後編
どうやって家まで帰り着いたのか、思い出せなかった。
気が付いたら自宅の2階にある薄暗い電気のついた自室で、ベッドの上に乗ってひざを抱えていた。冬も真っ只中だというのにエアコンもつけず、イアーマフと手袋こそ脱いだものの兄貴のジャケットも着たまま、兄貴が巻いてくれたマフラーも首を覆ったままの状態だった。
あれから何時間たったのだろう。両親も不在らしく、家の中は閑散としている。
兄貴はどうしただろう。本当に警察に自首したのか。今頃警察で事情聴取でも受けているだろうか。両親がまた帰ってこないのは、ひょっとして兄貴の件で警察に呼び出されているせいなのか?
俺の軽率な行動のせいで、兄貴の一生を滅茶苦茶にしてしまった。今更のように空恐ろしさが腹の底から湧き出てきて、首のマフラーをぎゅっと握った。
その手触りで気がついた。このマフラーは、よもや手編みの代物ではないだろうか? 首から外して、両手で広げてみる。既製品とは違う質感、間違いなく手編みだった。誰かが兄貴にプレゼントしたものだろうか。
真衣さんしかいない、と思った。兄貴の高校の同級生で、恋人でもある女性だ。兄貴は真衣さんから贈られたマフラーを、俺に巻いてくれたのか。
色白で姿がスラリとして、長い黒髪がよく似合う美しい女だった。何度か家にきたことがあったが、その楚々とした立ち居振る舞いが俺の眼にはとても新鮮に映った。進学校の女性徒というのはこうも違うものか、と内心僻みまじりに思った。俺の高校にウヨウヨと蠢いている下品で羞恥心を母親の胎内に置き忘れてきたような女子どもとは、雲泥の差だった。
俺が彼女への恋に落ちるまで、さして時間はかからなかった。兄貴の彼女と知っていながら――いや、兄貴の彼女だからこそ、奪ってやりたいという邪な対抗意識が芽生えたのかもしれない。
真衣さんに恋文を書いた。手書きのラブレターだ。ペンで手紙を書く習慣など全くない俺は、一枚の便箋を埋めるために徹夜で四苦八苦する羽目になった。それでもどうにか自分の気持ちを下手な文章にしたため、兄貴に連れられ家にきていた彼女の鞄にこっそりと忍びこませた。
一週間後、真衣さんがまた我が家を訪れた。兄貴は不在だったが、彼女は俺に用があるといった。
「ごめんなさい」
その至極当たり前な返事を伝えるために、わざわざ来てくれたのだった。俺はショックを受けるよりも、そんな彼女の律儀さに感心した。
俺は真衣さんに尋ねた。
「このことは、兄貴は……」
「もちろん知らないわ。言えるはずないでしょ? これからも2人だけの秘密よ」
そう言って人差し指を口の前に立てる真衣さんに、俺はこくこくと頷くことしかできなかった。彼女と秘密を共有できたことに、愚かしい喜びをおぼえていた。
今考えればこの行動は、明確な兄貴への裏切りだ。その当時は恋の熱に浮かされていてそんなことにはまるで思いが至らなかったのだが、先刻兄貴が俺の身代わりを買って出てくれてから、急速に罪悪感が沸いてきたのだった。
兄貴が人身事故を、それもひき逃げを起こしたと真衣さんが聞いたら、何と思うだろう。悔しいが2人は、俺の眼から見ても似合いのカップルだった。両者とも穏やかで理知的で、喧嘩をするところなど一度もみたことがない。それを……
そこまで考えをめぐらせて、ふと思い出したことがある。つい昨日のことだ。
兄貴の部屋は俺の部屋と隣接しているのだが、昨夜俺が自室で寝転んでいると、隣室から兄貴の声が聞こえてきた。まさか大声で独り言を叫ぶような趣味は兄貴にはないだろうから、電話で誰かと話しているのだろうと思った。声は最初壁に遮られ、くぐもってほとんど聞き取れなかったが、やがて大音量の金切り声が響いてきた。
「何で黙ってたんだ!」
「いいからそれを持ってこい!」
はっきり聞き取れたのはその2語だけだった。どちらも間違いなく、兄貴が発した声だ。普段温厚な兄貴が、そんな粗雑な物言いで怒鳴るなんてめずらしいこともあるものだ。その時の俺はちょっと驚いただけで、それ以上深くは考えなかったが……
