前任の魔法士
アリスが私の家で暮らし始めてから、早くも一週間が過ぎた。
最初は戸惑うことも多かったけれど、二人での生活にも少しずつ慣れてきたように思う。
今朝も、私が先に起きて朝食の準備を整えていると、アリスが寝室から静かに出てきた。まだ少し眠そうに目をこすりながらも、「……おはよう、セラ」と、小さな声で挨拶してくれる。
最初の頃は言葉少なだった彼女が、こうして毎朝声をかけてくれるようになったのは、私にとって嬉しい変化の一つだ。
「おはよう、アリス。よく眠れたみたいだね」
「……うん」
食卓では、私が少し焼きすぎてしまったパンケーキを見て、アリスがふふっ、と小さく息を漏らすように笑った。そんな些細な瞬間に、私の心も自然と温かくなるのを感じる。
食後の片付けも、アリスは自分から「手伝う」と言ってくれるようになった。お皿を運ぶ手つきはまだおぼつかないけれど、一生懸命なその姿は微笑ましい。アリスが自分でできることを見つけて、少しでも達成感を感じてくれたらいいなと思い、私はそっと見守ることにしている。
アリスの記憶については、残念ながら依然として手がかりは見つからないままだった。左腕の刻印も、見た目に変化はない。シャロンにも定期的に診てもらってはいるけれど、医学的な所見はないとのこと。役場や駐在所にも相談したが、今のところ進展はない。
……まあ、焦っても仕方がない。今は、この穏やかな日常を大切に過ごそう。そう思うようにしていた。
その日も、朝食を済ませて少し落ち着いた後、私はアリスを連れて村へ散歩に出ることにした。天気も良いし、家にばかりいるのも良くないだろう。アリスも、最近は外に出ることに前向きになってくれている。
「アリス、準備はいいかな? お散歩に行こうか」
「……うん!」
私の言葉に、アリスはぱっと顔を上げて、明るい声で頷いてくれた。
二人で手を繋いで家を出る。朝の澄んだ空気が、頬に心地よかった。すっかり霧は晴れ渡り、遠くの山々の緑も鮮やかに見える。
村の中を歩いていると、畑仕事に向かう人や、井戸端で立ち話をしている奥さんたち、元気に遊ぶ子供たちの姿が目に入った。
初めのうちは、私たちを少し遠巻きに見ていた村の人たちも、最近ではアリスの存在に慣れてきたのか、気さくに声をかけてくれる。
「やあ、セラ君。今日もその子と一緒だね。元気そうで何よりだ」
「セラちゃん、おはよう。アリスちゃんも、少し顔色が良くなったんじゃないかい?」
そういった温かい言葉に、私も笑顔で挨拶を返す。アリスはまだ自分から積極的に話すことはないけれど、私の隣で小さく頭を下げたり、村の人たちの言葉にこくりと頷いたりするようになった。子供たちに名前を呼ばれて、はにかみながらも嬉しそうな表情を見せることもある。
村の人たちの優しさに触れるたび、アリスがこのユスレ村に少しずつ受け入れられているのを感じて、私の胸も温かくなる。閉ざされていたアリスの心が、ゆっくりと解きほぐれていくような、そんな気がした。
そんな穏やかな変化を感じながら、私たちは村の中心部から少し外れた、緩やかな坂道をのんびりと歩いていた。この先には、村を見下ろせる小さな丘がある。今日はそこまで足を延ばしてみようか、と私がアリスに提案しようとした、ちょうどその時。
道の向こうから、杖をつきながらゆっくりと歩いてくる、見覚えのある人影が目に入ったのだった。
年の頃は七十代後半だろうか。白髪で痩身、背筋はしゃんと伸びているけれど、歩みはどこかおぼつかない。だが、その眼光は、いつも何かを見透かすように鋭い。
この村の前任魔法士、グレイさんだ。今は隠居の身で、村はずれの小さな家で静かに暮らしている。
「あ……グレイさん」
私が声をかけると、グレイさんはゆっくりと顔を上げ、私と、そして私の隣にいるアリスに気づいたようだ。ぴたり、と足を止める。
「こんにちは、グレイさん。お散歩ですか?」
「……ふん。セラか。……まあ、そんなところだ」
グレイさんは、ぶっきらぼうにそう答えると、その鋭い瞳をじっとアリスに向けた。アリスは途端に緊張した面持ちになり、私の服の裾をぎゅっと握りしめる。やっぱり、初対面の大人、それもグレイさんのような独特の雰囲気を持つ人は少し怖いのかもしれない。
「グレイさん、こちら、アリスです。少し前から、私のところで預かっているんです」
私はアリスの肩にそっと手を置きながら紹介する。アリスは私の背中に隠れるようにしながらも、ちらりとグレイさんの顔をうかがっている。
「ほう……」
グレイさんは杖に体重を預け、アリスを頭のてっぺんからつま先まで値踏みするように眺めた。その視線は、まるで何かを見定めようとしているかのようだ。しばらくの沈黙の後、グレイさんは小さく息を吐いた。
「……セラ、お前もまた、厄介そうなものを拾ってきたものだな」
その言葉には、呆れと、ほんの少しの皮肉が混じっている。グレイさんらしい言い方だ。
「えっと……この子、記憶がなくて……。どこから来たのかも、何も分からないんです」
私がそう説明すると、グレイさんの瞳が、わずかに光を宿したように見えた。
「記憶がない、とな……。ふむ」
グレイさんはアリスの左腕のあたりを一瞥した。偶然かもしれないけれど、あの刻印の存在に気づいたのだろうか。
今は引退したとはいえ、あの戦争の時代を生きた魔法士だ。何か感じ取るものがあったとしても不思議ではない。
「……まあ、儂には関係のないことだ。今の儂はただの隠居爺での。お前さんのような、現役の魔法士殿のお仕事に口を出すつもりはない」
そう言って、グレイさんは再び杖を手に、私たちに背を向けようとした。やっぱり、簡単には力を貸してくれそうにないか……。そう思った時、
「……だが」
グレイさんはふと足を止め、肩越しにこちらを振り返った。
「……その娘、何か妙なものを感じさせよる。ただの記憶喪失ではなさそうだ。……万が一、本当に手に負えんようなことになったら、まあ、話くらいは聞いてやらんこともない」
その言葉は、相変わらずぶっきらぼうだったけれど、そこには確かに、気遣いのようなものが感じられた。
「……いいのですか?」
「儂の気が変わらんうちにな。……セラ、あまり一人で抱え込むなよ。そのお人好しは、いつか身を滅ぼすぞ」
そう言い残すと、グレイさんは今度こそゆっくりと杖をつきながら、坂道を下って行ってしまった。
その背中を見送りながら、私はグレイさんの言葉を反芻する。
「妙なものを感じさせる」「ただの記憶喪失ではなさそうだ」……。やっぱり、アリスは何か特別な事情を抱えているのだろうか。
隣を見ると、アリスはまだ少し緊張した様子で、グレイさんが去って行った方を見つめていた。
「……大丈夫だよ、アリス。グレイさんは、ちょっと言葉は厳しいけど、悪い人じゃないから」
私がそう声をかけると、アリスはこくりと頷き、でも何かを考えているように、その深い藍色の瞳を揺らしていた。