目覚め、戸惑い
水の音だけが響いていたキッチン。私はぼんやりと、これから起こるかもしれない出来事を考えていた、まさにその時だった。
――ガタッ。
静寂を破る、小さな物音。それは、寝室の方から聞こえてきた。
びくっ、と私の肩が小さく跳ねる。
反射的に蛇口を捻って閉め、しん、と静まり返った家の中に耳を澄ませた。
(……起きた?)
わずかな緊張が走る。
濡れた手をエプロンで拭いながら、私は足音を殺して寝室の扉の前へと進む。
ゆっくりとドアノブを回し、ほんのわずかに扉を開けて中をうかがった。
私のベッドの上。
掛け布団が乱れ、そこにあの少女が座っていた。
濡れたような艶を持つ濃紺の髪が、華奢な肩でさらりと揺れている。夜空の色を映したような、深い色合いだ。
年は十四歳くらいだろうか。その白い肌はまるで陶器のようだ。
状況が掴めていないのだろう、髪と同じ色の大きな瞳が、潤んで頼りなげに揺れていた。長いまつ毛が影を落としている。
扉の隙間にいる私に気づいた瞬間、その瞳に鋭い警戒の色が宿る。怯えが敵意に変わったような光。
「――っ!」
声にならない叫びと共に、少女はベッドから飛び降りた。
そして、ためらいなく私に向かって真っ直ぐに突進してくる。
幼い見た目に反して、驚くほど素早い動きだった。
同時に。
ぞわり、と空気が震えるような感覚。
制御されていない強い魔力が、目の前の少女から奔流のように溢れ出すのを肌で感じ取った。異質で、荒々しい力だ。
朝の微かな気配とは比べ物にならない。
(……!)
咄嗟に身構える。
真っ直ぐ突進してくる少女の動きを冷静に見極め、私は静かに半身になって衝突を避けた。
同時に、防御魔法を練りかけたが――すれ違いざまに見えた少女の足元がおぼつかない。顔色も悪い。
無理に魔力を放って消耗している? それに、瞳の奥には強い怯えが見える。
練りかけた魔法をふっと霧散させる。力を向けるべき相手じゃない。
案の定、勢いを制御できなかったのか、少女はバランスを大きく崩した。
「あっ……!」
短い悲鳴。前のめりによろめき、華奢な身体が床に向かって倒れ込もうとする。
「危ない!」
考えるより先に身体が動いていた。
床を蹴って距離を詰め、倒れ込む少女の細い腕を掴む。
そのままぐっと引き寄せるようにして、その小さな身体を、衝撃から守るようにしっかりと支えた。
結果的に、そっと抱きかかえるような形になる。
腕の中の身体は驚くほど軽かった。まるで羽毛のようだ。
そして、腕の中で、小鳥のように小刻みに震えている。
さっきまでの激しい魔力の気配は嘘のように消え去り、ただ怯えた子供が、私の腕の中で小さくなっているだけだ。ぜぇぜぇと苦しそうだった呼吸が、少しずつだが穏やかなリズムを取り戻していくのが、背中に当てた手を通して伝わってくる。
「……大丈夫、大丈夫だよ」
私は、できるだけ優しい、落ち着いた声で語りかける。繰り返すことで、安心させたくて。
腕の中の少女の背中を、一定のリズムで、あやすように優しく叩いた。温もりが伝わるように。
「もう怖くないから。大丈夫」
私の声が、温もりが届いたのだろうか。
腕の中で強張っていた筋肉が、ほんの少しずつだが、緩んでいくのを感じる。
まだ警戒心は解けていないだろうけれど、さっきまでの針のような敵意はもう感じられない。
私は内心で安堵の息をつき、少しだけ腕を緩めて少女の顔をそっとのぞき込む。
間近で見るその顔立ちは、やはりまだあどけない。けれど、驚くほど整っていて、まるで精巧な人形のように儚げで美しい。今は血の気が引いてしまっている透き通るような白い肌が、痛々しいほどだ。
怯えと混乱の色はその瞳にまだ色濃く残っているけれど、その大きな瞳が、じっと私を見つめ返していた。不安そうに揺れながらも、何かを探るように。
「……あのね」
私は、努めて穏やかな声色を保ったまま、優しい響きになるように意識して、続ける。
「お腹、空いてないかな? 何か温かいものでも飲もうか」
「……あたたかい、もの……?」
か細い、囁くような声が、私の言葉をオウム返しに繰り返した。その声には、まだ幼さが色濃く残っている。
「うん。そうだね、温かいスープとか……。それとも、甘いミルクがいいかな?」
私は尋ねながら、少女の乱れた濃紺の髪にかかっていた小さな埃を、そっと指先でつまんで払ってやる。指に触れた髪は、驚くほど滑らかだった。
「…………」
少女は何も答えない。ただ、大きな瞳で私をじっと見つめている。その視線から目が離せない。
でも、もう私から逃げようとしたり、ましてや攻撃しようとしたりするような気配は微塵もなかった。少しだけ、ほんの少しだけ、心を許してくれたのかもしれない。
「私もさっき食べたところだから、すぐ用意するよ」
私は、できるだけ安心させるように、警戒心を解いてほしくて、ゆっくりと、心を込めて微笑みかけてみた。