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医師、シャロンとの出会い

 古い木製の扉をゆっくりと開けると、カラン、とドアベルの乾いた音が鳴った。中は、薬と消毒液の匂いが混じった、独特の空気が漂っている。

 こぢんまりとした待合室には、木製の長椅子がいくつか並んでいるだけだ。今は誰もいない。


「シャロン? いる?」


 私が奥に向かって声をかけると、すぐにパタパタというスリッパの音が聞こえてきて、診察室のカーテンの奥から、白衣姿のシャロンが顔を出した。


「なんだ、セラか。……思ったより早かったな」


 シャロンは少しだけ眠そうな目を私に向けたが、すぐに隣にいるアリスの存在に気づき、わずかに表情を引き締めた。


「シャロン、この子はアリス。今朝話した子」


 私はアリスの背中にそっと手を添え、紹介する。アリスは私の後ろに隠れようとする。


「アリス、こちらシャロンさん。村のお医者さんだよ」


「こんにちは」


 シャロンはひざを折ってアリスに目線を合わせ、落ち着いたトーンで言った。


「私はシャロン・アシュフォード。医師だ。気分はどうかな? 朝も少し見せてもらったが、改めて少し診察させてもらっていいかな」


「……よ、ろしく……おねがい、します……。……アリス、です……」


 アリスはためらいがちに顔を上げ、シャロンの銀色の瞳を不安そうに見つめた後、小さな声で言った。


「よろしく、アリス。では、診察室へ」


 シャロンは短く応えると、私たちを診察室へと促した。


 診察椅子に座ったアリスは、やはり緊張している。シャロンはその様子を認めつつも、冷静に診察を進めていく。


「少し服を上げるね。聴診器を当てるだけだから」


 シャロンは淡々と、しかし丁寧な口調で断りながら、聴診器をアリスの胸や背中に当てる。アリスの呼吸が浅くなっているのに気づいたのか、「ゆっくり息をして。大丈夫だ」と静かに声をかけた。