今改めて振り返れば、昨夜兄貴が電話をかけていた相手は真衣さんだったのではないか? そして兄貴は、俺が真衣さんに送った恋文のことを問い詰めていたのではなかったか。何らかのきっかけで、兄貴は俺の恋文の存在を知ってしまった。「弟から恋文をもらったことを何で黙ってた」「いいからその恋文を持ってこい、そして俺にみせてみろ」あの2語の金切り声は、そういう意味のものではなかったか。
兄貴は潔癖なタチだ。自室の壁に滲み1つでも見つけたら、我慢できず洗剤を駆使してでも拭き取らずにはいられない性格だ。もし自分の彼女が弟から恋文をもらい、しかもそのことを自分に隠していたのだと知ろうものなら、なるほど激高しても無理はないかもしれない。
だとしたら何てことだ、俺の書いた恋文が兄貴と真衣さんの関係に亀裂を生じさせてしまうとは! 昨日までの俺だったら「これで自分にもチャンスが巡ってきた」とほくそ笑んだかもしれないが、兄貴の自己犠牲によって救われた今はひたすら申し訳なく思うばかりだ。兄貴だけでなく、真衣さんにもすまないことをしてしまった。
……待てよ? ふと脳裏に、違和感が芽生えた。
上に書いたように、兄貴は潔癖な人間だ。潔癖症の域に達していると言っても過言ではない。そんな兄貴が、自分の経歴に「人身事故を起こした」などという汚点が残ることを、我慢できるものだろうか。こんな愚弟を庇うという、ただそれだけの理由で?
考えすぎかもしれない。単に瑕疵を厭う気持ちより、俺を守りたい気持ちの方が勝っただけなのかもしれない。それでも一度生まれた疑念は、頭の中にベタベタと粘りついて取れない。
バカな、だったらさっきの兄貴の行動は一体何だったんだ。お前の不信は、何ら根拠のないものだぞ。俺は頭をブンブン振りながら、自分にそう言い聞かせる。
思考が混濁していた。気を紛らわそうと、部屋に備え付けのテレビにスイッチを入れた。ちょうど地方ニュースが流れていた。画面右上に「6:57」と表示されており、現在時刻が午後6時57分だとはじめて気づいた。
女性キャスターがニュースを読み上げる。
「次のニュースです。本日午後4時頃、A市を流れるK川の河川敷で、女性の遺体が発見されました。遺体には首を絞められた痕があり、警察は殺人事件と断定。現場に残されていた所有物などから、女性は市内の高校に通う臨東真衣さん18歳とみられています。遺体は高架橋の下に遺棄されており……」
え、と俺は声をあげてしまった。臨東真衣……真衣さんのフルネームではないか。
続いて発見場所の河川敷を空撮した映像が映し出され、画面右下に制服を来た被害女性の胸から上の写真があらわれる。現場となった高架橋下は、先ほど俺と兄貴が落ち合った廃工場から歩いて10分もかからない距離にある所だ。そして右下に映った女性の顔は、紛れもなく兄貴の恋人のものだった。胸元だけみえる制服も間違いなく兄貴たちが通う高校のそれだ。
頭が真っ白になった。悲しみとか憤りを感じる以前に、ただただ困惑する。真衣さんが殺された? 一体誰に? なぜ?
ふと兄貴の顔が浮かんだ。真衣さんからもらった手編みのマフラーをつけていた兄貴。昨夜電話で真衣さんに手紙を持ってくるよう怒鳴りつけていた兄貴。
ひょっとして今日、兄貴は真衣さんと会っていたのでは……
ドタドタと複数人が階段を昇ってくる音が聞こえた。両親が帰ってきたのかと一瞬思ったが、それにしては慌ただしすぎる。それに響いてくる足音は3人分だった。
俺の部屋の扉が勢いよく開かれ、見知らぬ3人が俺の許可も待たず入ってきた。1人はメガネをかけた小柄な女性で、顔にまだあどけなさが残っている。その女性のやや後方から、長身のいかつい男が2人付き従っていた。全員スーツを着用している。
「な、なんだあんたたちは!?」
俺が詰問すると女性は胸元から手帳を出し、俺の前で広げて見せた。そこに描かれたマークをみて俺は目を見開く。
「警察手帳……警察!?」
「臨東真衣さんが殺害されたことはご存知ですね。重要参考人として、署までご同行を願います」
前置きもなくそう告げられた。
重要参考人って……それ、容疑者ってことか!?
