襲撃
少し開けた斜面に出た。見ると、そこは最近になって小規模な土砂崩れでもあったかのように、土や石が不自然に盛り上がり、いくつかの木が根元から傾いている。
おそらく、この下で水脈が塞がれてしまったのだろう。
「……ここみたいだね」
私は周囲の状況を素早く確認し、アリスに向き直る。
「アリスは、あそこの大きな木の陰で見ていてくれる? 何が起こるかわからないから」
「……うん。セラ、気をつけて……」
アリスは私の言葉に素直に頷き、心配そうに私を見つめながら、少し離れた安全そうな木のそばへと移動した。その小さな背中を見届けてから、私は再び問題の斜面へと意識を集中する。
深呼吸を一つ。体内の魔力を、ゆっくりと、でも確実に練り上げていく。
イメージするのは、この土砂の下を流れるはずだった水の通り道。そして、その流れを塞いでいる余計な土や石を、丁寧に取り除いていく作業。
力任せに吹き飛ばすのではなく。慎重に、確実に。
私はおもむろに両手を地面にかざす。
そして、練り上げた魔力を、目に見えない無数の細い触手のように地中へと伸ばしていくイメージを描いた。
「――開け、水の道」
静かに、でも確かな意志を込めて呟く。
私の思考に呼応して、魔力の触手が地中の土砂を少しずつ動かし始めた。ゴゴゴ……と、鈍い音が地響きと共に足元から伝わってくる。
額には、じわりと汗が滲んできた。魔力の精密な制御は、想像以上に集中力を使う。
土砂の抵抗は思ったよりも強かったけれど、私は焦らず、じっくりと魔力を送り込み続けた。土砂の隙間に魔力を浸透させ、その結合を緩め、少しずつ、少しずつ、水の通り道を確保していく。
どれくらいの時間が経っただろうか。
不意に、魔力を通していた指先に、ふっと抵抗が軽くなるのを感じた。そして、微かだけれど、確かに水の流れる気配が、私の魔力を伝って感じ取れたのだ。
「……よし、通った……!」
私は安堵の息をつき、地面から手を離す。少しだけ目眩がするけれど、問題ない範囲だ。
振り返ると、アリスが木の陰から心配そうにこちらを見ていたが、私の顔を見てほっとしたように表情を和らげ、駆け寄ってきた。
「セラ、大丈夫……?」
「うん、平気だよ。これで、また井戸に水が戻るはず」
私が笑顔で言うと、アリスも嬉しそうに微笑んでくれた。その笑顔を見ると、疲れも少し和らぐ気がする。
「さあ、村に戻ろうか。みんな、心配してるだろうしね」
私たちは手を繋ぎ、来た道を戻り始めた。少し日が傾き始め、森の中には夕暮れの気配が漂い始めている。
水の問題が解決して、少しだけ気持ちも軽くなっていた。その油断が良くなかったのかもしれない。
森を抜け、畑道に出ようとした、まさにその瞬間だった。
ガサッ!と、脇の茂みが大きく揺れ、そこから黒い影が猛然と飛び出してきたのだ。
「――っ!?」
それは、大きな牙を剥き出しにした、猪のような姿の獣だった。おそらく、この森に棲む獣だろう。鋭い爪と、血走った目が、明らかにこちらへの敵意を示している。
アリスが「きゃっ!」と小さな悲鳴を上げるのと同時に、私はアリスの身体をぐっと引き寄せ、自分の背後へと庇った。
「アリス、下がって!」
獣は低い唸り声を上げ、私たちとの間合いを詰めてくる。
時間がない。私は冷静に獣の動きを見据え、魔力を瞬間的に練り上げた。今度は、先ほどのような繊細な操作ではない。もっと直接的で、強力な一撃を。
「――穿てッ!」
短く、鋭く。
私の右手に凝縮された魔力が、不可視の槍となって獣へと放たれる。それは狙い違わず獣の肩口を捉え、獣はギャイン!という甲高い悲鳴を上げて数メートル後方へと吹き飛ばされた。
