【#00】ようこそ、株式会社・悪の組織へ
都会の喧騒。
所詮、そういう“雰囲気”の中にある路地の一角。
何の変哲もない雑居ビルに、特に目立たないよくあるバーのドア。
男が一人、その前でドアノブを握り、ためらっている。
背中を冷たい汗が伝い、心臓の鼓動が頭蓋骨の中で共鳴しているようだった。
意を決してドアを開けると、薄暗い店内から甘い酒の匂いが漂ってきた。
その香りは不快ではないにしろ、怪しいほどの空気に満ちていた。
男は誘い込まれるように、一歩、また一歩と中へ入っていく。
「入りたいんです!」
男の声は決して大きくなかったが、それでも店内にしっかりと響いた。
「面接希望者ですね。こちらのエントリーシートにご記入をお願いします」
スーツ姿で、髪型もビシッと整えた眼鏡の男が、営業スマイルそのままに用紙を差し出す。
まるで一流企業の受付係のようだ。話し方も丁寧で、手慣れている。
「え……?」
困惑した表情のまま、男は促されるままにバーカウンターで用紙に向き合う。
差し出されたペンをぎこちなく握り、用紙に目を通す。
その視界の端で、マスターが氷入りの透明な液体をグラスに注ぎ、そっと彼のそばに置いた。
少し身構える男に、眼鏡のスーツ男が言う。
「ご安心ください。ただの水です。面接の前に喉を潤しておくのが当社の基本マナーです」
スーツ男は爽やかに微笑む。
その佇まいは、どこにでもいそうなエリートサラリーマンだった。
「ありがとうございます……」
男が戸惑いながらも礼を言うと、スーツ男はその場で用紙を確認し、ふむふむと目を上下させてから、奥の人物へと渡す。
——闇に慣れた視界の中、少し高級そうなソファに座った人物が見えた。
真っ赤なドレスをまとい、すらっとした足を組む女性。
「へぇ、なかなかおもしろい経歴だね。で、どうしてうちに?」
ゆったりとした艶のある声。落ち着いているのに、なぜか威圧感がある。
「世界征服をしたいんです!」
「ふふっ、いいじゃないか。気に入ったよ」
「ようこそ、『株式会社・悪の組織』へ」
「えっ? 株式会社?!」
女性が「山田」と短く呼ぶと、スーツ男はすぐに冊子を差し出した。
「はい、こちらが福利厚生等のご案内です。ご一読ください」
男が受け取るのを確認してから、山田は淡々と、しかし丁寧に語り始める。
「それでは、2ページをご覧ください。
『真面目に 正しく 世界征服』
これが我が社の社訓です。必ず記憶してください。
万が一覚えられない場合は、社割でタトゥーを入れられますので、お気軽にどうぞ。
次に、勤務体系についてご説明します。
基本は8時30分から17時までの7時間半勤務。
昼休憩は1時間、基本的に12時から13時ですが、現場状況により変動します。
月1回の夜勤あり。完全週休二日制、祝日も休みとなります。
寮完備(全室個室)、専用ジム・訓練施設使い放題。
医療施設もあり、女医常駐。
なお、こちらのバーも割引で利用可能です」
一息で説明を終えると、山田は眼鏡をくいっと上げてにこやかに微笑んだ。
「では、こちらの誓約書にサインをお願いします」
男が署名を終えるころ、背後にもう一人の男が立っていた。
「やあやあ、わが社にいらっしゃい」
にこやかな男は山田と同じくスーツ姿だが、ネクタイはしておらず、シャツははだけ、ジャケットは皺だらけ。
その上、歯は牙のように鋭い。
フレンドリーに肩へ手を置き、顔をにじり寄せる。
痛んだ癖毛が、男の頬をかすめた。
「裏切ったらさ、死んだほうがマシだったなって思えるくらいの目にあわせっからな」
汗を伝わせながら振り返ると、山田も同じ営業スマイルでこちらを見ていた。
——こうして、“世界征服”は始まった。