡単に鵜呑みにすることができない。
すると、ローデリック殿下は、口づけを迫るのかと思うほどにわたしに近づき、詰め寄るように尋ねた。
あまりの至近距離に、一気に頬が上気する。
「私が恐ろしいか?」
「…………」
視線をそらしながら、考えを巡らせる。
恐ろしくないといえば嘘になる。
圧倒的な力も目にした。
だけれども、目の前のローデリック殿下から伝わってくる印象は、わたしが昔から悪魔に対して抱いていた恐れとは異なるように思えた。
「……いいえ」
小さくそう答えると、ローデリック殿下は口元に小さな笑みを浮かべた。
……ああ、だめだ。
このちょっと無邪気さを見せる笑顔を見るたびに、自分の意思が熱せられたバターのようにとろけていってしまうのを感じる——。
「私はローデリック・イーリス・アネスト。
かつて、アネスト公爵の長男だった者。
生後間もなく黒髪の悪魔として、すべての魔力を封印する呪いをかけられ、市井に捨てられた。そのため公爵家では、私は死んだことになっているはずだ。
だが、私はこの後、アネスト公爵家に戻り、自らの継承権を主張する。
私の継承権は第一位。
おそらく妹のロミルダや弟のデューイは黙っていないだろうが……。
結果として、公爵家を乗っ取ることになる可能性は高い。
そして、おそらくその結果にたどり着くのは簡単でないと思われる。
それを理解した上で、正直に答えてくれ」
殿下の真っ黒で真剣な瞳が、わたしの心を射貫いているようだった。
心だけではない、それはまるで魂までをも絡め取られてしまったように……。
「——私の妻になってくれないか?」
この質問に対する答えは、これからのわたしの人生を変える。
受け入れるか、受け入れないか。
選択肢は二つあるはずだ。
……だけれども、わたしの頭の中には、すでに選択肢が一つしかなかった。
頭に血が上って、何も考えられなくなっている?
ひょっとしたら、そうなのかもしれない。
さっきまで予想外だとか、考えもしなかったとか、あり得ないとか思っていたはずなのに。
でもこのわずかな時間を過ごしただけで、わたしの選択は自然に言葉として口に出た。
「わかりました。
ローデリック殿下、わたしをあなたの妻にしてください——」
そう答えた先には、わたしの意思と心を溶かしてしまうような笑顔がある。
……ああ、ダメだ。
きっと、わたしはこの笑顔にこれからもやられつづけてしまうのだろう。
そして、むしろそのために、この人の側に居続けるのだろうとも思った。
こうして——。
ローデリック殿下の公爵家の乗っ取り計画と、わたしのアネスト公爵家の後継者の『妻』としての人生が始まるのだった。