獣は地面に叩きつけられた後、すぐに体勢を立て直そうとしたが、肩からの出血と、私の魔法の威力に怯んだのだろう。私たちを威嚇するように一度だけ唸り声を上げると、すぐに森の奥へと姿を消してしまった。
「……ふぅ……」
私は短く息をつき、アリスの無事を確認する。
「大丈夫、アリス? 怪我はない?」
「……う、うん……。だ、大丈夫……」
アリスはまだ少し震えていたけれど、こくこくと必死に頷いた。その瞳は、驚きと恐怖、そして……さっき私が見せた魔法に対する、何か別の感情で揺れているように見えた。
「……よかった。さ、早く村に戻ろう。もう、こんなところで油断しちゃダメだね」
私は苦笑しながら言い、再びアリスの手をしっかりと握りしめる。
今度こそ、何事もなく村へ帰れるようにと願いながら、私たちは少しだけ早足で家路を急いだ。
***
村はずれの畑が見えてくると、井戸の周りにはまだ、先ほどの村人たちが心配そうに集まっているのが見えた。私たちの姿を認めると、その中の一人が井戸の釣瓶を勢いよく引き上げ、何かを確認したように、ぱあっと顔を輝かせた。
「おーい! 水が、水が戻ったぞーっ!」
その声に、他の村人たちも次々と井戸を覗き込み、やがて大きな歓声が上がった。どうやら、私たちが水脈の詰まりを取り除いたことで、無事に井戸の水が復活したらしい。
よかった……。私の胸にも、安堵の波が広がっていく。
私たちが井戸のそばまでたどり着くと、村人たちがわっと私たちを取り囲んだ。
「セラさん! 本当にありがとう! あんたのおかげだ!」
「助かったよぉ、セラさん! これで畑の野菜も、子供たちに飲ませる水も安心だ!」
「さすがは村の魔法士様だ!」
口々に寄せられる感謝の言葉に、私は少し照れくさくなってしまう。
「いえ、これが私の仕事ですから。皆さんが無事で何よりです」
そう答えるのが精一杯だった。でも、村の人たちの心からの笑顔を見ていると、魔法士として、この村の役に立てたんだな、というささやかな実感が湧いてきて、胸が温かくなる。
アリスは、そんな私と村人たちのやり取りを、私の少し後ろで、じっと静かに見つめていた。
しばらく村人たちと話した後、私たちはようやく解放され、夕暮れの道を二人で家へと向かった。
今日の出来事を思い返しながら、二人で黙って歩く。沈黙が、でも心地よかった。
家の明かりが遠くに見え始めた頃、不意に、アリスが私の服の袖を小さく引いた。
「……セラ……」
いつもより、ほんの少しだけ、しっかりとした声。
「うん? どうしたの、アリス」
私が隣のアリスに視線を向けると、アリスは少しだけ頬を赤らめながら、それでもまっすぐに私を見上げて、こう言ったのだ。
「……さっきの……井戸の時も、獣の時も……。セラ……すごく……かっこよかった」
アリスが、そんなことを言ってくれるなんて、思ってもみなかったから。
私は一瞬、言葉を失って、それから、じわじわと顔が熱くなるのを感じた。
「え……あ、そ、そうかな……? あはは……ありがとう、アリス」
なんだか、すごく照れくさい。でも、それ以上に、胸の奥がぽかぽかと温かくなっていくのが分かる。
魔法士として、村の人たちの役に立てたこと。それはもちろん嬉しい。でも、アリスに、こんな風に素直な言葉で褒めてもらえたことが、何よりも私の心をくすぐり、満たしてくれた。
うん、まんざらでもない。むしろ、すごく、すごく嬉しい。
アリスは、私の返事に満足したように、ふわりと優しい笑顔を見せてくれた。その笑顔は、今日見たどんな景色よりも、私の心に明るい光を灯してくれた気がする。
今日はいろいろなことがあったけれど……。
うん、悪くない一日だったかもしれないな。
そんなことを思いながら、私はアリスの手をもう一度ぎゅっと握り直し、我が家の温かい灯りへと、足を速めたのだった。