「ちょっと待ってくれ、あんたたちは俺が真衣さんを殺したと疑ってるのか」
「まあ、平たく言えばそうなるわけ」
女性警官はサバサバした性格らしく、あっさり認めた。彼女の部下と思しき男2人が、後ろでハラハラしている。
「い、一体何を根拠に……」
「被害者の死亡推定時刻、つまり実際に犯行がなされたと思しき頃に、現場近くであなたの姿が目撃されているのよ。ネズミ色のジャケットに黒のスラックス……服装もちょうど今、あなたが着ているような装いだったと聞いているわ」
衝撃のあまり、一瞬言葉を失う。違う、そいつは俺じゃない。
「そ、それは兄貴だよ。俺じゃなくて、俺の兄貴だ!」
「お兄さん?」
「そうだ、双子の兄貴だ。警察なら俺たちが双子だってことくらい、とっくに調べがついてんだろ?」
「そりゃまあね」
「俺と見た目がそっくりだし、何より兄貴は真衣さんと付き合ってたんだ。俺より兄貴の方をまず疑うべき……」
「残念だけど、それはあり得ないわ。現場付近で目撃されたのが、お兄さんであるはずないの」
女刑事は断言した。
「な、何でだよ!」
「犯行があった時刻と前後して、お兄さんはB市の交差点で人身事故を起こしている。横断歩道の信号を無視して人を跳ねて、しかもそのまま逃走したの。さっきA市の警察署に自首してきたわ、野次馬に顔を見られていたし車のナンバーも動画に録られていた、逃げ切らないと判断したのね。決して褒められたことじゃないけど、この場合皮肉にも事故を起こしたことが彼のアリバイを証明することになったのよ。ひき逃げ事故があったのは今日の午後1時30分ごろ、臨東真衣さんの死亡推定時刻は午後1時から午後2時にかけて。そして事故現場から遺体が発見された河川敷には、車でどんなに急いでも1時間半はかかるのだもの」
脳髄に稲妻が落ちた、そんな気がした。
今、すべてがわかった。何故兄貴が俺の身代わりとなり、事故の責任を引き受けてくれたのか。弟を庇うためではなかった、ひき逃げ事故を自分が起こしたことにして、真衣さん殺害へのアリバイを用意したかったのだ。言うまでもなく交通事故より殺人の方が、罪は遥かに重い。兄貴は殺人という大きな滲みを己の経歴から抹消し、代わりにひき逃げというより小さな滲みで済ます道を選択したのだ。
殺人の滲みの方を、弟の俺になすりつけることで!
「遺体の手にはあなたが真衣さんに送った手紙が握られていたわ。あなたはお兄さんの恋人に横恋慕してラブレターを書き、真衣さんを河川敷に呼び出して渡した。でも真衣さんに振られてしまった。あなたは逆上して思わず真衣さんを絞め殺してしまったけど、我に返ると怖くなって遺体をそのままほっぽりだして逃げ出した……真相はざっとこんなとこでしょ?」
違う、全然違う。女刑事の推測は何もかも的外れだ。
真衣さんを河川敷に呼び出したのは兄貴だ。昨日電話で怒鳴っていたとおり、俺が送った恋文について詰問するためだ。午後1時30分頃、真衣さんは兄貴に指示されたとおり俺が書いた恋文を持って呼び出し場所の河川敷に行った。渡された恋文を眼にした途端兄貴が逆上したのか、それとも色々詰問する内に沸点を越えたのか、それはわからない。いずれにせよ真衣さんを殺してしまったのは、ものの弾みだったのだろう。これが計画殺人だったとすれば、あまりにも短絡的かつ杜撰すぎる。
兄貴も殺害直後はどうすればいいかわからず茫然としたはずだ。そんな時、僥倖が降ってくる。間抜けな出来損ないの弟――自分と瓜二つの双子の弟が、自分の車を勝手に運転して隣市でひき逃げを犯してしまったと電話してきたのだ。自分が恋人を衝動的に殺してしまった、ほぼ同じ時刻に!
