#02 推し活女帝
時刻は、10時50分。
地下施設全体に、クリアな館内放送が響く。
何事かと作業中の兵士たちが顔を上げる中、威厳ある女性の声が場を支配する。
「諸君、いつもご苦労だね。私だよ、『悪の女帝ジョカ』だ。」
その一言で、すべての動きが止まった。
指示待ちの戦闘班、調整中のドローン班、食堂の配膳ロボまでもが——
息をひそめるように静まり返る。
「現地時間11時。『Running DEAD』の新シーズン初回放送がある。
全員、もれなく視聴するように。」
落ち着いた声色で淡々と告げるのは、株式会社・悪の組織のボス、ジョカ。
館内が一瞬ざわついた。
続けて、変わらぬテンションで女帝の命令は下される。
「それに伴い、11時より業務停止。視聴方法は各自に任せる。
——なお、視聴後にはA4サイズのレポートを最低1枚提出すること。期限は24時間以内。以上。」
それに被さるように、無機質な男性の声が響いた。
「本件は正式命令です。
放送に遅れぬよう、各自配置を解いてください。」
ザワ……ザワ……
「え、またレポートあるのかよ……」
「ってか前のシーズン復習してねぇ……」
「録画……してたっけ……?」
慌ただしく動き出す職員たち。
その中で、古株たちは静かに肩を落とす。
「……あぁ、またか。」
「女帝の推し活、今年も始まったな……」
「初回2話連続、地獄だぞ……前回12ページ書いたからな、俺……」
***
業務終了の報せを受け、
山田はざわめく廊下をまっすぐ歩いていた。
向かう先は、防犯モニターのある警備室。
警備部も当然手薄になる。
警備室ではすでに警備班の職員たちが、最終チェックに入っていた。
録画、カメラ起動、警報連動システムの整備——。
この部署だけは“事前告知あり”だったのだ。
理由はひとつ。
2話分、計約2時間の空白時間に、誰かが警戒に当たらねばならない。
引き継ぎを受けた山田は、警備室の意外と座り心地の良い椅子に腰を下ろす。
ふぅ、と息を吐き、背伸びをひとつ。
静かな時間。
久しぶりの、ひとりきりの空間。
スマホで視聴アプリを起動し、イヤホンを差し込む。
(……あとは、何事もなく、2時間が過ぎてくれればいい)
——バーーーーーーーーーーン!
静寂は、長くは続かなかった。
警備室のドアが勢いよく蹴り開けられ、
ノースが片手にマチェーテをぶら下げながら、ずかずかと入ってくる。
「ジョカ様に追い出されちゃったわぁ〜」
その言葉に、山田はがくーんと肩を落とした。
(……嫌な予感はしてた。なぜ来る。なぜここに来る)
ノースは空いている椅子にドカッと座り、ぐるぐると椅子ごと回る。
「なぁミゲル〜、一緒に観ようぜぇ〜?
俺様んとこ、テレビのリモコン行方不明でさぁ〜」
軽く虚無の中で、山田は無感情に答える。
「あなたが踏んで壊しただけでしょう。
……というか、足でドアを開けるのをやめてください」
ノースはポケットの奥から、くしゃくしゃに絡まったイヤホンを取り出した。
見るからに年季が入っており、コードはよれて硬くなり、片方のイヤホンは布が剥げかけている。
「おっ、片耳しか使えねぇけど……ま、いっか。
ミゲルの分は……いいよな?」
——問うより先に、答えを決めた声。
当然のように右耳へイヤホンを突っ込み、ノースはスマホをタップする。
再生と同時に、警備室に無遠慮な声が響いた。
「うおっっ、始まったじゃん!!
えっ、待って待って、いきなりゾンビ出んの!? マジで!?」
その声は、想像の三倍デカかった。
薄暗い警備室に張りつめていた静けさは、ノースの一声で木っ端微塵に吹き飛ぶ。
防犯モニターの電子音がかき消され、
遠くの空調音すら消えたような錯覚が起きるほどだった。
山田は、手元のスマホを伏せた。
目元が、ピクリとわずかに動いたのが、唯一の感情の表出だった。
「……イヤホンをつけていても、声量は調整してください」
静かなトーンだったが、その声音には確かな怒気と呆れが滲んでいた。
「あ? ごめんごめん、ついな!」
ノースは笑いながら、マチェーテの柄をくるりと回す。
椅子に足をかけ、背もたれに全体重を預けてふんぞり返ると、
まるで自室のようにリラックスし始めた。
「でさぁ、この髭の兄ちゃんがジョカ様の推しだったっけ?
バイク乗って犬連れてて、黙ってるタイプの」
山田は頷いた。
「そうです。リードです」
(話しかけられた以上は答えるけど、どうかもう黙ってくれ)
山田の心の声は、顔に出ていたが、ノースはまったく気付かない。
「なぁ〜んか、俺様の方がかっこよくね? 獲物マチェーテだし。
って言ったら——」
「口が裂けてもやめてください」
山田の言葉は、壁のように鋭く、速く、ノースのセリフを断ち切った。
ただでさえ一人の時間を邪魔されたイライラが、
ノースの馬鹿みたいに能天気な声で、さらに加速される。
(……せめて、静かに終わってくれ)
祈るような思いで画面に視線を戻した、その瞬間——
――ヴァンッ、ヴァンッ、ヴァンッ!!
