朝食、いつもと違う味
私はキッチンに立ち、いつもの朝の習慣を始めた。特別なことは何もない、はずだった日常の始まり。
私は戸棚から食パンを取り出すとそれをぽん、とトースターに入れる。焼き時間をセットし、ダイヤルを回した。
次はお湯を沸かす番だ。ケトルに水を入れ、コンロのそばの電源プレートに乗せてスイッチを押す。すぐに静かな動作音がしんとした部屋に響き始めた。
その間に棚からインスタントコーヒーの瓶を取り出し、お気に入りの少し大きめなマグカップにさらさらと粉を入れる。スプーン二杯、これが私のいつもの量だ。
ちん、と軽快な音がして、トースターが焼き上がりを知らせる。のぞき込むと、パンはこんがりときれいなきつね色になっていた。
うん、いい感じ。
ちょうど同じくらいのタイミングでケトルもカチンと静かになり、白い湯気が注ぎ口から立ち上っている。慎重に持ち上げてマグカップにお湯を注ぐと、ふわりとコーヒーの香ばしい香りが鼻先をくすぐった。
手早く準備を終え、ほかほかと湯気の立つマグカップと、バターをさっと塗ったトーストを乗せた皿を両手に持ってリビングの小さなテーブルへ運ぶ。
私の、いつものささやかな朝食がこうして整った。
椅子に腰を下ろし、ふぅ、と自然と息が漏れる。
窓の外に目をやると、深い霧はまだ晴れておらず、白く静かな世界が辺りを包んでいた。まるで世界からこの家だけが切り離されてしまったような、不思議な感覚。
壁の時計がカチ、カチ、と秒針を刻む音だけが、やけに大きく部屋に響いている。
普段なら、この静かな朝の時間も結構気に入っている。誰にも邪魔されることなく、自分のペースでゆっくりと過ごせるからだ。
読書をしたり、少し難しい資料に目を通したりするのにも集中できる。心が穏やかになるはずの、私にとっては大切な時間だ。
でも、今日は……なんだか違う。胸のあたりがずっと落ち着かず、妙にそわそわしていた。
トーストを手に取る。まだほかほかと温かい。口に運ぶと、こんがり焼けた表面の食感と中のふんわり感、そしてバターの程よい塩気が舌の上で混ざり合う。
いつもと同じ味のはずなのに、今日はあまり味を感じられないような気がした。心ここにあらず、とはきっとこういうことを言うのだろう。
――まあ、無理もない。私の思考は、どうしても別のことで占められているのだから。
この家の、すぐそこの寝室で眠っている、見ず知らずの少女のことだ。
今朝、玄関の前で倒れていた女の子。深い霧の中、まるで誰かに置き去りにされたみたいに、小さくうずくまっていたあの姿が、まだはっきりと目に焼き付いている。
この時期の山間の朝はまだ肌寒い。吐く息だって白くなるくらいなのに、あの子が着ていたのはたった一枚だけの、薄い、白い服。季節感なんて全くない、どう見ても場違いな服装だった。
一体、どうしてあんな場所にいたのだろう? どこから来て、どんな事情があって、そしてどうして、よりにもよって私の家の前に……? 次から次へと疑問が浮かんでくる。
そして……何よりも頭から離れないのは、あの子の左腕にあったものだ。シャロンと一緒に見た、あの不思議な模様。痣、と呼ぶにはあまりにも整然としていて、どこか人工的な印象さえ受けた。
複雑で、見たこともないような幾何学的なデザイン。あの時、私は確かに感じたのだ。微かな、でも確かな魔法の気配を。それは古いようでいて、けれど完全に眠っているわけではないような、妙な感覚を伴っていた。
あれがただの模様ではないことは、魔法士としての私の勘がはっきりと告げている。
だが、では一体何なのか? 何かの術式なのか、それとも強力な封印の類か、あるいはもっと良くない何かか……。
考えても、考えても、今の私には答えなんて見つかりはしない。まるで、窓の外に広がるあの白い霧の中を、一人で手探りで歩いているような気分だ。どこに進めばいいのかも分からず、ただ心もとない。
マグカップを持ち上げ、両手でその温かさを感じる。残っていたコーヒーを、ごくりとゆっくり飲んだ。
もうだいぶぬるくなってしまっていたけれど、温かい液体が喉を通って胃に落ちていく感覚は、少しだけささくれ立っていた心を解きほぐしてくれる気がした。
……今は、ただ待つしかないのだろう。
そう、自分に言い聞かせる。何度も、何度も。
あの子が目を覚ましてくれないことには。そして、もし話してくれるのなら、その話を聞かないことには。何も分からないし、何も始まらないのだから。
私はそっと、寝室の扉に視線を向けた。木製の、何の変哲もない簡素な扉。その向こうは静かなままだ。
物音ひとつ聞こえてこない。ちゃんと眠れているのだろうか。そして……ちゃんと、目を覚ましてくれるだろうか。
さっきよりも少しだけ強い不安が、また胸をちくりと刺した。
食べ終えた皿とマグカップを重ねて持つ。静かに椅子から立ち上がり、キッチンへと向かった。
シンクに食器を置くと、カチャン、と小さな音がした。蛇口をひねると、ざあっと勢いよく水が流れ出す。
その単調な水の音を聞きながら、私はぼんやりと思う。
これから、どうなるんだろう。 あの子は、一体何者なんだろうか。
この静かで、平穏で、少しだけ退屈だったかもしれない私の日常が、これから少しずつ変わっていくのかもしれない。
そんな予感が、胸の奥で静かに、でもはっきりと生まれていたのだった。