霧の朝、出会い
目を開けると、やわらかな朝の日差しが窓から差し込んでいた。
壁の時計に目をやると、針は予定通りの時刻を指している。
ここに来て半年。規則正しい生活は、もうすっかり身体に染みついていた。
布団からそろそろと起き上がると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。
窓の外は今日も深い霧。白く静かな、この村らしい朝だ。
昨夜用意しておいた仕事用の服へと手早く着替える。
寝室の扉を開けてリビングへと向かい、壁のスイッチを押すと、まだ薄明るい部屋に温かな光が灯った。
さて、今日の朝食は何にしようか。
そんなことを、まだ少しぼんやりとする頭で考えていた、その時。
ふと、玄関の方角から妙な気配を感じ取った。
なんだ……?
かすかな人の気配と、混じり合う魔法の気配。
眉をひそめる。間違いない。
眠気の残る頭を叱咤して、意識をそちらへ集中させる。
気配は変わらない。抑えきれずに漏れ出ているような、妙な気配だった。
私は警戒しつつ、玄関のほうへ静かに足をすすめる。
ドアに手をかけ、音を立てないように注意しながら、わずかに隙間を開けた。
隙間からは、冷気と共に深い霧が流れ込んでくる。
そして、足元に目を下ろした瞬間、息をのんだ。
「これは……?」
思わず声が漏れる。
私はためらわずに扉を開け放った。
そこには、小さな女の子が倒れていた。
冷たい石畳の上に、小さく丸まって。
薄い簡素な白い服だけを身にまとっている。
「あなた、大丈夫!?」
慌ててそばにしゃがみこみ、声をかける。
けれど、少女は目を閉じたまま動かない。返事はない。
とっさに口元に手を差し出す。……か細いけれど、呼吸はある。よかった。
何がどうなっているのか分からない。
けれど、今は一刻も早くこの子を温かい場所へ運ばなければ。
私は少女の背中と膝裏に手を滑り込ませ、慎重に抱き上げる。
腕の中の身体は、驚くほど軽かった。
「……大丈夫。もう大丈夫だからね」
そう声をかけながら、急いで家の中へ戻る。
寝室のベッドにそっと横たえ、すぐに手をかざした。
手のひらの先に意識を集中させる。
赤く温かな光の粒子が集まり、少女の身体へと広がっていく。
簡単な保温魔法だ。熱すぎないよう慎重に温度をイメージし、魔力を送る。
しばらくして、少女の頬にうっすらと赤みが戻ったのを確認する。
ほっと息をつき、魔法を解除した。毛布を肩までしっかりとかけてあげる。
いったんは大丈夫そうだ。とはいえ……。
「……仕方ない。シャロンを呼ぶしか……」
ぽつり、とため息混じりにつぶやく。
友人の不機嫌そうな顔を思い浮かべながら。
***
約20分後、ドアのチャイムが鳴った。
私は少し申し訳ない気持ちで扉を開ける。
「おはよう。……まだ頭は半分寝てるんだけど」
そこには、大きな医療カバンを肩にかけた、銀髪の女性が立っていた。
「本当にごめんね、シャロン。朝早くから」
「まぁ、いいよ。どうせ起こされるなら早い方がマシだし」
口ではそう言いつつも、彼女は状況を察してくれているようだ。
「それより、早く診せて。緊急事態なんでしょ?」
おじゃまするよ、と彼女――シャロンは室内へ足を踏み入れる。
「それで、患者は?」
「あっち、私の部屋」
私が指さすと、シャロンは寝室へと直行した。
ベッドの少女を一瞥し、すぐにカバンから手早く道具を取り出す。
中には見慣れた聴診器から、何に使うのか見当もつかない機械まで様々だ。
シャロンはこの村に派遣されている、腕利きの診療医だ。
「とりあえず、診てみようか」
シャロンはそう言うと、少しごついフレームの眼鏡をコートの内ポケットから取り出して装着した。
それは単純な視力矯正用の眼鏡じゃない。
普段なら気が付かないような微細な変化や、身体の内部の状態までもある程度把握できる、特殊な医療用の『感覚増幅メガネ』なんだと、前に本人が少しだけ自慢げに教えてくれたことがあった。
シャロンはてきぱきと診察を進めていく。聴診器を当て、頭部の様子を見る。
そして、シャロンの白い指先が、少女のこれまた白い左腕をそっとなぞった、その時だった。
シャロンの動きがぴたり、と止まる。そして、後ろで見守っていた私に、ちらりと目配せした。
「ねぇ、セラ。これ、何かわかる?」
シャロンの手が止まったところに、私も注意深く視線を向ける。
少女の白い、ほとんど血の気を感じさせない左腕。その内側に、痣のようなものが見えた。
いや、これは……痣じゃない。複雑で、人工的な模様……?
「おそらく、ただの傷とかじゃないと思うけど」
「……魔法陣、あるいは何らかの術式が刻まれた跡、かな」
私の言葉に、シャロンは小さく頷く。
視線を凝らすと、そこからは微かに、朝感じたものと同じ魔法の気配がした。
ただ、この気配だけでは、これがどんな術式なのか、今の私には判断できない。
「これはちょっと専門外だな」
シャロンは左腕を毛布の中に戻し、診察を再開する。
しばらくして、眼鏡をはずし、息をついた。
「うん。外傷とか、他に目立った異常はないね。状況から考えて、冷え込みで衰弱していたんだろう」
「そっか……」
「まあ、しばらく安静にしていれば目を覚ますだろう。そこまでは待つしかないな」
シャロンは道具をカバンにしまい、立ち上がる。
「念のため、起きて落ち着いたら、診療所まで一度見せに来てくれる?」
「うん、わかった」
「それと……その時には、早朝呼び出し分の、とびきり美味しい土産もよろしく」
ちゃっかり付け加えるあたり、彼女らしい。
「はは……。もちろんだよ」
苦笑しながら玄関までシャロンを見送る。
扉が閉まる音を聞いて、ようやくふぅ、と息をついた。
寝室をそっと覗くと、少女はまだ静かに眠っている。静かな寝息に少し安堵する。
「……おなかすいたな……」
そういえば、起きてから何も食べていないんだった。
私は空腹を覚えたお腹をさすりながら、キッチンへと向かう。
今日もまた、私の魔法士としての一日が、こうして予想外の形で始まったのだった。