提案、二人の生活のはじまり
アリスからの、「ありがとう」という言葉。
その響きは、まだか細くて、少しだけ震えていたけれど、私の心の中にじんわりと温かく広がっていく。まっすぐ向けられた深い色の瞳に、私も微笑み返した。
「どういたしまして」
よかった。本当に。張り詰めていた糸が、ほんの少しだけ緩んだ気がする。
リビングには、まだホットミルクの甘い残り香が漂っていて、窓の外の白い霧の世界とは対照的に、ここだけ時間がゆっくりと流れているみたいだ。
さて、これからどうしようか。
アリスは記憶がない、と言っていた。自分の名前以外、何も思い出せない。
それが一時的なものなのか、それとも……。いずれにしても、今のこの子を一人で放り出すわけにはいかない。
私はゆっくりと椅子に座り直し、アリスに向き直る。
さっきよりも幾分か表情の和らいだアリスは、空になったマグカップの縁を小さな指でそっとなぞっていた。
その仕草が、なんだか心細そうに見えて、ぎゅっと胸が締め付けられる。
「アリス」
優しく呼びかけると、アリスは指の動きを止め、ふら、と小さく首を傾げて私を見た。その無垢な仕草に、思わず守ってあげたいという気持ちが強くなる。
「あのね、さっき、何も覚えてないって言ってたでしょう?」
「……うん」
小さな頷き。伏せられた長いまつ毛が、白い頬に影を落とす。
「だからね、もしアリスがよかったら……なんだけど」
私は言葉を選びながら、慎重に続ける。
「少しの間、ここにいるのはどうかな? 無理にとは言わないけれど……行くあてがないのなら、ゆっくり休んで、これからどうするか、一緒に考えられたらなって」
私の提案に、アリスは、ぱちり、と大きな瞳を瞬かせた。
その濃紺の瞳が、戸惑うように揺れている。信じられない、というような、あるいは、どうして? と問うているような。
「……ここに、いて……いいの?」
恐る恐る、といった様子でアリスが尋ねる。その声には、不安と、ほんの少しの期待が混じっているように聞こえた。
「うん、もちろんだよ。困っている子を放っておけないし、それに……」
私は少しだけ言葉を切って、安心させるように微笑む。
「私、一人暮らしだから、話し相手がいてくれると嬉しいなって思ってたところなんだ」
本当は、そんな単純な理由だけじゃない。この子のことが放っておけない。小さな子をひとりで放り出すこともできないし、アリスのことをもっと知らないといけないという気持ちもあった。
でも、今はそれをストレートに伝えるより、アリスが少しでも気を楽にしてくれる方がいいだろう。
私の言葉に、アリスはしばらくの間、じっと私を見つめていた。その瞳の奥で、様々な感情が揺れ動いているのが分かる。不安、戸惑い。
そして、ほんのわずかな安堵のようなもの。
やがて、アリスは小さな声で、でもはっきりと、こう言った。
「……うん。……おねがい、します」
そう言って、こくりと頷き、小さな頭をぺこりと下げた。
その健気な姿に、私は胸がきゅんとなる。
「よかった! こちらこそ、よろしくね、アリス」
ほっと息をつきながら、私は笑顔で応える。
まずは、当面の居場所が決まった。これが、第一歩だ。
「それとね、アリス。その服、ちょっと寒くないかな?」
私はアリスが着ている薄い白い服に目を向ける。朝、私が温める魔法を使ったとはいえ、山間のこの村の気候にはあまりにも不釣り合いだ。
「私の昔の服で、もしサイズが合うものがあれば……少し見てみるね。着替えだけでもしておいた方がいいと思うから」
「……あ」
アリスは自分の服を見下ろし、それからこくりと頷いた。どうやら寒さには気づいていたけれど、言い出せなかったのかもしれない。
「あとね、もうひとつ。朝、アリスが倒れていた時に、お医者さんに診てもらったんだ。シャロンっていう、私の友達みたいな」
「……おいしゃ、さん……?」
「うん。念のため、もう一度、ちゃんと診てもらいたいなって思ってるの。今日か、明日あたりにでも。……大丈夫かな?」
アリスは「お医者さん」という言葉に少しだけ身を硬くしたように見えたけれど、私の顔をじっと見て、やがて小さく頷いてくれた。
「……わかった」
よかった。嫌がられたらどうしようかと思ったけれど、ちゃんと受け入れてくれた。
やるべきことはいくつかあるけれど、焦らず、一つずつ進めていこう。
「じゃあ、まずは着替えを探してみようか!」
私は椅子から立ち上がり、クローゼットのある隣の部屋へと向かう。
アリスは、少しだけ不安そうな、でもさっきよりはずっと落ち着いた表情で、私の後ろから静かについてくる。
これから、この子との不思議な生活が始まる。
記憶のない少女、アリス。
その胸の内には、どんな過去が隠されているのだろうか。
今はまだ、何も分からないけれど。
私は、この出会いが何か大きな意味を持つような、そんな予感を、胸の奥で確かに感じていた。