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碧い瞳の少女、アリス

 私の言葉に、少女はゆっくりと顔を上げた。

 その小さな唇が、ためらうように、わずかに震えながら開かれる。


「…………ア……」


 吐息のようにか細く、頼りない声。

 聞き取ろうと、私は息を詰めて耳を澄ませた。


「……ア、リス……」


 そう、囁くように言って、少女――アリスは、再び唇を固く結び、小さな顔を俯かせてしまった。

 まるで、自分の名前を声に出すこと自体が、何かとても怖いことであるかのように。


「アリス……。それが、あなたの名前なのね?」


 私はできるだけ優しい声色で尋ね返す。

 アリス、という響き。少し珍しいけれど、可憐で、綺麗な名前だと思った。この子によく似合っている。

 アリスは顔を上げないまま、こくり、と小さく、でもはっきりと頷いた。長い濃紺のまつ毛が震えている。


「そっか、アリス……。よろしくね」


 私は心からの安堵と共に、そう言った。

 名前が分かっただけでも、少しだけこの子との距離が縮まった気がしたから。

 続けて、私は最も気になっていたことを尋ねてみる。警戒させないように、慎重に言葉を選んで。


「アリスは……どこから来たの? それに、どうして、あんなところに倒れていたのか、何か覚えてる?」


 私の問いかけに、アリスは俯いたまま、ふるふると力なく首を横に振った。

 そして、さらにか細い、今にも消えてしまいそうな声で、ぽつり、と呟く。


「……わからない……」

「え……?」

「……なにも……おぼえて、ない……」


 その声は、ひどく頼りなく、深い不安と絶望の色を帯びていた。

 本当に、何も覚えていない。その言葉には嘘や誤魔化しがあるようには到底思えなかった。


 なにも、覚えていない……?

 そんなことが、本当にあるのだろうか。

 自分の名前はかろうじて思い出せたようだけど、それ以外のことは……? 自分が誰で、どこから来て、どうしてここにいるのか、全く分からないというのだろうか。

 事故か何かで、一時的に記憶が混乱しているだけ?  それとも、何か思い出したくないような、辛い出来事があって、無意識に記憶に蓋をしている……?


 いや、でも……。

 目の前のこの子の、怯えきった様子を見ていると、何かから必死に逃げてきたようにも見える。あの腕にあった奇妙な模様、そしてさっきの制御できない魔力の奔流……。

 断片的な情報が頭の中でぐるぐると回るけれど、何も繋がらない。

 ただ、この子が普通ではない、何か大変な事情を抱えていることだけは、ひしひしと伝わってきた。


 これ以上、今のこの子に問い詰めるのは酷だ。

 怯えさせてしまうだけかもしれない。


 私は内心の動揺を抑え、努めて穏やかな声を作った。


「そっか……。分かった」


 その声が、ちゃんと優しい響きになっていただろうか。


「今は無理に思い出さなくていいよ。きっと、すごく疲れているんだろうから。まずはゆっくり休まないとね」


 私の言葉に、アリスは少しだけ驚いたように、ゆっくりと顔を上げた。

 そして、その大きな瞳が、今度はまっすぐに、吸い込まれるように私を捉えたのだ。


 ――きれいな、色……。


 初めて、その瞬間、私はこの子の瞳の色をはっきりと認識した。

 それは、どこまでも深い、夜空の最も深い場所をそのまま切り取って溶かし込んだような、吸い込まれそうなほどの濃紺。

 ただ深いだけじゃない。光の加減で、わずかに紫がかったようにも見える、不思議な光彩を宿している。こんなにも印象的な瞳の色を持つ人に、私は今まで会ったことがあっただろうか。

 その澄んだ瞳にじっと見つめられて、私は思わず少しだけ息をのんだ。


 アリスは何も答えなかったけれど、さっきよりもずっと、その表情が和らいでいるように見えた。

 全身を覆っていた、針のような警戒心が、ふっと緩んだような気がした。


 やがて、アリスの小さな唇が、再びゆっくりと開かれた。

 そして、今度はさっきよりも少しだけはっきりとした、でもやっぱりか細い声で、こう言ったのだ。


「……ありがとう……」


 その言葉は、まっすぐに私に向けられていた。

 言葉と共に、その深い濃紺の瞳も、もう逸らされることなく、ただ静かに私を映している。そこに宿るのは、怯えや警戒ではなく、もっと別の、純粋な何か。


 不意に紡がれた、心のこもった感謝の言葉。

 まっすぐな視線。

 私は少しだけ目を見開いて、それからすぐに、胸の中に温かいものがじんわりと広がっていくのを感じた。


「……どういたしまして」


 私は、心からの笑顔でそう答えた。

 よかった。本当に。少しだけ、私たちの間にあった見えない壁が、取り払われたような気がした。


 リビングには、温かいミルクの残り香と、二人の間の静かで、少しだけぎこちないけれど、でも確かに何かが通い合い始めたような、そんな温かな空気が流れていた。

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