兄貴にはこの電話が、地獄に垂れてきた蜘蛛の糸にも思えたことだろう。この偶然を利用すれば、自分は助かるかもしれない。自分に頼り切っている弟から事故の詳細――時間も場所も――を聞き出した兄貴は、すぐに計画を巡らす。真衣さんの遺体に俺が書いた恋文を握らせ、堂々と現場を去る。敢えて見つかりやすいように遺体を放置していたのは、なるべく早く発見されて正確な死亡推定時刻を導き出してもらうためだ。意図的に自分の姿を人目にもさらす。そうして弟と落ち合い、身代わりに自分がひき逃げの罪を被ると提案する。運転していたのは自分だということにする為に弟と服まで交換して――つまり弟に真衣さん殺害時の服を着せることにまんまと成功して、自分は警察に自首して鉄壁のアリバイを得る……
大体以上が、兄貴がとった行動の全貌だ。これが真相だと、俺だけが知っている。だが同時に、それを他人に信じてもらうのがどんなに困難かもわかっていた。
「う、運転していたのは俺だ、兄貴じゃない。逆に真衣さんに会っていたのは兄貴だ、全く逆なんだ……」
弱々しく最後の抗弁を試みる俺を女刑事が鼻で笑った。
「免許も持っていないあなたが、たまたま殺人があった時間にお兄さんの車を運転していたというの? しかも自宅から2時間近くもかかるB市の交差点まで? それはちょっと筋が通らないでしょう。それに被害者はあなたが書いた手紙を握っていたのよ、あなたが彼女を呼び出してその場で手紙を渡した、以外にどう解釈しろというの。何なら筆跡鑑定でもしてみる?」
女刑事の言うことはもっともだ。誰がどう考えても、そう解釈するのが自然だ。俺が本当のことをどれだけ訴えたところで、苦し紛れの作り話としか思われないだろう。
「そこまで自分が無実だと主張するのなら、そのマフラーを渡してもらいましょうか」
「ま、マフラーだって?」
「ええ、被害者は首を絞められて殺されていた。首に残った痕から、どうやら手編みのマフラーのようなもので絞められたらしいわ。そう、あなたが今手に持っている、そのマフラーみたいなものでね」
俺を労るようにマフラーを巻いてくれた兄貴の姿を思い出し、戦慄した。
あの時、兄貴は手袋をはめたままだった。おかしいではないか。その直前、俺と服装を交換するために車内で着替えたばかりだったが、服を着替える際は手袋をしたままではやりづらくて仕方ないはずだ。一度手袋を外したなら着替え終わった後、すぐにまたはめたことになる。だがあの時兄貴が後部座席から外に出たのは、運転席に乗り換えるためだった。すぐに車を発進させるつもりなら、結局ハンドルを握るためにまた手袋を脱がねばならない。車内は暖房が効いていて、とても手袋などしていられない暑さだったのだから。後部座席から運転席へ移る短時間だけ外に出るために、手袋をはめ直すなどどう考えても不自然だ。
その理由も今ならわかる。俺にマフラーを、真衣さん殺害に使った凶器を巻きつける時、自分の指紋を残したくなかったのだ。おそらく兄貴は俺と落ち合う前に着用物についた自分の指紋は全て消していた。注意してなかったから気づかなかったが、車内で着替える時も手袋は外さなかったはずだ。その上で最重要物であるマフラーを自然に俺に押し付けるため、慈愛に満ちた顔で俺の首に巻きつけた……
「人は首を絞められた時、振り解こうと必死に抵抗する。現に今回の被害者の首にも、被害者本人の爪による無数の引っ掻き傷が見受けられたわ。あなたのマフラーを調べさせてもらえるかしら。もしそこから被害者の皮膚や爪が検出されたら、決定的な物的証拠に、」
「うわああああああ」
女刑事の口上を遮るように、俺は叫んだ。この場から逃げなければと思い腰を浮かせかけたが、大柄な男刑事2人に左右から肩を押さえつけられ、ベッドから立ち上がることさえできなかった。
奇声をあげながらもがく俺を、女刑事は冷然とした眼差しで見下ろす。
「……話の続きは署で聞かせてもらおうかしら。一緒にきてくれるわね?」
質問の形をとった、それは命令だった。男刑事2人に両脇を持ち上げられ、部屋の外へと引きずられていく。
ジタバタと虚しいあがきを続けながら、俺の頭にあったのはさっき観た兄貴の姿だった。雪がちらつく廃工場の敷地内、兄貴は――あいつは満面の笑みを浮かべながら俺にこう言ったのだ。
「双子ってのはいいな。片方がピンチにおちいっても、もう片方が人身御供になることができる」
(了)