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魔法士、セラ

 私の問いかけに、腕の中の少女は、すぐには答えなかった。

 ただ、大きな瞳でじっと私を見つめ返してくる。

 そこにはもう、さっきまでの激しい怯えや警戒心の色は薄れていたけれど、代わりに戸惑いと、まだ拭いきれない不安のようなものが揺らめいているのが見えた。

 小さな唇はきゅっと結ばれたままだ。


 床に膝をついたまま、私が辛抱強く待っていると、不意に、少女のお腹のあたりから、くぅ、と小さな、可愛らしい音が鳴った。

 少女の白い頬が、ほんのりと赤く染まる。大きな瞳が気まずそうに伏せられた。

 ふふっ、と思わず笑みがこぼれそうになるのを、私は慌ててこらえる。


「やっぱり、お腹空いてたんだね」


 私はさらに声を和らげて言う。


「大丈夫だよ。ね、こっちへおいで?」


 私はゆっくりと少女の身体を支えながら、その場で立ち上がる。

 少女は一瞬、びくりと身体をこわばらせたけれど、私が優しく背中を撫でると、おとなしく私に体重を預けてくれた。まだ少し、震えている気がする。


「立てるかな? 無理しなくていいからね」


 声をかけると、少女はこくりと小さく頷いた。

 私は少女の細い肩を支えながら、リビングの奥にあるダイニングテーブルへとゆっくり歩き出す。数歩の距離だ。

 この子の足取りはまだ少しおぼつかない。さっき無理に魔力を使った影響が残っているのかもしれない。


 ダイニングテーブルまで来ると、私は椅子を引いて少女をそっと座らせてあげた。

 少女は椅子の端にちょこんと腰掛け、不安そうに自分の膝を見つめている。長いまつ毛が影を作っていた。


「すぐに温かいもの、用意するからね。ちょっとだけ待ってて」


 私はそう言って、キッチンへと向かう。

 戸棚から小さな鍋と牛乳を取り出した。甘いホットミルクなら、今の彼女にも飲みやすいかもしれない。

 コンロに火をつけ、鍋を温めながら、私はちらりとリビングの様子をうかがう。


 椅子に座った少女は、まだ少し緊張した様子だったけれど、さっきよりは落ち着いたように見えた。

 小さな顔を上げて、きょろきょろと珍しそうに部屋の中を見回している。

 その姿は、やっぱり年相応の、普通の女の子に見えた。

 ここにたどり着くまでに、この子がどんな経験をしてきたのか、私にはまだ何も分からないけれど。


 今はまず、この子がお腹を満たして、少しでも安心できるようにしてあげること。

 それが、今の私にできることだと思った。


 鍋の中のミルクから、ふわりと甘い湯気が立ち上り始めていた。

 焦がさないように火を弱め、温まったミルクをマグカップにそっと注ぐ。持ちやすいように、取っ手のついた少し小さめのものを選んだ。

 それと、私が朝食用に焼いたトーストがまだ残っていたはずだ。棚から皿を取り出し、耳の部分を少しだけ切り落とした食パンを一枚乗せる。


「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」


 私はマグカップとお皿を、テーブルに座る少女の前にそっと置いた。

 湯気を立てる白いミルクと、こんがり焼けたパン。ささやかな食事だ。


 少女は目の前に置かれたものと、私の顔を交互に見比べる。

 その瞳には、まだ警戒の色が残っていて、すぐには手を伸ばそうとしなかった。

 無理もないことだ。いきなり知らない場所で、知らない人に出されたものを、すぐに口にするのは難しいだろう。


「大丈夫だよ。変なものは入ってないから」


 私は安心させるように、にっこりと微笑みかける。

 そして、自分用のコーヒーを淹れるふりをして、少しだけ距離を取った。あまりじっと見つめていても、かえって緊張させてしまうかもしれないから。


 しばらくの間、リビングには静かな時間だけが流れる。

 やがて、少女がおそるおそる、といった感じでマグカップに手を伸ばすのが視界の端に入った。

 小さな両手でマグカップを包むように持ち上げ、こくり、と一口飲む。

 その喉が小さく動くのを見て、私は内心でほっと息をついた。


 温かいミルクが身体に染みたのだろうか。少女の表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。

 それから、今度はパンを手に取り、小さな口でゆっくりと食べ始める。

 よほどお腹が空いていたのか、あるいは緊張しているからか、少女はほとんど無心で、黙々とパンを口に運んでいた。


 私は自分の席に戻り、コーヒーを静かに飲みながら、その様子をそっと見守る。

 こうして見ると、本当に普通の、どこにでもいそうな女の子だ。ただ、その服装や、衰弱しきっていた様子、そしてあの腕にあった奇妙な模様のことを考えると、普通ではない何かがあったことは明らかだった。


 この子はいったい、誰なんだろう。

 どこから来て、どうしてあんな場所に……?

 聞きたいことはたくさんある。けれど、焦ってはいけない。


 やがて、少女はマグカップのミルクをほとんど飲み干し、パンもきれいに食べ終えた。

 小さな手が、空になったマグカップをテーブルの上で所在なげに弄んでいる。

 さっきまでの張り詰めたような空気が、少しだけ和らいだ気がした。


 ……今なら、少しだけ話してくれるかもしれない。

 私は意を決して、できるだけ穏やかな声で、優しく問いかけた。


「少しは、落ち着いたかな?」


少女はこくり、と小さく頷く。顔はまだ少し伏せられたままだが、さっきよりはこわばりが取れているように見える。


「よかった」


私は微笑んで、続ける。まずは私から、だよね。


「私の名前はセラ・アストラ。この村でね、魔法士をしているの」


「…………」


 少女は、私の言葉にぴくりとも反応を示さない。ただ、マグカップを弄る指が止まった。

 魔法士、という言葉に何か思うところがあるのだろうか。それとも、単に意味が分からないだけか。


「……怖がらせるつもりはないんだ。私はあなたの敵じゃないから。ただ、あなたが心配で……」


 優しい声で、ゆっくりと伝える。どうか、この気持ちが届きますように、と願いながら。


「だから、もしよかったら、あなたのことも少しだけ教えてほしいな。……あなたのお名前は?」


 尋ねると、少女はゆっくりと顔を上げた。

 戸惑うように揺れていた深い色の瞳が、まっすぐに私を見つめ返してくる。

 その小さな唇が、わずかに開かれた。

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