昼下がりの提案
「ねえ、セラ」
朝食のパンをちぎりながら、アリスがふと顔を上げた。ここ数日で、こんな風にアリスから話しかけてくれることが、ぐっと増えた気がする。
「うん? どうしたの、アリス」
「今日のパン、いつもよりなんだか、ふわふわしてる」
「あ、本当? いつもよりちょっとうまくできた気がしたんだ。気づいてくれて嬉しいな」
私がそう言うと、アリスはこくりと頷き、小さな口でパンを頬張りながら「……ん、おいしい」と、はっきりした声で感想をくれた。
あの日、井戸の一件があってから、アリスの表情は目に見えて明るくなった。言葉数も増えたし、何より、その瞳が、以前よりもずっと多くの光を映すようになった気がする。
「セラ、今日、何かするの?」
食後の片付けを一緒にしながら、アリスが尋ねてくる。以前は、私の後をついて回るだけだったのに、今ではこうして自分から次の行動を気にするようにもなった。
「そうだねぇ……。天気もいいし、村までお買い物に行こうか。アリス、何か欲しいものとかある?」
「んー……」
アリスは小さな指を顎に当てて、うーんと考える仕草をする。その姿がなんだか可愛らしくて、私は思わず笑みがこぼれた。
「この前、お菓子屋さんで見た、キラキラした飴……あれ、欲しい」
「ふふ、いいよ。じゃあ、家のこと少し片付けたら、一緒に行こうか」
「うん!」
ぱっと顔を輝かせるアリス。本当に、表情が豊かになったなぁ、と改めて思う。
家の周りの簡単な掃除や、私が育てている薬草の手入れを一緒に済ませる。アリスは、私が教えた通りに小さなジョウロで丁寧に水をやったり、薬草の葉についた虫をそっと指でつまんで逃がしてやったり。その真剣な横顔は、見ていて飽きない。
お昼少し前、私たちは二人で手を繋いで村へと向かった。
道すがら、アリスは以前よりもずっと周りの景色に目を向けるようになった。
「あ、セラ、見て。あの木、赤い実がたくさんなってる」
「ほんとだ。鳥さんたちのご馳走だね」
そんな他愛ない会話を交わしながら歩いていると、畑仕事を終えたらしい村のおばあちゃんが声をかけてきた。
「あら、セラにアリスちゃん。こんにちは。今日はいい天気だねぇ」
「こんにちは! 本当ですね。お買い物ですか?」
「そうなんだよ。この前は井戸のこと、本当にありがとうねぇ。おかげで、うちの野菜も元気に育ってるよ」
「それはよかったです!」
アリスも、私の隣でぺこりとお辞儀をする。
おばあちゃんはにっこり笑ってアリスの頭を優しく撫で、「アリスちゃんも、すっかり村の子みたいになったねぇ」と目を細めた。
アリスは少し照れくさそうに、でも嬉しそうに俯いている。
お目当てのお菓子屋さんでは、アリスは色とりどりの飴が並んだ棚の前で、目をきらきらさせながら真剣に悩んでいた。
そして、ようやく一つ、赤いリボンで結ばれた小さな袋を選び出す。
「これにする」
「はい、どうぞ。落とさないようにね」
「うん。 セラ、ありがとう」
その素直な感謝の言葉が、私の胸を温かくする。
記憶がないこと、腕の刻印のこと……解決しなきゃいけない問題は山積みだけど、こうしてアリスが日々の小さな幸せを感じてくれているなら、それが今の私にとって一番大切なことだ。
そんな穏やかな気持ちで、お菓子屋さんの角を曲がった、その時だった。
前方から、見慣れた白衣姿がこちらへ歩いてくるのが見えた。
「あ、シャロン」
「おや、セラじゃないか。それにアリスも」
往診帰りだろうか、肩にかけた鞄を少し持ち直しながら、シャロンが私たちに気づいて足を止めた。その瞳が、アリスの姿を捉えて、わずかに細められる。
「こんにちは、シャロン。お仕事中?」
「ああ、ちょっとね。さっきまで奥の集落まで行っていたところだ。……アリスも元気そうじゃないか。顔色もいい」
シャロンはアリスの頭に軽く手を置き、医者としての目で観察するように、でも優しい口調で言う。
アリスは少しだけ緊張したように私の服の裾を掴んだけど、前のように隠れたりせず、シャロンの顔をちゃんと見上げて、こくりと小さく頷いた。
「うん……大丈夫、です」
「そうか、それは何よりだ」
短いやり取りだったけれど、アリスがシャロンに対して以前よりもずっと自然に接しているのが分かって、私は少し嬉しくなる。
ふと、シャロンが何かを思い出したように、悪戯っぽく口の端を上げた。
「そういえば、セラ。この間、アリスを助けに叩き起こされた時のお礼、まだちゃんともらってない気がするんだが?」
ああ、あの朝のことか。たしかに、シャロンには無理を言って診てもらったんだった。ちょっとした冗談めかした口調だったけれど、言われてみればそうだ。
「あはは、覚えてたんだ。ごめんごめん、バタバタしててすっかり」
私は苦笑しながら頭をかく。
「じゃあさ、今度の週末にでも、うちでお茶会でもどうかな? 私が何か美味しいもの、ご馳走するよ。アリスも、シャロンにお礼したいってきっと思うだろうしね」
私がそう提案すると、シャロンは少しだけ目を見開いて、それから楽しそうに頷いた。
「ほう、セラの手料理か。それは期待できそうだな。いいだろう、週末、楽しみにさせてもらうよ」
「うん。アリスも一緒に準備しようね」
私がアリスににっこり笑いかけると、アリスも「お茶会」という言葉に興味を持ったのか、ぱっと顔を輝かせて「……うん!」と力強く頷いてくれた。
「じゃあ、決まりだね。詳しい時間はまた後で連絡するよ」
「ああ、分かった。じゃあな、セラ、アリスも」
シャロンは軽く手を上げると、次の往診先があるのか、あるいは診療所に戻るのか、私たちに背を向けて歩き去って行った。
その背中を見送りながら、私は週末のお茶会に胸を弾ませる。アリスにとっても、きっと楽しい時間になるはずだ。