甲高いアラート音が、警備室中に鳴り響いた。
非常警報だ。
施設外のどこかで、不測の事態が発生した合図。
「くっ……」
山田が即座に立ち上がると、ノースもイヤホンを外し、きょとんとした顔で振り返った。
「え、なんか鳴った?」
「非常アラームです。……切ります」
山田は素早く端末を操作し、サイレンを一時停止。すぐに監視モニターに切り替える。
外堀を映す防犯カメラが複数のウィンドウに並ぶ。
そのうちの一つに、不審な影が映っていた。
「……ドローン、か」
「おいおい、マジのやつか? なーんか面白くなってきたなぁ〜」
ノースが楽しそうにモニターを覗き込んでくる。
「はしゃがないでください。……行きますよ」
山田はイヤホンを外し、ライフルを手に取る。
「おう! じゃあ音声だけ聞きながら行こーぜ!」
そう言いながら、ノースは片耳にイヤホンを戻す。
ゾンビドラマのセリフが漏れ聞こえてきた。
山田は、もはや呆れを通り越して何も言えなかった。
突っぱねる時間さえ惜しい。
「……音声だけですからね」
自分もイヤホンを片耳に差し、モニターを睨みつける。
(……相手が誰であれ、ここは“我々の城”だ)
「……行きましょう。静かに、迅速に」
「オッケ〜! 音声オンのまま潜入、っと!」
非常警報の余韻がまだ頭に残る中、二人の影が警備室を後にする。
耳に響くゾンビのうめき声と、ノースのひそひそ実況をBGMにしながら——。
***
施設裏手、夕暮れに染まる古びた公園。
人工滝が静かに水を落とし、風に揺れる木々の葉が、さらさらと音を立てている。
人気のない、公園としてはもはや忘れ去られたような一角だ。
その木立の陰、腐りかけた木製の管理小屋の裏から、
カコンと金属の音を立てて、小さなハッチが開いた。
黒いスーツに身を包んだ男——山田が、音もなく飛び出す。
そのすぐ後ろから、マチェーテを背負った野犬のような男——ノースが、のろのろと這い出てきた。
「ふう……風が涼しくなってきましたね」
山田は軽く周囲を見渡し、滝に背を向ける位置へと移動した。
夕焼けを受けた眼鏡のレンズが、光を反射する。
一方のノースは、片耳にイヤホンを差し込んだまま、まだスマホの画面に夢中だった。
「おっ、さっきのゾンビまだ生きてた! ……ってか超グロいな、今回!」
まったく警戒する気配がない。
だがその時——
ヴォン……ヴォン……。空気を切り裂くような機械音。
すぐ近くの上空、木の間から小型ドローンがゆっくりと降りてきた。
(来た……)
山田が反射的にコートの内側へと手を伸ばし、ライフルのグリップに指をかけた、その瞬間——
ヒュッ。
ノースは視線をスマホから外さないまま、軽く首を傾け、体をひと捻り。
ドローンのローターが髪先をかすめる直前、無造作に避け、
さらに自然な流れで片手でドローンを掴み取った。
まったく前を見ていない。
反射神経だけで、まるで虫でも払うような軽さだった。
「ん? なんか通った?」
呑気な声に、山田は無言のままため息を吐く。
背後でライフルをスッと隠すと、端末を取り出して素早く操作を始めた。
偵察ドローンにしては挙動が不安定すぎる。
あっさり捕まった時点で、その疑念は確信に変わっていた。
——数秒後、遠くからのんびりとした声が聞こえてくる。
「あっ、すみませんっ! そっちにドローンが行きませんでしたか……?
子どもが遊んでたんですが、風に流されちゃって……!」
山田はさっと営業スマイルを張り付ける。だが、当然目は笑っていない。
「こちらですね。
この辺りは飛行禁止区域ですので、お気をつけください」
「は、はい……ありがとうございます……っ!」
ドローンを返し、何もなかったような顔でノースの隣へ戻る。
「……どうやら、ただの迷子ドローンだったようですね。
施設外の警報は解除。内部記録は残しておきましょう」
「ふーん? じゃあもう戻るー?」
ノースはスマホの再生ボタンをタップしながら、くるりと踵を返す。
画面には、ゾンビに噛まれそうになって逃げ惑うキャラクターたち。
「なぁミゲル、さっきの場面さ〜、脳みそ飛んだとこマジやばくてさ〜……」
「…… “音声だけ”って言ったの、誰でしたっけ?」
「……え? あ、俺様?」
「もう黙ってください。死ねばいいのに」
「おうおう、お前の優しさがしみるわぁ!」
夕焼けに染まる公園。
人工滝の向こうへ、ふたりの背中がゆっくりと歩いていく。