 次に、メガネを取り出してかける。


「今度は、身体を少し診せてもらうよ」


 そう言って、アリスの全身を観察していく。特に左腕のあたりは時間をかけて。

 診察を終え、シャロンは眼鏡を外すと、カルテに何かを書き込みながら、まず私に向かって言った。


「身体には特に異常はないようだ。今朝は寒さで体力を消耗していたんだろう。安静にしていれば問題ない」


 その客観的な言葉に、私たちは安堵する。


「さて、セラ」


 シャロンはペンを置くと、私に目配せし、アリスが座る診察台から少し離れた、部屋の隅へと促した。アリスに聞こえないように、声を潜める。

 ここから、シャロンの口調が少しだけ普段の友人に戻る。


「で、どうなんだ? 例の腕の刻印。何か分かったのか?」


「いや、全然。それどころか、記憶がないんだ、この子」


「記憶喪失?」


 シャロンの眉間にわずかに皺が寄る。


「名前以外、何も覚えてないって……」


「……厄介だな」


 シャロンは腕を組む。


「医学的な原因は特定できない。外傷もない以上、精神的なものか……あるいは、あの刻印が何か作用しているか。魔法絡みなら、私の手には負えん」


 専門外のことには深入りしない、彼女らしい判断だ。


「それでさ、シャロン」


 私も少しだけ声のトーンを落とす。


「しばらく、私が預かろうと思うんだ」


「……はぁ?」


 シャロンは心底意外だ、という顔で私を見た。


「お前が? 本気か? ……まあ、お人好しなのは今に始まったことじゃないが……」


 やれやれ、と肩をすくめる仕草。でも、その目には面白がるような色も浮かんでいる。


「いいんじゃないか?  面倒ごとにはなりそうだが、退屈はしなさそうだ」


「……そういう言い方」


 私が少し呆れたように言うと、シャロンはふっと笑った。


「何かあったら連絡しろ。専門外でも、相談くらいには乗れるだろう。それに、興味深い患者の経過観察は、医師の務めだからな」


 最後は少しおどけて言ったけれど、その言葉は心強かった。


「ありがとう、シャロン。助かる」


「別に。……じゃあ、お大事に、アリス」


 シャロンは診察椅子に座ったままのアリスに声をかけた。


「アリス、行こうか」


 私はアリスの手を取り、診察室を出る。

 シャロンに見送られ、私たちは再び霧の立ち込める外へと出た。


 ***


 私はアリスを連れて、村の中心部にある役場へと向かうことにした。村に一つしかない、小さな行政窓口だ。


 古い木造の建物の引き戸を開けると、中は思ったよりも閑散としていた。カウンターの向こうにいる年配の男性職員さんに、私はアリスを保護した経緯と、記憶がないらしいことを掻い摘んで説明する。

 職員さんは気の良さそうな人で、親身になって話を聞いてくれた。

 迷子の届け出や、身元不明者の情報がないか、帳簿をめくったり、どこかへ電話で問い合わせたりしてくれたけれど、残念ながら、アリスに繋がりそうな情報は何も出てこなかった。


「うーん、記憶がないとなると、こちらでもなかなか……。何か所持品はありましたかな?」


「いえ、本当に、服一枚だけで……」


「そうですか……。一応、近隣の村にも情報は回しておきますが……」


 職員さんは申し訳なさそうに眉尻を下げる。私は丁寧にお礼を言って、支所を後にした。


 次に訪れたのは、村の駐在所だ。こちらもこぢんまりとした建物で、中には人の良さそうな、少し恰幅のいい警察官が一人いるだけだった。

 私はここでも同じように事情を説明する。駐在さんは真面目な顔で私の話を聞き、いくつかアリスに直接質問もしてくれたけれど、アリスはただ首を横に振るか、俯いてしまうばかりで、まともな答えは返せない。


「ふむ……。名前以外は、本当に何も?」


「はい……」


 駐在さんは腕組みをして唸りながら、調書のようなものにペンを走らせている。


「承知しました。こちらでも周辺への照会と、情報の収集は行います。……ただ、正直なところ、あまり期待はなさらない方がいいかもしれません。何か、少しでも思い出したことがあれば、いつでもいらしてください」


 結局、ここでも具体的な手がかりは何も得られなかった。まあ、そう簡単に見つかるはずもないか……。分かってはいても、少しだけ溜め息が出そうになる。


 一連の手続きを終えて駐在所の外に出ると、霧はさらに薄れ、西の空がほんのりと茜色に染まり始めていた。もう夕方に近い。

 隣を見ると、アリスは黙って私のそばに寄り添うように立っている。役場でも駐在所でも、ずっと所在なさげに、私の服の裾を掴んでいた。

 慣れない場所で、知らない大人たちに囲まれて、きっと不安だっただろう。


「……ごめんね、アリス。疲れちゃったよね」


 私が言うと、アリスはふるふると小さく首を横に振った。そして、私を見上げて、ぽつりと言う。


「……なにも、わからなかった……?」


 その声には、落胆と、わずかな不安が滲んでいる。自分のことが何も分からない、というのは、どれほど心細いことだろうか。


「うん……。でも、焦らなくていいんだよ」


 私はアリスの頭を優しく撫でる。


「シャロンも言ってたけど、身体は元気なんだから。それが一番大事。記憶のことは、ゆっくり思い出していけばいい」


 本当は、私だって不安じゃないわけじゃない。あの刻印のこと、アリスが放った尋常じゃない魔力のこと……。このまま何も分からないでいるわけにはいかない、という焦りもある。

 でも、今はまず、アリスを安心させてあげることが先決だ。


「さ、今日はもう帰ろうか。温かいご飯でも食べて、ゆっくりしよう」


 私はアリスの手を改めて取り直し、家への道を歩き始めた。

 夕暮れの霧の中、繋いだ手の温もりだけが、確かなもののように感じられた。

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