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ここにいる意味

 再び森の中へと戻ると、空気はさらにひんやりと湿っていた。陽の光は梢の上でふるいにかけられ、地面には柔らかな影が広がっている。


 ユルゲンの地図を頼りに、私たちは慎重に道なき道を進んでいく。獣道のような細い道をくねくねとたどりながら、何度も足元の根に足を取られそうになった。


「セラ、こっち……ぬかるんでる」


 アリスが指差した先には、しっとりと湿った泥濘が広がっていた。私が先に足を置き、手を伸ばすと、アリスはその手をしっかり握って、泥を避けて跳び越える。


「ありがとう、アリス。助かったよ」


「……ううん、セラがいるから、へいき」


 そう言って微笑んだ彼女の顔には、さっきまでの不安な影はなかった。


 森を進むうちに、次第に空気が変わっていった。草木の匂いが濃くなり、耳を澄ますと、どこからともなく水音が聞こえる。


 そのとき、シャロンが足を止めた。


「ここだ。地図の印と一致している」


 指差された先には、木々に囲まれた小さな庭園が広がっていた。


 そこは、不思議なほど明るかった。木漏れ日がちょうど天蓋の隙間から差し込み、一帯を柔らかな光で満たしている。空気が澄んでいて、呼吸をするだけで胸の奥がすっと清らかになるようだった。


 中央には浅い池があり、そこを囲むように、色とりどりの草花が静かに咲いていた。


 見たことのない形をした葉、まるで絹のように柔らかそうな白い花弁――そのどれもが、まるで人の手を避けるように、自然のまま美しく保たれていた。


「……こんな場所が、本当に森の中にあるなんて」


 私は思わず息を呑んだ。


 ここはきっと、長い年月のあいだ、誰かが守り、見守り続けてきた場所なのだ。風が吹くたび、葉の擦れる音がささやくように響く。


「薬草も、きちんと管理されているな。これは……なるほど、ユルゲン先生がわざわざここまでくるわけだ」


 シャロンが膝をつき、そっと葉をを手に取る。しばらくもってきた麻袋に慎重に葉を集めていた。


 その様子を眺めながら、私はアリスに声をかける。


「アリス、あの白い花、見える? あれがユルゲンさんの言っていた薬草の一つだよ」


「うん……きれい」


 アリスはそっとその花に近づき、しゃがんで見つめた。指先を伸ばすのを思いとどまり、ただ、そっと見守るように。


 私はその姿を見て、ふっと胸の奥があたたかくなるのを感じた。


「こういう場所を見ると、改めて思うな」


 シャロンが立ち上がりながら、ぽつりと言った。


「この村には、この土地には、昔から続くものがある。誰かが守ってきたものを、私たちがちゃんと受け継がないとな」


「……うん。小さな村かもしれないけど、こういう場所があるって、誇っていいよね」


 私は頷きながら、アリスの頭を優しく撫でた。


 自然に抱かれたこの一角は、まるで忘れられた祈りのように、静かで、美しかった。


***


 薬草をひととおり採取し終え、私たちは森を抜けて、ふたたびカンナの村へと戻った。太陽は西へ傾き始め、森の陰影が長く伸びている。


 老婦人の案内で、再びユルゲンのもとを訪ねると、彼は布団から半身を起こし、私たちの帰還を迎えてくれた。


「おお……戻ったか。どうだった?」


「ええ。必要な分はすべて、丁寧に採取しました。おそらく、状態も申し分ないかと」


 シャロンがそう答えて、袋をそっとユルゲンのそばに置くと、彼は目を細めて深く頷いた。


「……感謝する。私が行けない間も、この森が無事であるのは、薬師として本当にありがたいことだ」


 そう言って、彼はそっと目を細めた。


「この薬草畑はな、この村の誇りなのだ。昔から、代々の薬師たちが手をかけ、守り続けてきた場所でな。私も、そうした家系の出身で……ここが、私の故郷でもある」


 彼の指が、乾いた薬草の葉をやさしく撫でる。


「この村には、いまだに多くの薬師が暮らしておるよ。都市には出ず、ここに残って薬を調合し、山を歩き、畑を守る。そうした暮らしの中で、知識と技術が受け継がれてきた」


 彼の言葉には、誇りと静かな責任のようなものが込められていた。


「森の中にある薬草畑……あれは、まさにこの村の歴史そのものだ。忘れられたような土地かもしれんが、誰かが守ることで、この薬草も生き続けているのだ」


 私はうなずきながら、その言葉を心に刻んだ。シャロンも、黙ってそれを聞いていた。


「今日はわざわざ来てもらってありがとう。体調が戻ったら、ユスレ村に戻ることにするよ」


 ユルゲンはそう言って目を閉じた。


「お礼なんて、とんでもないです。……ただ、教えてくれて、ありがとうございます」


 シャロンの声は静かだったが、その眼差しには確かな光があった。


***


 村を離れる頃には、空はすっかり暮れかけていた。森の道はひんやりと静かで、アリスは途中でうとうとしはじめ、やがて私の背にしがみついたまま、すっかり眠ってしまった。


 私はアリスの軽い体重を背に感じながら、月の見え始めた山道をゆっくり歩いていた。


「……セラ」


 シャロンがぽつりと私を呼んだ。


「私、この村に来て、もうすぐ2年になる。最初は正直、ただの任地だと思ってたよ。中央からの派遣で、この任期を終えたら、いずれは都市部の病院で、もっと高度な医療を――そんな夢を、今も持ってる」


 シャロンはまっすぐ前を見たまま、続ける。


「でも……今日、森の奥にあったあの薬草の畑を見て、改めて思ったんだ。ここには、誰かが守ってきた暮らしがある。知識や技術だけじゃない、長い時間の中で繋がれたものが、たしかに存在してる」


 少し言葉を区切り、彼女は私の方へ目をやる。


「私は、よそ者かもしれない。でも、それでも。この村にいる限り、ここを守っていきたいって……そう思ったよ」


 シャロンの言葉は、いつになく静かで、けれど確かな意志がにじんでいた。


 私はその横顔を見つめながら、ふと、自分のことを思い返す。


 あの日、この村に戻ってきてからのこと。アリスと出会って、リオと一緒に戦って、いくつもの出来事があって――

 私もまた、この場所で、何かを守ろうとしている自分に気づいていた。


「……うん。私も、似たようなものかも」


 思わず、そう口にしていた。


「私はこの春に村に来たけど、故郷の田舎みたいなところで居心地がいいって思った。都会の喧騒を離れて、でも、やっぱり、またいつかは中央に戻って、魔法の仕事を本格的に――って、思ってた」


 私は空を見上げた。木の葉の隙間から、淡い星が瞬いている。


「だけど、アリスに出会って、リオと話して、いろんな人と関わって……今は、少しずつ、ここにいる意味が見えてきた気がする。私がここにいることにも、ちゃんと理由があるんじゃないかって」


 シャロンがふっと笑った。


「お互い、似たもの同士だな」


「ふふ、ほんとにね」


 風が通り過ぎ、木々が優しく揺れる。


 私は背中でアリスの寝息を感じながら、静かに歩を進めた。


 小さな灯りが、村の方角に見え始めていた。

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